4この世界のこと

じーさんのフクシマ認識  その2

浜通りを仲間と一緒に見てきました。

日本どこにもない異様な世界にかわりはてていました。全国3位の面積をもつ福島の浜通り

・猫・カラス・小鳥・犬がいない。動くものがない。・音もない世界って本当に不気味ですね。日本どこにもない異様な世界にかわりはてていました。(いわきからの浜通り

 

見渡す限りの雑草、まったく見えないあぜ道。かって黄金色に輝いたはずの田んぼの今をみんなでみました。

・遠くに、フクシマ第1原発の排気塔が見えながら、漁とり40年のSさんは、海にカモメがいなくなり、港に魚のにおいがなくなった。人がいない瓦礫の海を前に語ってくれました。それぞれに失われたものの大きさ、奪ったものの、巨大さをおもいました

◎人々を寄せ付けないままの古里。ここは原発立地町

・冨岡駅線路の上に生い茂る雑草、真っ赤にさび付いたレール、傾いたホーム・朽ちた駅舎。ここは原発立地町。駅前商店街の壊れた多くの看板。人息の気配が全くない、繁華街と民家の惨状、 津波が根こそぎ奪った人家の跡・あと、跡・嗚呼ー・その上に蓄積した放射線、2年間人々を寄せ付けないままの古里。・持参した計測器がけたたましい音を立てた。関東で2年間図ってきたなかで最高の線量でした。匂いを音もない。海が目との鼻の先に迫っていました。

 

◎請戸の悲劇

・助かるのにむざむざ置き去りにされた犠牲の多い請戸の悲劇

・まるでお城のような痕跡を残す浪江町請戸小学校校舎、交付金の行き着いた姿・被災後のむざんな姿。300人の児童たちはいま全国27箇所に?・

上下2m断差が生じた

人が住まない楢葉町が一望できた。森の向こうにある第1原発。楢葉町の600年続いた宝鏡寺の墓地高台。高台からおりて小川に沿っていくと大断層2mの高段差ができているという。東電は原発建設にあたって断層があることを知っていたが3万年以上動いていないということで問題にしなかった。しかし今回の上下2m断差ができた事実で覆されることになった。福島原発周辺には3つのよく知られた巨大断層が走っているという。

・浜通りの病院で働いているKさんがここに連れてきたわけが痛いほど伝わりました。真実を知ってほしい、事態は厳しくなっている事実を、忘れないでほしいと。

安倍首相は国を代表して  福島の状況は「The situation is under control」(状況はコントロール下にある)と発言しています・「健康に対する問題はない。今までも、現在も、これからもない」。「私が安全を保証します。状況はコントロールされています」。「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされてる」。「福島近海でのモニタリング数値は、最大でもWHO(世界保健機関)の飲料水の水質ガイドラインの500分の1だ」。と

     福島の人たちは怒っていた。当日報道は汚染水は「打つ手がない」と報じていた。見え透いた嘘の破綻。

私は突き上げてくるような怒りがこみ上げてきます。同時に福島から学ぶ事の自覚不足です。

私たち東北・福島県外のものは、3・11から支援という言葉を使ってきました。尋常でない災害地に対して支援というのは人間として自然なことでした。しかし2年半を経過し、マスコミの取り上げも減少するにつれて支援の熱は冷めたかにみえます。しかしフクシマの事態が正しく伝わらないことで福島は風化被害に遭っています

「福島にいってきました」と街で知人にあって挨拶すると「もう福島は収まったの」の返事。 一瞬びっくりし福島認識の温度差に愕然としました。次にであった人もそうでした。福島双葉町から避難されて2年半のTさんも「まだいるの」の視線があるという。かくいう私も 避難されたかたの苦しみや・月1度の割でふくしま・宮城にいっているとしても福島の人の現実を知り理解していないのです。

しかしながら私らは福島の被災者のおかげで、というより尊い犠牲で原発事故の恐ろしさを実感してきました。その中でわたしは支援という言葉に違和感を感じ始めました。こうです。支援というと「当事者や当該地の外側にいる人からの支援です」が、一方的な支援は時が経つにつれ、継続的でなければ忘れられていきがちです。みんな忙しく、生活で精一杯だということもあるでしょう。 こういう中で 「 ただちに影響はない」から始まってフクシマは「収束した」とか「いまもこれまでも、これからも安全だ」、「世界1の技術持つ日本は輸出もできる」とときの首相のお墨付きがあり、マスコミは政府発表の情報中心のテレビや新聞に内容になってきました。国会議員の多数は原発推進を取すすめるようになった。フクシマの被災地と被災者から学び真相を知って一層運動を広げることが活路となっている。

政府の事実隠しは広島長崎の原爆投下直後から始まって68年後の今に続いている。死ぬべき人はみんな死んだとして放射線による内部被曝は長期間みとめてこなかった。9年後、第5福竜丸の船員の久保山さんが放射線を浴びてなくなったのを機に原水爆禁止運動(原水協)が始まった。被爆者運動(被団協)も始まった。世界はやっと放射線の恐ろしさを知るスタートにたった。政治は内部被曝を認めざるを得なくなったが、放射線の影響を「小さく」「狭く」「軽く」みせようと努めた。その中で原発への安全神話が作られフクシマ第1原発過酷事故につながった

