3この国のこと

  福島被災地・被災者を世の光に

9月に泊りがけで 千葉の友人24人と一緒にフクシマ浜通りを見てきました。

日本どこにもない異様な世界にかわりはてていました。全国3位の面積をもつ福島県

・猫・カラス・小鳥・犬がいない。動くものがない。・音もない世界って本当に不気味ですね。人もいない、延々と続く昼しか戻れない、朽ちていく住宅街をすぎると見渡す限りの雑草、(いわきから新南相馬の浜通り

まったく見えないあぜ道・破壊された用水路。かって黄金色に輝いたはずの田んぼの今をみんなでみまた。バスの中は静まり返っていきました。

・遠くに、フクシマ第1原発の排気塔が見えながら、漁とり40年のSさんは、海にカモメがいなくなり、港に魚のにおいがなくなった。人がいない瓦礫の海を前に語ってくれました。それぞれに失われたものの大きさ、奪ったものの、巨大さをおもいました

◎人々を寄せ付けないままの古里。ここは原発立地町

・冨岡駅線路の上に生い茂る雑草、真っ赤にさび付いたレール、傾いたホーム・朽ちた駅舎。ここは原発立地町。駅前商店街の壊れた看板たち。人息の気配が全く消えた、繁華街と民家の惨状、 津波が根こそぎ奪った人家の跡・あと、跡・嗚呼ー・その上に蓄積した放射線が2年間人々を寄せ付けないままの古里。・持参した計測器がけたたましい音を立てた。2年間図ってきたなかで最高の線量でした。匂いを音もない。海が目との鼻の先に迫っていました。

◎浪江町請戸の悲劇

・助かるのにむざむざ置き去りにされた犠牲の多い請戸の悲劇・放射線でおおくのご遺体を長期間放置されたところ。504軒・阿鼻叫喚・合掌の体がふるえました(写真添付)

・交付金でつくられたまるでお城のような痕跡を残す浪江町請戸小学校校舎、被災後のむざんな姿。300人の児童たちはいま?ふるさとをおわれ全国二七箇所にわかれたままという。この近くの漁民で当日案内されおSさんの家はこのちかくだった。たまたま不在で助かったが、屋敷は見る影もない壊滅。ここに来るのも検問、けんもん・

上下2m断差が生じた

人が住まない楢葉町が一望できた。森の向こうにある第1原発。楢葉町の600年続いた宝鏡寺の墓地高台。高台からおりて小川に沿っていくと大断層2mの高段差ができているという。東電は原発建設にあたって断層があることを知っていたが3万年以上動いていないということで問題なしにしたという。しかし今回の上下2m断差ができた事実でくつがえされた福島原発周辺には3つのよく知られた巨大断層が走っているという。ここのお坊さん夫妻は30年以上警鐘を鳴らしつづけてきた。震災人災後、町長は「きみの言うとおりになってしまった」とお坊さんに話したという。いわきに障害者12人を連れて逃げたぼうさんだった。書いたものをいただいた。環境関係者に何らかの形で紹介いした

・浜通り育ちで当地の病院で働いているKさんが私たちをここに連れてきたわけが痛いほど伝わりました。真実を知ってほしい、事態はブロックされ隠されているが・厳しくなっている事実を、忘れないでほしいと。

安倍首相は国を代表して オリンピック招致で 福島の状況は「The situation is under control」(状況はコントロール下にある)と発言しています・「健康に対する問題はない。今までも、現在も、これからもない」。「私が安全を保証します。状況はコントロールされています」。「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされてる」。「福島近海でのモニタリング数値は、最大でもWHO(世界保健機関)の飲料水の水質ガイドラインの500分の1だ」。と

     福島の人たちは怒っていました。当日報道は汚染水は「打つ手がない」と報じていて見え透いた嘘の破綻。

小泉元首相も原発ゼロを言いだしました(10月2日報道)。いくらなんでひどすぎるからだろうか。氏のこれからの行動を見ていきたい。あとから省みてこんなはずじゃなかったと悔やまないで済むような生き方を小泉さんも求めているのかなー。フィンランドの一〇万年間閉じ込めるオンカロを見て核の廃棄物は捨てられないと思ったのでしょうか。「百聞hは壱見はにしかず」フクシマから学ぶことが大事だと思って帰ってきました。

