2平和と環境のこと

青空   再び 青い空  そして晴れた空

青空   青い空再び S_010

青い空 のもとで  花の詩   「花の占めたる位置」

S_032

Dsc05512 ふと見あげると

Photo 自然学校10周年会場のそば大房岬

S7142_121

宮城県  JR山元駅舎 にぎやかだった駅前  何もなし  ただ花が・・・

  615_036_1

0136_112

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Tさんの娘さん家族(漁師)がすんでいた浪江町請戸 真実の報告

Tさんの娘さん家族(漁師)がすんでいた浪江町請戸

を訪ねて…604軒の家は跡形もなく潰え去る(潰え去った家のそば、左写真)。救出されずに置き去りにされた犠牲者に佇む(右写真)。

なぜ? 救出されずに・生きたままの人も。なぜ置き去りにされたのか。むごい。むごすぎる。東電は責任を取らずにいまだにほほカムリ。浪江町民の怒り。

原発・原発・原発がなければ…責任は? 知らずに見過ごしてきた私の責任は? 今すぐ原発ゼロを誓った。S20120826_778

Suntitled

 3・11の3日前に生まれた山羊とお孫さん。 山羊はせんべいの様になって死んでいた。 愛犬コロは お孫さんのテープを流して探し歩き数キロ先であらわれた。7代つついた千代田家の土蔵は崩れコロが帰ってきた。その後保

護された。Suntitled_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

戦災地のような原発被災地  やはりこの国は花がいい

神国神話

敗戦直後の光景。その1

見渡す限りの焼野原・我が家は残った。家を失った被災者はわずかに残った駅舎やガード下が住みかとなった・

中心部から見た市街地の焼野原。死体ゴロゴロの市街地。燃えさかる瓦礫の中を避難する私。

私の生家のうらがわを走る国鉄の列車には屋根の上にも乗客が。

勝と信じ込まされた国民。だましたのは誰だ・

その2 Photo_2

Photo_3

Photo

S712_045

原発地の近くで

6811_059_2

今原発安全神話

Sdsc05207

昔神国神話  今安全神話  だましたのはだれか。だまされたのはだれか。

だまされたが輪にも責任が。

やはり平和がいい。命輝く花がいい・

3001_1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ある被爆者   母と妹への手紙   私が最も尊敬する方 

ある被爆者   母と妹への手紙   私が最も尊敬する方の文章の紹介 

母と妹への手紙

                            岩佐 幹三

 母さん、好っちゃん(好子)。今年も八月六日がやってきたね。

 被爆から六十三年がたった今でも、僕は、原爆で連れ去られた母さんたちの命を甦らせて、手をとり抱き合いたいという空しい願いを持ち続けているんだ。

 欠かさん、僕は、先日も何回目かのつらい夢を見たよ。頭上でグワンという爆発音がして破壊し尽くされた町並みが現れた。それを見た僕は、「今度こそ母さんを助けるぞ」と叫んだ瞬間に、目が覚めた。その時の悔しさは、言いようがなかったよ。母さんたちの死は、戦争だから仕方がなかったという考え方は、絶対に許せない。

 デモね、当時の僕は、十六歳の中学生、全くの軍国少年だった。あの年の五月病気で亡くなった父さんや母さんを、本当に困らせたんだろうね。日本が起こした十五年戦争で、アジア諸国で二千万人、日本でも三百万人の尊い命が失われた。その戦争のお先棒を担いだ一人だったんだからね。僕たち若者が、敵の軍艦や戦車に体当たりして戦死すれば、家族は守れるし、後はどうなるだろうと浅はかにも死ぬことだけ考えて痛んだ。

 それなのに死んでも家族を守るべきはずの僕が生き残り、守られるべき二人を守ることができなかった。戦争ってなんだったんだろう。軍国少年って一体何だったんだろう。

 その反省と謝罪の気持ちをこめて、今この手紙を書いているよ。

 十五年にわたる戦争、特に敗戦の年は、僕たちの生活は耐乏状態の限界を超えていた。戦争に勝つためにがまんせよと、すべて軍事優先、衣服も食料も配給制度になり、それも遅配続きだった。お金があっても何も変えなかった。本当につらかったね。父さんがいない我が家では、食料の算段もできず、八月はじめには米ビツも空っぽだった。母さんは、「少しでも食べて死ねば顔色でもいいよ」と言って、わずかに残っていたお米を炊いて茶わんに半分ずつ三人で食べたよね。あれが水盃になったのかな。母さん覚えている?