原発ゼロは国民の圧倒的世論になった。が原発推進・原発輸出を掲げながら経済復興(アベノミックス)への支持で政権を取り原発再稼動・推進へ危険な道にこの国を導いている。原発反対の世論は安倍内閣の高い支持率よりはるかに高い(80%)。原発反対の声が一つになれば時代は変わりうると見ることだできる。困難ななか私たちは希望が見いだせる、そんな時代に生きている。 

ノーモア被爆者  「被爆者支援」でなく「被爆者から学ぶ」  自分のことだから被爆者に学ぶ

被爆者が必死に青年に語りかけて場面に出会ったことがある。ききいる青年たちは、もはや治る見込みのない被爆者がどうしてあんなに心を込めて私に語りかけたのか感想に書いている。「貴方にこんな苦しみを味わって欲しくない。私だけでもうたくさん」、被爆者にとっては孫のような青年を通して人間(命)の継承の希望を語っておられた様子がわかる。大切な{価値}を伝わった。以後この取り組みは30年続いて断えることはない。自分と仲間と人類のための活動だからだろう

フクシマの風化は未来を奪う。

現地に見る浪江・双葉、富岡などの町は警備などで厳重で外にブロックされていた。原発の作業に従事している人たちも同じだという。うっかり飲み屋で口をすべらせないように管理されっているという。「放射線はブロックされてない」 代わりに「人や真実がブロックされている」。行くたびに監視が強化さていることがわかる。真実がブロックされる嫌な時代の先取りだと感じた。

2年半をへても埼玉に6000人、千葉に3000人というふうに16万人が避難している。見知らぬ土地で支援が必要な方々が大半です。であえば風化の中フクシマの現実の一端を知ることができる。福島に現にお住まいの方の厳しさ、生・育・老・死に関わる生活環境は、あすの我が身とつながっている。行けば「いくらなんでもひどすぎる現実に出会えます、 支えあって生きる素晴らしさに出会えます」「集会に参加すれば元気がもらえます」それぞれのできることでの力を寄せ合って行きたい。福島に学び伝える活動・集会に私も参加しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

もっと病からの転換 

20101225_7

以下の文のゴシックのところを見てください。貴兄にふさわしい文ですがいかがでしょうか・

清水博という著名な生化学者で哲学者です。私がかって書いたもの(発想の転換同時代社刊)をほめてくれた方です。氏はこういっています

 人びとがより多く持つという方向に向かって社会はこれまで動いてきました

         (注 持つ…お金・もの・物質・地位・土地・学校歴・名誉etc  th 

しかしその動きをどこまでも続けていくと、やがて地球から様々な生きものを追
い出してしまうことになるために、このままでは人類に未来がないと、多くの人
びとが次第に感じるようになってきました。

 人間が地球を独り占めできるという考えは根本的に間違っているのです。しか
し人びとが働いている組織がグローバル化した資本主義経済の影響を受けて非常
に厳しい競争をしているために、どうすれば方向転換をすることができるか、そ
の方法がまだ見えていません。


 その一方で、東日本大震災を経験した日本では、多くの人びとの存在感情にす
でに変化がおき始めており、価値観が確実に変わっています。それは一度しかな
い人生の限られた貴重な時間を、何かをより多く持つことのために消費してしま
うよりも、生活のレベルを調節して時間的な余力つくり出し、それを貴重な人生
を充実して生きるために使う方が生き甲斐があると、考えるようになったのです。
そのことがライフスタイルや、余暇の楽しみ方を変え始めています


 人生の充実は贈りものです。それは、〈いのち〉の居場所としての社会に、も
っと一般的に言えば地球に、〈いのち〉を与贈した個人の人生に、その居場所か
ら「〈いのち〉の与贈循環」によって与贈される贈りものです。
 すでに個人の「〈いのち〉の与贈循環」にしたがって、人びとが多様な形で動
き始めていることに加えて、さらにインターネットによる生産者への注文と商品
の宅配というように市場を通さない個人的な流通経路も生まれているために、表
からは捉えにくい形ですでにお金が動いていると思われます。
 この〈いのち〉の与贈循環をともなっておきているこの多様な動きは、グロー
バル化した資本主義経済の「新幹線」に対して、いわば経済の「ローカル線」に
相当しますが、やがて次第に「ポスト資本主義経済」として成長して、危機にあ
る人類の未来を開いていく可能性があると、私は思っています

高橋   いかがでしょうかでしょうか。貴兄は 東日本大震災からはるか前からこのような先進的生き方でした。Yさんも。Tさんの双葉生活も・・・Oさんも・・K・T・Tさんも。