フ ク シ マ 

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アベノミックス     アベノウソミックス  見てきてわかったウソ

アベノウソミックス

福島の状況は「The situation is under control」(状況はコントロール下にある)と発言した

「私が安全を保証します。状況はコントロールされています」。

「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされている」。

「福島近海でのモニタリング数値は、最大でもWHO(世界保健機関)の飲料水の水質ガイドラインの500分の1だ」。

「健康に対する問題はない。今までも、現在も、これからもない」。

 福島の人たちは怒っていた。現地を垣間見たわたしたちも、明らかな「ウソ」だということがわかった。

汚染水は「打つ手がない」

小泉元首相も原発ゼロを言いだした(10月2日報道)。いくらなんでむひどすぎるからだろう

9月28~29  原発事故避難指示解除準備地域にて

◎車窓から見る光景、磐木から廣野、楢葉から冨岡町へ 南相馬小高から村上海岸へ

・猫がいない。カラスがいない。小鳥がいない。

・犬もいない。動くものがない。たまにすれ違う公用自動車・警察ナンバー。

・音も、動くもの一切ない世界って本当に不気味です。次第に車内の23人仲間も静かにになっていく

この日、日曜なのに人影が全くない。日本どこにもない異様な世界の浜通りここが収束宣言のフクシマなんだと???

◎浜通りの水稲地帯、車窓の右左に流れる田園地帯の景色は

・見渡す限りの雑草、縦横高低構わずに生い茂る雑草の海原。

・壊れたままの用水路、まったく見えないあぜ道。かって黄金色に輝いた田んぼの今

・ここは由緒ある井田川干拓地、全国向けの銘柄米がとれたところでした。

・ご飯と魚がよく合ってうまい。この地で漁とり40年の漁師さんは、海にカモメがいなくなり、港に魚のにおいがなくなったと語る。すべてが奪われた、先がない農漁民。生業と、獲る楽しさ奪われた人たち。静かな怒りの語り口。

失われたものの大きさ、奪ったものの巨大さをおもう。

遠くに、フクシマ第1原発の排気塔が見えた。(写真)

          ここが避難指示解除準備地域なんだと???

◎海岸線 そして 海と並行する常磐線、

・線路の上に生い茂る雑草、真っ赤にさび付いたレール、傾いたホーム・朽ちた駅舎、ここは原発立地地冨岡町の駅。2年間人を寄せ付けなかった放射線まみれの駅舎。海が目との鼻の先に迫っている。ここは原発立地町。

・かっての賑やかさを伝える、駅前商店街の壊れた看板たち。

人息の気配がまだ残るかのように、繁華街と民家の惨状、 

・津波が根こそぎ奪った人家の跡・あと、跡・嗚呼ー・その上に蓄積した放射線、人々を寄せ付けないままの古里。

・持参した計測器がけたたましい音を立てた。つかって2年、初めて見た最高に高い線量測定器(写真)

・ここは4月から昼だけ住民が戻れるようになった地。福島浜通りの知人がこの地に案内したわけがわかりました。・収束したという政府のプロパガンダのアベノウソノミックスがすぐばれる現実が目の前にありました。怒りを秘めた説明が続く。

つづく・・以下の項目で実地に見たことをお伝えします。

○助かるのにむざむざ犠牲になった請戸の悲劇(写真)

○東電が寄贈したお城のような浪江町請戸小学校校舎の被災後の姿。300人の生徒は逃げ切り全国28か所に離散した学校、原発が行き着いた究極の姿がありました。)。

楢葉町の600年続いた宝鏡寺、住職が12人の障がい者を磐木まで誘導避難。仮設住宅に居住。4月から日中だけ住民は入れるようになった。案内され裏山の墓地に上ると楢葉町が一望できた。第1原発は森の向こうにある、隠れて見えないが近くにあるのは確かだった。

 まず驚いたことは当地は震源地から130キロと近いのに墓石は倒れていないことだった。3・11後震源地から120キロの宮城県女川原発からほど近いお寺の墓地はことごとく墓石が倒れていたのを見ていたのでびっくり。

しかしさらに驚く事実に直面。お寺の墓地へ登り口付近を流れる小川に沿って実は大断層が走り3・11の地震で2mの段差ができているという。寺側は微動だにしなかったのに反対側は2mの段差が生じたのであった。東電は原発建設にあたって断層があることを知っていたが3万年以上動いていないということで問題にしなかった、という。しかし今回の上下2m断差ができた事実で覆されることになった。