間違いですか。間違いなら反論を。  唸ってしまいます

Iroiro_001

Sdsc00391_1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

青い空 のもとに ふたつの現実

Dscf0120

S2012728_003

Sdsc02542

青い空 のもとに   ふたつの現実 2013-6-24快晴 6キロ先福島第1原発

0136_116

2年5か月たっても放射線のため廃船そのまま。浪江町請戸漁港

フクシマを忘れない。毎月11日JRyotukaidou駅頭での募金。単なるお金ではない浄財

全町民 21000人避難023

126

120

140人がこの地域で行方不明と公表された時もあった 。

ご遺体もさがせなかった。助けに入れなかった。置き去りにした

むごさ。浪江に情報を伝えないで逃げたと非難されている東電。

事の真相事態を解明する責任がある。

私は昨年防御服でここ後に立った。それから1年半ウィ経てまたたった。

友人はお経をあげた。涙の先の空はどこまでも青かった。6キロ先に第1原発

がみえた。青空にはもっとも醜悪なばめん。本当の青空を取り戻したい。

この地域に入るには請戸の被災者漁民の案内がひつようだった。国民・

人々から隔離された地帯。百聞はⅠ見にしかず。いっしょした方はこういっています

「。原発維持賛成者には、「福島の現場を見て!感じて!考えて!」と叫ぶことが最短、最良の一言ではなかろうか? それが私の今回のツアーで得た結論です。」と。

夢と希望は辛酸をなめた魂の中から生まれる。青空から生まれる。忘れまい

Sdscf00031

102_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

署名を

Photo

Photo_2 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

核抑止という名の恐怖の応酬

核抑止という名の恐怖の応酬

核兵器は何故増え続いたのでしょうか。そのわけを日本で始めてノーベル物理学賞を受賞された故『湯川秀樹博士』が数十年前に看破し警鐘していました。

「米ソの核軍備拡張が強まる方向に事態が進んできたのは、それは核抑止という誤った考え方にある」と述べています。平たく言えばたえず相手国に核報復を行うという威嚇を行うことにより相手方の攻撃を思いとどまらせる、そのために米ソは相手より優位に自分をおこうとして核兵器開発競争を続けてきました。その結果が26000発です。日本政府は被爆国でありながら 核抑止の名で「核の傘」に入ることを選択してきました。最近国会で明確になりましたが原爆もち込みまで密約で許してきました。私たちは核抑止という名の恐怖の中におかれてきことになりますた

冷厳な事実の前に

この間世界は幾度となく核戦争の瀬戸際に見舞われました。多くの歴史家が論証したように朝鮮戦争時に、キューバ危機時に、台湾海峡紛争で、ヴェトナム戦争時に、湾岸戦争で核使用の一歩手前までいきました。ソ連消滅後もアメリカは“正義のため”に核兵器の先制攻撃の権利を留保し核兵器保持、開発をバックに国際政治を進めてきました

悲願から希望へ

しかし核兵器は たった1発の使用でも敵味方関係抜きにすべてを殺戮し尽くし世界を破滅に落とし入れることが世界に知られるようになりました。核兵器の95%を持つアメリカとロシアにおいては核放射能被害が自国の兵士と市民を襲い始めました。アメリカはイラクから帰還した劣化ウラン弾に触れた兵士たちなどによって、ロシアはチェルノブイリ原発事故(ヒロシマをこえる惨劇ともいわれる)などによって。核兵器拡散や核テロの恐怖が核独占の為政者をも捕らえ始めました。

核兵器を『俺は持つが、お前はだめだ』という脅かし論理で世界を納得させることは出来なくなりつつあります。21世紀を核のない希望の世紀にするチャンスは皮肉にもこんなところから生まれるかもしれない。未爆者に置かれることを拒否する頑固さが活路を開く。無関心は平和の敵だが  人々をブラインドにしてきた為政者の要因の解明が急がれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大江健三郎氏とルモンドとの対談を 再度紹介します。

初めに

   翻訳者から以下のメールが知人に届いています

・・・大江氏とルモンドとの間に行われた対談・・・この対談の要趣は昨年の「世界」5月号に掲載されましたが、全文を和訳すべきではないか、と思い、ルモンド紙編集部から正式に許可を得ましたので、ここにフランス語からの全文をお届けします。記事の題は「対談:ノーベル文学賞受賞者、日本の良心を代表する作家は死者の記憶を裏切ってはならないこと、人間の尊厳を尊ばなければならないことを訴えています。大江健三郎『われらは犠牲者たちに見つめられている』」でした。

このメールは私の恩人、友人、また日本人による反原発のネットワークを介して広く配布してもよい、との許可をルモンド紙から戴いています。皆さんを通してこのメール、添付が更に広く行き渡ることを希望します。

                         村岡崇光

「われわれは犠牲者たちに見つめられている」

『先生のご意見では、日本の現代史において今度の災害がもつ意義はどこにあるでしょうか?』

過去数日間、日本の新聞はこの災害のことしか書いていません.全くの偶然なのですが、私が地震の前日に書いたものが3月15日の日刊紙「朝日新聞」の夕刊に掲載されました.その記事の中で、私は私と同世代のまぐろ漁船の船員で太平洋のビキニ環礁で行われていた米合衆国による水爆実験に巻き込まれて放射線を浴びた人の一生に触れました.私がこの人と会った時、私は18歳でした.彼はその後の生涯を核兵器の抑止効果という神話の虚構とその神話を歌い上げる人たちの傲慢さとの戦いに捧げました.この漁夫のことをまさしく今回の地震前夜に私が回想したというのは虫の知らせだったのでしょうか?彼は原子力発電所に対しても戦い、それが内包する危険を指摘しました.

わたしは、もうかなり前から三つのグループの人たちに焦点を合わせながら日本現代史をあとづけてみたいという企画を温めてきました.その3グループとは広島、長崎原爆の死者たち、ビキニの放射能被爆者たち..先ほど申しました漁夫はその生存者の一人でした―そして核施設での爆発事故の犠牲者たちです.この死者たち、核エネルギーの犠牲者たちに視点をあわせながら日本現代史を考察して行くと、彼らが巻き込まれた悲劇の実態が何であったかが見えてきます.

今私たちは、原子力発電所の抱える危険が現実となったことを知っています.今回の災害の実態を把握しようという私たちの努力がどういう形で決着するにしても、このような事故を阻止するために人間として可能な限りの努力が傾けられていることに敬意を表するにやぶさかではありませんが、この災害が何を意味するかについては一切の疑義を挟む余地はありません.

日本の歴史は新しい段階を迎えた、ということであり、私たちは苦しみの中にあって大きな勇気を示してくださった男女、核エネルギーの犠牲者たちの眼差しをまたもや受けている、ということです.今回の災害からどういう結論を引き出すことができるかは、これから生き続けて行くことを許されている私たちが同じ過ちを繰り返してはならないという決意の固さにかかっています.

『今回の災害は、絶えず地震の危険に曝されている日本と核エネルギーの内包する危険という二つの現象を極めて劇的な仕方で同時に示しています.前者は歴史開闢以来日本が向き合って来ざるを得なかった現実であり、後者は地震や津波よりも厳しい被害をもたらす危険をはらんでいますが、それは究極的には人災です.日本は広島の悲劇から何を学んだのでしょうか?』

私たちが広島の悲劇から学ばなければならない最も大事なことはあのとき即死した男女、生き延びはしてもその後何年にもわたって心身両面の苦痛に耐えなければならなかった人々の人間としての尊厳です.私の著作の中のいくつかでこのことを明らかにしよう、としたつもりです.

原爆の火を浴びた日本人は核エネルギーのことを生産性というような点から考えてはいけなかったのです、広島の悲劇的体験の中に経済成長のためのレシピーを求めてはならなかったのです.地震、津波、またその他の天災の場合と同じように、広島の体験を人類の歴史のなかにしかと刻むべきなのです.これは人間自身が作り出した災害ですから、天災よりは遥かに劇的な災害です.人間の命の尊さを無視し、原子力発電所を操り、かつてと同じ誤りを繰り返す、ということはすでに他界された広島、長崎の犠牲者たちに対する最悪の裏切り行為に他なりません.

先に言及しましたビキニのマグロ漁船の乗り組み員は原子力発電所廃絶を要求してやみませんでした.現代日本の最大の思想家のひとりである加藤周一(1919.2008)は原爆と、人間が抑制できなくなってしまった原子力発電所のことに触れながら、今を去る1000年以上前に書かれた清少納言の「枕草子」の一節を引用しています.著者は、遥か遠くにあるように見えて、同時に極めて身近なことについて語っています.核の悲劇は想定外の、遥か彼方の可能性にしか思えないかもしれませんが、しかし絶えず私たちの近くにあるのです.が日本政府に明確な政策決定を要求しています.日本が決定を先送りできた贅沢な時代は最早過去のものとなりました.

『敗戦から60年、日本はあの時誓った決意、つまり憲法に謳われた平和主義、武

力放棄、非核三原則を忘れたかに見えます.今回の災害は批判的な良心の覚醒を促す、とお考えになりますか?』

敗戦時、私は10歳でした.一年後、新憲法が公布され、時を同じくして教育基本法が制定され、憲法の基本線が子供でも理解できるような形で書かれていました.敗戦に続く10年間、武力に訴えることを放棄するという一項をも含む平和憲法、さらに非核三原則(核兵器をもたず、つくらず、持ち込ませず)が戦後日本の基本的理念をほんとうに表現したものであろうか、ということを絶えず自らに問い続けました.当時青年であった私がこの点について何らかの疑いを抱いていたら、当然のこととして大人たちはこの問いを自らに対して発していなければならなかったはずです.

現実には、日本はなし崩し的に再軍備し、米国との秘密協定によって核兵器が日本

列島に持ち込まれ、公式にお墨付きをもらっていた非核三原則は事実上空文句となりました.だからといって戦後世代の理想が放棄された、ということにはなりません.日本人は戦争中の苦しみ、原爆のことをなおも記憶にとどめていました.私たちを見つめていた死者たちは私たちが上記のような理想を尊重し続けることを要求しました.広島、長崎の犠牲者の記憶は政治の現実を楯にとって核兵器の有害性を過小評価することを許しませんでした.私たちはそのような現実主義には反対します.と同時に事実上の再軍備、米国との軍事協定を許容したのです.ここに今日の日本の曖昧さがすべからくさらけ出されています.