福島原発周辺には3つのよく知られた巨大断層が走っているという・(赤井・双葉・湯のたけ断層。この地に詳しいK氏の説明は熱がこもっていた。

とまれ!日本は世界の地震の10%を引きうけている。欧米の2000倍の地震発生率の国。今回の福島視察で日本の国土は活断層の巣である。ことがわかった。ひとたび事故に直面したら途方もない事態に陥ることも実感した。アメリカはスリーマイル事故以来三〇年間今日まで原発はっ一つも作っていない、その間、日本はアメリカの技術と核燃料提供によって作り続け世界最大級の54基となっていった・そのうち福島に10基が展開。この地は高濃度汚染水が漏れ続けている。おさえる技術はない。さらに使用済み核燃料を抱え今も余震が続いている。人口3000万の首都圏には首都圏直下型地震のエネルギーが蓄積している。昨年首都圏直下型地震の発生確率は77%に引き上げられた。東海原発は東京まで100Kいないの地域にある。氏は言う。福島は安全神話の風圧に閉じ込められてきた。福島で作った電力は福島では1wもつかっていないと。、福島の犠牲は日本国民の犠牲に先行した犠牲で示した警鐘であった。

つづく。 

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  日本国憲法   今 声を出して  かみしめたい  

日本国憲法

前文

・・・・そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その権利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。・・・・・・・・われらh、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと勤めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。・・

第二章 戦争の放棄

 「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」

第9条     日本国民は、正義と秩序を貴重とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、、永久にこれを放棄する。

    前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これをほししない。国の交戦権は、これを認めない。

第3章     国民の権利及び義務

「国民の基本的人権の永久不可侵性」

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。

「個人の尊重」

第13条 すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しないかぎり、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする

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 房総沖大地震  90年前の9月1日 

房総沖大地震

90年前の9月1日

1932年9月1日、関東南部を襲った巨大地震は、南関東を中心に潰滅的な被害を与えました。

瞬時に、死者9万9000人、

行方不明4万3000人,

倒潰家屋12万8000戸という途方もない大災害をもたらしたのです。

安房地域では1,206が亡くなり、

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いかに悲惨だったか、たとえば館山湾に面した現館山市域では98%の建物が壊滅しています。

その後M8.0前後の震源地東南海・南東海沖地震・房総沖地震におわれています。

 時が下り現代の日本は、金銭価値中心の経済成長をとげ、東京湾岸の都市に人口が集中して、京葉コンビナートなど大工業地帯が形成されてました。

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湾岸地域は埋め立て地の人口の密集地です。

埋め立て地はガス・ガソリンの大量に蓄積地です。巨大な化学コンビナート地です。100キロ先には東海原発があります。

すでに多くの地震学者は房総半島の南海沖一帯には、著しい地震エネルギーの蓄積が認められ、近い将来、巨大地震発生の可能性があると警告しています

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私らの世代は歴史上の巨大地震の直撃をほとんど想定できません。直撃の地震を受けた経験がないだけに、現在、関東大震災と同じ東京湾周辺で再び発生した場合、その被害は想像を超える甚大を極めるものと考えられます。フクシマ原発の危機については終息宣言をした政府のもとで、風化させています

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さてどうしたらよいか。

過去の経験を掘り起し教訓を導き出す。日本に住む以上、地震を止めることができない。さけてとおることもできない。

  犠牲を少なくする減災の知恵を探り共有することが大事だと反省する。人災は人が起こすのだから、人が止めることがでキル。原発はもちろんやめる、やめさせる。デモもできる。

災害の敵は無関心

手ごろな本を探してみた050

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9月1日の学習会もある日時】201391日(日)14:00

【会場】震災観音堂・北条海岸西口会館

http://bunka-isan.awa.jp/News/item.htm?iid=831

100聞は1見にしかず。福島に行ってみるのもいい。この日本では成り行き任せで集団自殺に等しいことになりかけないので。

余生を楽しむことでせいいっぱいとか。年金暮らしで余裕がない。年寄りだから俺はもういいとか。発言を聞くことがあるが、もしそれが本心らなら、これまで生きてきた意味が全く喪失してしまう。だから本心ではないのだが。

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はだしのゲン    被爆者の静かなshikashi確固たる怒り聞こえてきます。

        この要請書の紙背にあるものを 思うとき。 

人間として生きることを圧迫されてつづけてきた68年・被爆者。

私だけでもうたくさん、誰にもこんな苦しみが襲わないようにとねがって生き延びてきた被爆者。

ただそれだけのために・・・ 無私の叫びを続けて来た被爆者。

それなのに、なのに

広島の実相・心を子供たちに伝えさせないのはなぜ?