年が経つにつれて、平和憲法、再軍備、米国との軍事協定の混在から生まれるところのこの曖昧さはいよいよ強固なものにならざるを得ませんでした.敗戦時の平和主義の誓いに私たちは実質的な内容を織り込まなかったからです.アメリカの核抑止力の有効性を信頼しきった日本人は、アメリカの核の傘の下に安住する日本の態度の曖昧さをその外交政策の基軸にまで押し上げたのです.アメリカの核抑止力に対する安心感は超党派的な性格を帯びることとなり、2010年8月、広島被爆者追悼のとき、ときの民主党総理鳩山由紀夫が、米国代表が核兵器の危険性を指摘したにも拘らず取った態度に明白でありました.

福島原発事故を通して日本人が広島、長崎の犠牲者たちの気持ちを汲み取り、核の

危険を再認識するようになることを願わざるを得ません.われわれはこの危険を再び新たに体験したのであり、核兵器を所有する大国が唱えるところのその抑止力の有効性という神話を永遠に葬りたいものです.

『先生は1994年のノーベル文学賞受賞講演に「曖昧な国日本から来た私」という題を付けられましたが、「曖昧な日本」という表現は今でも妥当するでしょうか?』

私があのとき指摘した日本の曖昧さは現在日本で起こっていることによっていよいよはっきりしてきました.現時点において、その曖昧な日本が固守すべき価値観は完全な行き詰まり状態に陥っています.曖昧さの反対は明確さです.

1994年に私が曖昧な日本について語った頃は、私の祖国は選択や明確な政策決定をまだ引き延ばすことのできる、つまり曖昧さの中に安住するという贅沢を享受できるありがたい時代でした.日本は、決済日の指定されていないこういう状態が他の国々からも受け入れてもらえるものと考えていました.それがために、自らの歴史を認めることもせず、今日の世界における責任をとることもしませんでした.

政治の面におけるこの不明確さを許容出来ると考え、経済分野においても同じ姿勢を取り、最終的にどこへ行き着くかが分からなくてもかまわないような政策を採用し、その結果が90年代初頭のバブル経済の破綻ということになったのです.

今や日本は態度決定を迫られています.中国からも、アジアの他地域に対して責任をとるようにプレッシャーがかかっています.日本列島の中で米軍の基地が最も集中している沖縄の住民たちも彼らの領域に駐留している米軍の存在に関して日本政府が明確な方針を打ち出すことを期待しています.米軍基地としての沖縄というこの状況は日本人のみならず、米国人にとっても最早受け入れがたいものです.いまこそこの基地の役割を明確に規定し直すべき時です.選択に融通性をもたせておくことは最早許されません.沖縄戦の犠牲者たちが日本政府に明確な政策決定を要求しています.日本が決定を先送りできた贅沢な時代は最早過去のものとなりました.

『先生の作品の一つである「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」という題にど

う答えるべきか、と問われたら、いまどういう回答をなさいますか?』

私があの作品を書いた時、私は、世間でいうところの成熟した年齢に達していました.現在の私は人生の第三段階に入っており、「最後の小説」を執筆中です.もし私が現在のこの狂気をうまく生き延びることができたら、その作品はダンテの「神曲」の中の地獄篇の最後の一節の引用をもって書き出すつもりです.そこには「それから、われわれは外に出て星を眺めよう」というようなことが書いてあります.

ルモンド紙東京特派員:

PHILIPPE PONS

訳:村岡崇光

オランダ、ライデン大学名誉教授

| | コメント (0) | トラックバック (0)

原発で避難を指示され 余儀なく愛犬   [餌を運ぶ犬」

[餌を運ぶ犬」

餌を運ぶ犬

で検索ください。TBSで紹介された。感動。

フクシマ原発で避難を指示され余儀なく愛犬を計画避難地に

おいてきた。その方の子供さんがテレビを見ていた時、愛犬が

映っているではないか。早速TBS ni電話。そのいきさつは

涙を誘う...atowa.検索してください。

S2012_1130_105

飼い主さんに連れて行ってもらった時に撮った写真

S2012_1130_029

S2012_1130_010

S2012_1130_014_2 

S2012_1130_023

S2012_1130_024

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

避難された双葉郡の方との対話から

避難された双葉郡の方との対話から

Aさん、何もすることなくなってね、

僕   11町歩も出有機米作ってたんだってね

Aさん、 有機米を郵送で全国各地におくっていた。避難当日も300袋を送る手はずにしていた。

僕    そのままにして、とりあえず逃げろと言われてここに・・・・

Aさん 7月1日帰宅を1時間許されて帰ったら、コメの倉庫は イノブタの住処。米はまるで砂を引いたようになっていたメチャクチャ。

奥さん もう帰れなくなりました。息子が仕事をやめて、有機米作りを一生の仕事にしようと準備が整っていたのに。

この人、気力を亡くしてしまって・・・炬燵に入りっぱなし。

僕   おつらいでしょうね、お孫さんどうしてますか

何度か行き来をしてきたが、こんな会話は昨年のくれ頃でした。その後何度か一緒に散歩しています。

散歩の中で先祖7代にわたって、土とともに暮らしてきた人にとって、農業を離れることが、どんなに大変で辛いことか伝わってきます。

農業を知らない都会にばかり住んできた私には想像を超えるものです。先のみとうしなく、人生を切断され、農業でつながる町の仲間との絆がずたずたになってしまった。写真を見せてもらった。美田だったに違いないところでトラクター運転中のAさんの姿だった。耕す土地があるのに耕せない、息子と一緒に働けない…本人はなにも悪いことをしたことがないのに・・いまこれまで縁もゆかりもなかった4街道にいることになってしまった。