フクシマ・ナガサキ・をなかったものにしたいのは・なぜ?

日本をとり(盗り)もどすためなの。

ノーモアヒバクシャ、子供たち未来こそ 日本をとりりもどすことなのに。

言論・出版・表現の自由がある限り、

集会、学問の自由があるかぎり  人間の新生はあると確信したい

私が少年時代・戦争原爆の時代  徹底的に言論 出版 集会は弾圧された。

私はこのことでは妥協できない。

2013年8月23日
松江市教育委員会 様
日本原水爆被害者団体協議会
                   要 請
私たち広島・長崎の被爆者でつくる唯一の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は、貴教育委員会が松江市内の小中学校図書館において『はだしのゲン』閲覧を制限したことを残念に思います。すみやかに閲覧制限を撤回し、従来通り自由に閲覧できるよう求めます。
私たちは、1956年の日本被団協結成以来今日まで、原爆が人間に何をもたらしたか、原爆の残酷さ、あの日の地獄、今日までつづく苦悩を語りつづけてきました。私たちと同じ体験を誰にも味わわせないためです。核兵器の使用は人類の滅亡をもたらすからです。すべての人が、原爆について学び、考え、核戦争を起こさず、核兵器を無くすことに努めて欲しいからです。
中沢啓治さんの『はだしのゲン』は原爆の実相を伝える作品です。国の内外で、原爆を知る本、必読の本として高く評価されています。日本被団協は国連図書館をはじめ国際機関と国に寄贈し感謝されました。日本政府もNPT加盟国に英語版を配布しています。閲覧制限しなければならない理由はありません。
子どもは「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由」(児童の権利に関する条約13条)の権利を持っています。教育的配慮の名で、子どもの権利を侵してはなりません。この点からも今回の閲覧制限措置は不適切です。
『はだしのゲン』の閲覧制限をすみやかに撤回し、自由に閲覧できる措置をとるよう要請します。
以 上
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)

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フクシマ 原発  いまの事態

フクシマ 原発  未来を消す 今の事態Dsc07780

事態収束宣言のなんと罪深いことか。

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ストロンチウムは向骨性元素でカルシウムと似た挙動を示し、白血病、骨肉腫、骨髄がんなど、あらゆる疾病の原因になります。
今般事故による放射性ストロンチウムの放出はフクシマの生物を苦しめ続けることは当然であり、魚類の食物連鎖を通じて地球規模の問題であることを証明してしまいます。

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以上東京新聞から、政府はこの報道にまともに答えられないのはなぜ。

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私の8月15日

~~前略~~

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815日  68年前の疎開先

 天皇の玉音〔敗戦〕放送は縁故疎開先の母のおじの家で聞きました。みんなは正座していました。私は遠巻きに聞いていました。母のおじが「負けたのだ、負けたのだ」と声を上げました。2人の息子を兵隊にとられた叔母は黙っていました。私は何がなんだか全く理解はできませんでした。ただ親が迎えに来るぞという思いにいたったのかは明確ではないのですが何故か明るい気持ちでした。820日過ぎにやっと母がやってきました。それまで、帰るのは危ない。米軍がやってきて皆殺しになるからと、親戚一同が私たち兄弟を帰すまいとしていたようです。母は死ぬときは家族一緒だといいはり、反対を押し切って連れ戻すことになったと後で聞きました。別れるとき親戚たちが泣いていたのも進駐軍に皆殺しになると本気で思っていたからでしょうか。軽便〔ミニ機関車列車〕で4時間近く揺られて帰宅したのですが家では兄姉全員が待っていて、手をつないで輪になって座敷の中をくるくる走り廻ったこと、今も平和のありがたさを噛み締める私の映像になっています。

  敗戦直後の自宅付近

   程なく米軍が進駐してきました。先頭に機関銃をすえたジープが走り十数台のジープ、トラックが家の前を過ぎていきました。走りながら空砲も撃ったと後で聞きました。占領開始の威嚇を狙ったのだと思います。

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近くの駅の半分はペンキが塗られたのか瀟洒な米兵専用駅になり、金網越しに覗き見ることができました。列車は冷暖房つき。日本の列車は窓から体を出すほどの込み具合。その差は歴然、敗戦国の姿でした。米占領軍兵舎が置かれた旧陸軍○連隊。ここには2等兵の兄がいて母と慰問に行ったことがある。殴られて顔が無残に膨れていた。ここからガタルカナルやアリューウシャンや北支さらにビルマなどに派遣され転戦し多くが死んだ)

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向かう道路はMP憲兵が厳重な警護、交通整理に当たっていました。駅は戦災孤児や、家を焼け出された人たちの住処になっていました。線路下のガードも家を焼け出された人たちの住処になり、その状態がしばらく続いていました  

中略

   私は家の外に出ることが厳禁となりました。米兵たちがジープから子供たちにチュウインガムを撒き始めました。私は門の隙間から道路をそっとのぞいただけだったのに、血相を変えた父から罰として屋敷奥にあった蔵に閉じ込められてしまいました。真っ暗な蔵の中で泣きじゃくった覚えがあります。門を開けて米兵が一人で入ってきたこともありました。女性を探しにきたのです。裏通りの各地に売春宿ができはじめ日本人の円タク(当時の自転車タクシー)斡旋屋が間違って米兵をつれてきたということです。親は不在で小学生2人が棍棒と擂り粉木を持ってきて姉を守ろうとしました。大人が誰もいないと気づくと出て行きました。姉たちはとっさに隠れたようです。

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駅構内 と線路下ガードは  焼け出された人たち・戦争孤児のすみかになっていた。焼け残った我が家はこのちかくにあった。臭くて私は行かなかった。今考えると恥ずかしい・爆弾がちょっとそれていたら私ももこの中にいたかもしれない。あるいは爆死したかもしれません)

待っていたのは空腹でした。学校ではクラスで弁当持参は70人中23人だけ、一つの弁当にみんなが群がったようです。私は低学年だったので家に帰ってから食べました。母が着物など売って芋などに変えていたようです。よくかい出しにいっていました。学校では米軍放出の腐ったにおいのするミルクがアルミの蓋の上に注がれました。私は吐き気を我慢して飲む場合と捨てるときがありました。先生の指示で小学5,6年生は食べられる雑草を摘んで登校しました。雑草いりどんぐり粉パン(どす黒い緑のパンが配給されました。私はとても食べられず捨てたのでひどくしかられたことがあります。

   日系二世の米兵が教室を廻り戦争に関する掲示物をはがしていきました。教科書には墨が塗られました。校舎は焼け出された女学校も使うようになり2部授業になりました。(学制が変わってからは3部授業になりました)。この女学校には姉も通っていて同級生には迫りくる火に追われて逃げ場を失って広瀬川に飛び込みなくなった友人、包帯だらけになってくるもの、先生も火傷をおっていたといいます。

   敗戦の混乱は人々の心を蝕んでいきました。私の通学のズック靴も傘も学校の帰りにはしばしばなくなり、やむなく私ははだしで学校に通うこともありました。大人が学校に入ってきて盗むということでした。私のあだ名はチュウインガム、私にとって屈辱のあだ名でしたが当時の世相を反映していました。

中略

62年ぶりに 入院していた外科病院跡地に立って

 駅に程近いところに戦前外科病院がありました。私は赤ちゃんのときに手がくるぶしのようになるおおやけどをしていました。国民学校入学の前にくるぶしを切開して指を出す手術をしていました。長じてから、病院と周辺が7月10日集中的な焼夷弾を浴びたと聞いた事があります。ベッドの上の患者と付き添いのベッドの下の親を不発弾が貫通するなど(早乙女勝元編集日本の空襲・に詳しい) 周りは阿鼻きゅうかんだったと伝え聞きました。70歳になった昨年私はその前に妻と立ちました。もう病院はありませんでした。又確か近くにカソリック教会があり、外国人たちが隔離収容され、中庭を運動のためかぐるぐる引き廻されていた記憶がかすかに浮かんできました。私を執刀してくれた医者や看護士はどうだったのか。私が手術した病室は?思いはぐるぐる廻りました。教会にいた人は?きっと逃げ切ったに違いない。でも避難のため、もしかして空襲の当日の昼この病院に程近い斉藤報恩館の近くを通ったときに見た多くの焼死体の中におられたのではないか。熱いものがこみ上げてきました。