もともと東電の原発がなければこんなことはなかったのだ。 広島の原爆で内部被ばくで苦しんできた方に会うたびに 「戦争さえなかったら原爆はなかったのに」という気持ちになった。

今度こそ原発は廃炉にという思いは切です。

Ss_914_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ふくしま宣言、全世界へ

転送です。

ふくしま宣言、全世界へ 知事「再生エネ推進」

S201216_069

 東京電力福島第1原発事故を受け、福島県の

佐藤雄平

(

さとう・ゆうへい

)

知事は11日、再生可能エネルギーを推進し、原子力に頼らず発展する社会を目指すとした「ふくしま宣言」を全世界に向けて発信した。県はホームページに英訳も併せて掲載する。

 この日、福島市で県主催の追悼式に続いて開かれた、震災と原発事故からの復興に向けたシンポジウムで発表した。

 宣言は「原子力を扱うことの難しさと正面から向き合ってきたか」などと自問自答した上で「二度とこのようなことが起きないよう、県内の原発を全て廃炉とすることを求めながら、再生可能エネルギーを推進する」としている。

 最後に「私たちは必ず、美しいふるさとふくしまを取り戻します。活力と笑顔あふれるふくしまを築いていきます。このふくしま復興の姿を世界へ、未来へと伝えます」と結

んでいる。

ふくしま宣言 誓いを全力で支えよう 0313日(火)

 「再生可能エネルギーを推進し、原子力に頼らずに、発展し続けていくことができる社会を目指します」

 福島県の佐藤雄平知事が、11日に発信した「ふくしま宣言」の一文である。あらためて脱原発の姿勢を鮮明にしている。

 科学技術の力を過大に評価していなかったか。原子力を扱うことの難しさと正面から向き合ってきたか。知事の自問は、私たち一人一人に向けられている。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

追悼no意味    その人になってみて 想像できるだろうか。再掲

犠牲者・被害者の身になって

東北3県で両親を失った子 240名、

東北3県で 母親、父親を失った子供の数1323人

子どもの犠牲者       542名

転校を強いられたこども 25、751

   昨年9月22現在・文科省発表の数字です。

    放射線の中の子供たち

子どもを失った親、親を失った子供状態やきもち、遺体を目撃して心に傷を負った子供たち。家族をばらばらにされた人たちの苦しみ。母親たちの悲しみ、高齢者の寂寥感、生きる不安、生活基盤を確立できない、心身疲弊の死を迎える人、 自殺に追い込まれた農民、故郷を追い出され家族をばらばらにされたひとたちの途方の心情。   そして安全だと騙されてきた東電、政府へのいかり。

私はその人の身になってみて、想像できるだろうか。

明日はわが身、愛する人に降りかかる可能性の高い日本

54基の原発   地震列島の上で共存できるかも含めて想像すること。

物言わぬ、ものいえぬ日本社会を許してはならない、と決意できるだろうか

昨夜子供家族と、石巻の映像を見、見てきた想いを伝え、実兄が女川原発に近い町で低体温でなくなり10日目に発見されたことを黙とうのあとでかたりあった。中学生の孫はリスク社会の中で生きる事を理解したようだ。たくましく生きてあれ、孫たちよ。楽しみとユーモアを持って苦難をはねとばせ、

弱い人たちに役に立つためにこそ勉強し成長せよ

   以上2012-3-11夜記す i以下昨年6月にかいた追悼記の再掲。

   

20日 早朝 8時に 出会った事を語りたい。

場所は千葉市斎場。千葉市緑区平山町。

この日 36人の方が荼毘にふされた。陸前高田の震災犠牲者であった。

私は たまたま知りあいからの知らせでたち会わせていただいた。

S226_001

         その日、朝の荼毘

火葬入り口回廊に横付けの大きな車2台が遠くに見えた

その車からご遺体の御棺が一体 一体と降ろされ台車に載せられて廊下を横切り、私たちの視界から消えていく。ご遺体が廊下に見えるたびに10人に満たない人たちがご遺体にむかって手を合わせた。そこは立ち入り禁止の簡易柵の外側であった。ご遺体から60~70mもはなれていただろうか。花が3束手向けのために用意されていた。Ss20_011

荼毘に付された36人のお骨がおなじ台車で 再び車の中に安置された。終了を待って車2台が私たちの横をとおって視界から遠ざかっていった。後を岩手ナンバーの乗用車1台、目礼してすぎていった。そのとき斎場から離れたところに自発的に立ち会った10人の和尚さんの読経が静かに流れていた。 早く岩手にかえってなつかしい高田にめぐり合ってほしい、そんな思いで手を合わせた。御骨は400キロ以上離れた陸前高田にむかっていった