追記

 戦争はすべて狂気です。すべてを異常にします。暑い日私は父に連れられて家から釘を拾いながら歩いたことを思い出します。行けども行けども焼け野原、瓦礫。よくもこんなに燃えたものだ。日本の家屋は木と紙と壁でできていることに目をつけて大量の焼夷弾を落としゼラチン状油脂が体や家屋に付着し火災を起こし多くの市民を殺戮しました。広範囲の周囲に火災を起こしその中にいる多くの人々の逃げ道をふさぎました。市民生活を破壊し尽くすような空爆は東京空襲をはじめ日本各地の都市空爆がそうだった。ー中略ー戦後日本政府から何故か高位の勲章を授与された米司令官ルメイ(ヨーロッパ戦線で武勲を立てて太平洋戦線に回されたきたといわれる)の立てた戦略だったのは今では明らかです。日本の真珠湾奇襲攻撃、重慶市民への無差別爆撃 南京虐殺など さらに東南アジ諸国への日本の侵略、非道な加害が先行したことに続く日本の都市への攻撃でした。

日本の敗戦が既に明確となったときに戦後世界の覇権のためにアメリカはヒロシマ、ナガサキに原爆を投下し21万人(これまで38万人)を殺傷しました。今なお23万人が放射能後遺症で苦しんでいます。その1ヶ月前に私の町の空襲で1000名を超える命が散りました。また敗北が明白にもかかわらず国体護持のため”もう一戦交えてから”という聖断で戦争を引き伸ばし3月10日の東京大空襲での10万人の犠牲者を始め全国各地の都市への爆撃を許してしまいました。市民の爆撃犠牲者は55万人をこえ都合330万人の犠牲者を持って戦争は終わりました。日本軍の手によるアジアの2000万とも言われる犠牲者一人一人にそれぞれの生活と人生があり親がおり子供がおり友達がいました。その犠牲の上に世界に向けた平和憲法が生まれました。私の学び舎だった大学も武家屋敷から師団司令部、そして接収された米軍キャンプにかわり米軍基地から「初めて武器よさらば」した平和な大学キャンバスになりました。

63年間戦争に直接手を染めなかった日本。尊い犠牲の上に私も平和のもとに生きることができました。

しかし戦争責任をあいまいにしてきた日本。戦争のむごさを忘却していく日本。軍事費が膨らむ日本。海外で武器を使うことを合法化しようとする日本。今を生きるものの「戦前」責任が問われそうです。もろくなった平和を崩さないように。崩れぬ平和のために。孫子のために。

注  空襲

 マリアナ基地を9日15時3分 134機出撃 ばく撃機数124機 投下爆弾総数12,961発。高性能爆弾8個  焼夷弾912トン、10日24時3分から午前2時3分まで 25回の波状攻撃 無差別爆撃によって猛火に襲われ、羅災戸数23,956戸 羅災世帯11,411羅災人員51,832人  死者1060  重傷者385人。市内の中枢部116万坪 焼け落ち瓦礫に。敗戦1ケ月前であった。

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8月15日  その日を伝える新聞から

8月15日  その日を伝える新聞から

Dsc07591平和と不戦の誓いの碑なのに

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以上東京新聞から

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長崎平和宣言   長崎市長 田上 富久 画期的内容

平成25年 長崎平和宣言   長崎市長 田上 富久

                

 

68年前の今日、このまちの上空にアメリカの爆撃機が一発の原子爆弾を投下しました。熱線、爆風、放射線の威力は凄まじく、直後から起こった火災は一昼夜続きました。人々が暮らしていたまちは一瞬で廃墟となり、24万人の市民のうち15万人が傷つき、そのうち74千人の方々が命を奪われました。生き残った被爆者は、68年たった今もなお、放射線による白血病やがん発病への不安、そして深い心の傷を抱え続けています。


 このむごい兵器をつくったのは人間です。広島と長崎で、二度までも使ったのも人間です。核実験を繰り返し地球を汚染し続けているのも人間です。人間はこれまで数々の過ちを犯してきました。だからこそ忘れてはならない過去の誓いを、立ち返るべき原点を、折にふれ確かめなければなりません。

 日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。
 今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80か国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。
 しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。


 インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。
 NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化することになります。NPTを脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。
 日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。
  非核三原則の法制化への取り組み、北東アジア非核兵器地帯検討の呼びかけなど、被爆国としてのリーダーシップを具体的な行動に移すことを求めます。

 核兵器保有国には、NPTの中で核軍縮への誠実な努力義務が課されています。これは世界に対する約束です。
 20094月、アメリカのオバマ大統領はプラハで「核兵器のない世界」を目指す決意を示しました。今年6月にはベルリンで、「核兵器が存在する限り、私たちは真に安全ではない」と述べ、さらなる核軍縮に取り組むことを明らかにしました。被爆地はオバマ大統領の姿勢を支持します。
 しかし、世界には今も17千発以上の核弾頭が存在し、その90%以上がアメリカとロシアのものです。オバマ大統領、プーチン大統領、もっと早く、もっと大胆に核弾頭の削減に取り組んでください。「核兵器のない世界」を遠い夢とするのではなく、人間が早急に解決すべき課題として、核兵器の廃絶に取り組み、世界との約束を果たすべきです。 核兵器のない世界の実現を、国のリーダーだけにまかせるのではなく、市民社会を構成する私たち一人ひとりにもできることがあります。

 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という日本国憲法前文には、平和を希求するという日本国民の固い決意がこめられています。かつて戦争が多くの人の命を奪い、心と体を深く傷つけた事実を、戦争がもたらした数々のむごい光景を、決して忘れない、決して繰り返さない、という平和希求の原点を忘れないためには、戦争体験、被爆体験を語り継ぐことが不可欠です。

 若い世代の皆さん、被爆者の声を聞いたことがありますか。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と叫ぶ声を。
 あなた方は被爆者の声を直接聞くことができる最後の世代です。68年前、原子雲の下で何があったのか。なぜ被爆者は未来のために身を削りながら核兵器廃絶を訴え続けるのか。被爆者の声に耳を傾けてみてください。そして、あなたが住む世界、あなたの子どもたちが生きる未来に核兵器が存在していいのか。考えてみてください。互いに話し合ってみてください。あなたたちこそが未来なのです。宣言します。



2013
年(平成25年)89
長崎市長 田上 富久

動画は
http://www.youtube.com/watch?v=kCWu1jkPhiY&feature=youtu.be 

 長崎平和宣言   長崎市長 田上 富久

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いくらなんでもひどすぎる   ナチスにならって発言

いくらなんでもひどすぎます

先の参議院選は 自民党は議席で大勝しました。これから3年間解散以外選挙はなし。自民党は「改憲と原発推進の他政党の補完勢力を抱きこんで3分の2の確保も可能報道されています。

その中で飛び出したのが  麻生副首相兼財務省大臣の「ナチスにならって」の発言。何をナチスに学ぼうというのでしょうか。ぞっとします。

アウシュビッツなど対外排撃のナチスのやり方か。当時第1党の共産党150議員を国会放火のでっち上げで放逐したやり方か、民主主義を機能不全にしていつのまにやら平和憲法を亡き者にするやり方か。ワイマール憲法の中で全権委任法で全権を掌握した民主主義をなくしてしまったやり方か、いま欧米ヤ東南アジアの諸国からするどい日本への批判が起きています。全世界を敵に回す

排外主義。

小田実氏は  市民活動の原点は  「いくらなんでもひどすぎる  感覚で立ち上がる  デモだといいます。麻生発言はいくらなんでもひどすぎます。

 

戦争体験  広島・長崎・ビキニ・福島の記憶を多少なりとも実感として持つ私ら年配者なら「いくらなんでもひどすぎる」という気持ちを持ちます。「おごれるもの久しゅうならず」ですが権力を持つ者の暴走もあり得ます。そんなはずではなかったのにときずいた時にはもう遅い・

だから8月6・9・15日を挟んでこの8月は 年配者の出番だと思いました。せっかく年寄になったのですから

今日は快晴。どしゃ降りにならないうちに朝顔を見ておきたい

ちょっと休憩。見てくる。写真撮ってきたい

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ほっ

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