        それまでの普段の暮らし、培ってきた絆が

この間どのぐらいの時間が経過したことだろう。ご遺体が運ばれ視界から消えていくごとに思いが重なっていく。棺のご遺体は3月11日までいいおバーちゃんだったにちがいない。この棺は甘えん坊の男の子。次の棺にはおっかない親父さんかな。この棺は漁師さん。家族との食事を楽しみに魚を取っていたかもしれない。

3月11日までは一人ひとりには当たり前の暮らしがあった。普段着姿のやんちゃな子供といいおじいちゃん。おじいちゃんには漁業の町を背負った履歴があった、りもあったことだろう。

しかし「次の日この人たちは突然 流され、つぶされ、身元不明になっていった」。

今日の火葬を私に知らせてくれたMさんは帰り道 そうつぶやいた。私も同じ思いだった。今もこのご遺体の肉親友人は安否を求め、海岸や瓦礫の中を捜し求めているに違いない。つづけてMさんはいう。ご遺体の肉親の人たちは「このご遺体が、岩手を遠く離れ、これまで無縁だった千葉の地でこうしてお骨になったことすら知らないかもしれない・・・・」

あまりにも不条理、むごい。自分が生きてきた証を認めてもらうこともなく、500キロも離れた見知らぬ千葉で、 600体が 焼かれ  見送る人もなく 大型のトラックで運ばれていく。緊急のやむをえない事情は理解できる。しかし千葉の地で追悼することは出来る。追悼に見えられたのは近隣の市長ではひとりだけだった。これでは浮かばれないではないか。

    福祉を貫くことが真の復興。Mさんが語ってくれた

私はMさんに話しかけた。「どうしてあなたが火葬追悼を取り仕切るようになったのか。わかるようなきがしてきた」。

自分からかって でたんだよ。~~~」「「せめて花だけでも手向けたかった」・・。

Mさんは神戸と 新潟長岡と 東北で 三度震災地で被災者救済に向き合った人だった。阪神淡路大地震のとき生協で店長を務め、当時神戸にあって千葉の房総から被災者に大量の花を贈ってもらったこと。お礼にと千葉にきて引きつづき生協の働き手になった。

定年後 経験を買われて全国各地に呼ばれて防災体験を語っている。四街道の自治会などにも呼ばれているという。今回も地震直後から3月末まで仙台に滞在し千葉に戻ったばかりだった。私は久しぶりで千葉市斎場で会うことになった。

この日の体験をとうして私は「大震災がもたらした災害」からの「復興は」

人々がどれだけ深く犠牲者を「追悼」できるかにかかわると思った。日本全体が悲劇を目の当たりにしている。被災地の様子は先日石巻の現地を訪ねたときに受けた悲劇の迫力。被災地のかたがたの艱難は想像に絶する。被災地、被災者ではない私のようなものでも1000分の1でも想像は出来る。想像できるのも人間ならばのこと。被災者や、支援体験者から聞くことで想像が膨らむのも人間なのだ。私はこれまで、このように「人間」に限りない信頼を置いてきたであろうか。

           追悼の意味

犠牲者を「追悼」する中で 犠牲者を自分に置き換え、或いは愛するものに置き換えてみることで支援は単なる復旧支援の作業を超え人道支援になっていくのではないか。

阪神淡路大地震のとき「被災地に生協あり」と全国に報道された。それは「被災地に福祉あり」に近かった。パンや水の生活必需品がすべての被災者に、そして不幸な犠牲者のために何百の棺も用意され安置の場所となった。仮説住宅の土地も提供した。人道的な支援が地域社会の共感を呼び人々は再び生協を支えた。

これより先、人道支援が長期に出来る企業,行政、NPO、個人こそ よりよくいきる活路を開いていくと思う。 被災地での判断は「命」にとって「いいか」「悪いか」しかないと彼は言い切った。支援するにも、書類や手続きを要求する行政。異常事態なのに臨機応変の行動を許さない官僚組織の垣根。働くものの感受性を見殺す組織病。その弊害が目立ってみえた期間であったのだが、にもかかわらず「状況を認識する」ことで人は変わっていくことが出来ると確信した。それは追悼の機会をいただいたことにもよる。かつて阪神淡路大地震直後の4日間 私は被災地を歩き、おびただしい犠牲者の存在を知った。追悼の小さな花が手向けられていた。M氏のいまをつき動かしているのは阪神淡路震災時の追悼の深さではなかろうか。

26日 7時30から 千葉市斎場で 犠牲者の荼毘追悼がおこなわれるという。房総から寄せられた花を持って参列しようと思う。

昨年   自発的に参加したV。

1周年を迎え読み返してみた

追悼   

20日 早朝 8時に 出会った事を語りたい。

場所は千葉市斎場。千葉市緑区平山町。

この日 36人の方が荼毘にふされた。陸前高田の震災犠牲者であった。

私は たまたま知りあいからの知らせでたち会わせていただいた。

         その日、朝の荼毘

火葬入り口回廊に横付けの大きな車2台が遠くに見えた。

その車からご遺体の御棺が一体 一体と降ろされ台車に載せられて廊下を横切り、私たちの視界から消えていく。ご遺体が廊下に見えるたびに10人に満たない人たちがご遺体にむかって手を合わせた。そこは立ち入り禁止の簡易柵の外側であった。ご遺体から60~70mもはなれていただろうか。花が3束手向けのために用意されていた。

荼毘に付された36人のお骨がおなじ台車で 再び車の中に安置された。終了を待って車2台が私たちの横をとおって視界から遠ざかっていった。後を岩手ナンバーの乗用車1台、目礼してすぎていった。そのとき斎場から離れたところに自発的に立ち会った10人の和尚さんの読経が静かに流れていた。 早く岩手にかえってなつかしい高田にめぐり合ってほしい、そんな思いで手を合わせた。御骨は400キロ以上離れた陸前高田にむかっていった

         それまでの普段の暮らし、培ってきた絆が

この間どのぐらいの時間が経過したことだろう。ご遺体が運ばれ視界から消えていくごとに思いが重なっていく。棺のご遺体は3月11日までいいおバーちゃんだったにちがいない。この棺は甘えん坊の男の子。次の棺にはおっかない親父さんかな。この棺は漁師さん。家族との食事を楽しみに魚を取っていたかもしれない。

3月11日までは一人ひとりには当たり前の暮らしがあった。普段着姿のやんちゃな子供といいおじいちゃん。おじいちゃんには漁業の町を背負った履歴があった、誇りもあったことだろう。 

しかし「次の日この人たちは突然 流され、つぶされ、身元不明になっていった」。

今日の火葬を私に知らせてくれたMさんは帰り道 そうつぶやいた。私も同じ思いだった。今もこのご遺体の肉親友人は安否を求め、海岸や瓦礫の中を捜し求めているに違いない。つづけてMさんはいう。ご遺体の肉親の人たちは「このご遺体が、岩手を遠く離れ、これまで無縁だった千葉の地でこうしてお骨になったことすら知らないかもしれない・・・・」

あまりにも不条理、むごい。自分が生きてきた証を認めてもらうこともなく、500キロも離れた見知らぬ千葉で、 600体が 焼かれ  見送る人もなく 大型のトラックで運ばれていく。緊急のやむをえない事情は理解できる。しかし千葉の地で追悼することは出来る。追悼に見えられたのは近隣の市長ではひとりだけだった。これでは浮かばれないではないか。 

    福祉を貫くことが真の復興。Mさんが語ってくれた

私はMさんに話しかけた。「どうしてあなたが火葬追悼を取り仕切るようになったのか。わかるようなきがしてきた」。

自分からかってでたんだよ。~~~」「「せめて花だけでも手向けたかった」・・。

Mさんは神戸と 新潟長岡と 東北で 三度震災地で被災者救済に向き合った人だった。阪神淡路大地震のとき生協で店長を務め、当時神戸にあって千葉の房総から被災者に大量の花を贈ってもらったこと。お礼にと千葉にきて引きつづき生協の働き手になった。

定年後 経験を買われて全国各地に呼ばれて防災体験を語っている。四街道の自治会などにも呼ばれているという。今回も地震直後から3月末まで仙台に滞在し千葉に戻ったばかりだった。私は久しぶりで千葉市斎場で会うことになった。

この日の体験をとうして私は「大震災がもたらした災害」からの「復興は」

人々がどれだけ深く犠牲者を「追悼」できるかにかかわると思った。日本全体が悲劇を目の当たりにしている。被災地の様子は先日石巻の現地を訪ねたときに受けた悲劇の迫力。被災地のかたがたの艱難は想像に絶する。被災地、被災者ではない私のようなものでも1000分の1でも想像は出来る。想像できるのも人間ならばのこと。被災者や、支援体験者から聞くことで想像が膨らむのも人間なのだ。私はこれまで、このように「人間」に限りない信頼を置いてきたであろうか。

           追悼の意味

犠牲者を「追悼」する中で 犠牲者を自分に置き換え、或いは愛するものに置き換えてみることで支援は単なる復旧支援の作業を超え人道支援になっていくのではないか。

阪神淡路大地震のとき「被災地に生協あり」と全国に報道された。それは「被災地に福祉あり」に近かった。パンや水の生活必需品がすべての被災者に、そして不幸な犠牲者のために何百の棺も用意され安置の場所となった。仮説住宅の土地も提供した。人道的な支援が地域社会の共感を呼び人々は再び生協を支えた。

これより先、人道支援が長期に出来る企業,行政、NPO、個人こそ よりよくいきる活路を開いていくと思う。 被災地での判断は「命」にとって「いいか」「悪いか」しかないと彼は言い切った。支援するにも、書類や手続きを要求する行政。異常事態なのに臨機応変の行動を許さない官僚組織の垣根。働くものの感受性を見殺す組織病。その弊害が目立ってみえた期間であったのだが、にもかかわらず「状況を認識する」ことで人は変わっていくことが出来ると確信した。それは追悼の機会をいただいたことにもよる。かつて阪神淡路大地震直後の4日間 私は被災地を歩き、おびただしい犠牲者の存在を知った。追悼の小さな花が手向けられていた。M氏のいまをつき動かしているのは阪神淡路震災時の追悼の深さではなかろうか。

26日 7時30から 千葉市斎場で 犠牲者の荼毘追悼がおこなわれるという。房総から寄せられた花を持って参列しようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)