 だが母さんは、八月四日か前日の五日か、近所の小さな店で、醤油いためのひじき一皿分を、僕たち兄弟のために持ち帰ってくれたんだ。自分も空き腹なのに、一緒に出された大豆の豆かすをひいたコーヒー(?)汁を飲んだだけで。それを僕たち兄妹は、むさぼるように食べてしまったが、親なればこそ、決して忘れてはいないよ。

 母さんは、そんなことまでして僕たちを守ってくれたのに、僕は、何もできなかった。だから今になって戦争がもう少し速く終わっていたら、せめて少しでも銀シャリ(白米)を食べさせて上げられたのになんて、時々ごたくを並べているんだよ。でもね。母さんたちの死は決して無駄にはしない。戦争も、原爆=核兵器もない世界のためがんばっているよ。

 あの年、昭和二十年、東京、大阪、名古屋をはじめ全国の大中小都市が次々と米軍機によって焼土となり、沖縄も陥落していた。日本の戦争する余力は尽きていた。それでも国は戦争を継続し続けていた。そして八月六日がやってきた。

 あの日は、動員中の工場が電休日だった。八時十五分少し前、僕は、自宅(広島市富士見町=爆心から一・二キロ)の庭にいた。飛行煮の爆音が聞こえてまもなく、激しい爆風の衝撃で、地面にたたきつけられた。そこはやわらかい畑地だったからたいした傷も負わなかった。五十センチほど右にいたら庭石にたたきつけられて即死だっただろう。家の前のバス通りを挟んだ向いの家の屋根の影になって、奇跡的に焼けども負わなかった。

 一瞬にして崩壊した広島の町並み、母さんは、崩れ落ちた家の下敷きになっていた。「母さん!」と呼ぶと、屋根の下から「ここよ」と言う声が聞こえた。「ああ良かった。生きていてくれたんだ」とその瞬間は安堵の胸をなでおろしたんだ。しかしその喜びも束の間だった。屋根板をはがして逆立ちするように顔を突っ込んだ目の前には、家のコンクリートの土台の上に大きな梁が重なって、行く手をはばんでいた。わずかな隙間から一メートルほど先に仰向けに倒れている母さんの姿が見えた。つむった目のあたりから血が流れていた。どこかをひどく打ちつけたのか、何を話しても目を開けず、顔をこちらに向けようもしなかった。「こっちからはもう入れんのよ。そっちで動けんの」と聞くと、「左の肩の上を押さえている物をどけてくれんと動けんのよ」という答えが返ってきた。

 別のほうから掘り出したが、なかなか進まない。そのうちに爆風の吹き返しの火事嵐がものすごい勢いでせまってきた。火の粉が降りかかってくる。気がきではない。「母さん、だめだよ。火事の火が近づいてきたよ。こっちからはもう側までいけんよ。」悲鳴に近い叫び声を上げた。外にいる僕でさえ何が起こったかわからないのだ。まして家の下敷きになって周りが見えない真っ暗な中では不安というよりも恐怖心で一杯だったろうね。でも母さんは「そんならはよう逃げんさい」と言ってくれた。

 それなのに気も動転していた僕は、「母さん、ごめんね。父さんのところへ先に行っていてね。僕も、アメリカの軍艦に体当たりして、後から行くからね。」何という不遜な親不孝の言葉だろう。しかもその後に「好ちゃんが大きくなったら、いいところへお嫁にやるからね。」と言ったんだよね。すぐ後から行くと言いながら、妹が大きくなるまで生きると言ったんだ。死別の祭に母さんを裏切る言葉を告げたんだよ。そして八十歳近くまで生き延びているんだよ。母さんへの罪の意識は一生抱いていくよ。

 母さんは、死を覚悟したのか「般若心経」を唱えだしたね。僕は、その声に後ろ髪を引かれながら、原爆の業火で生きながら焼きこらされる母さんを見殺しにして逃げたんだ。二~三日後家の焼けあとに積もった灰の中を探したら、母さんが倒れていた場所から痛いらしいものを見つけ出すことができた。それが母さんだったんだ。でもそれは人間の姿ではなかったよ。母さんは、小柄な女性だった。まるで子供のマネキン人形にコールタールを塗って焼いたような油でずるずるした物体だった。母さんは、あんな姿で殺されたんだね。人間としてではなく、「モノ」として殺されたんだ。悔しい。本当に悔しい。

 あの日比治山橋近くの土手で野宿した僕は、翌日紙屋町から半ば破壊された相生橋まで来て、突然絶望感におそわれた。それまで被害は広島の東部地区だけだと思っていた。橋の上から見わたせる西部地区も同じように原爆焼け野原になっていた。好っちゃん(好子)は、あの年憧れの県立第一女学校に入学できて、張り切っていたね。でもあの日は、土橋付近の建物疎開の後片付けに動員されて傷んだ。相生橋からみると、すぐ目の前じゃない。「あっ!好っちゃんもやられたんだ」そう思うと頭の中が真っ白になった。避難先にしていた安佐郡緑井のかおる叔母さん(母の妹)の家にも、あんたはきていなかった。好っちゃんたちまだ十二~三歳の男女中学生約五千人が、青春の喜びも悲しみも知ることなく、死んでいったんだ。戦争が招いた原爆地獄の悲劇は決して繰り返してはならない。

 その日からもう生きているはずのない好っちゃんを探す兄ちゃんの放浪の旅が始まったんだ。土橋、己斐、江波、草津、五日市までどこをどう歩いたか全く覚えていない。毎日とは言わないが、ただ夢遊病者のように歩き回ったんだ。あれは、もしかして原爆被害特有の「ぶらぶら病」の一種の症状だったのかもしれないね。

 そしてちょうど被爆から一ヶ月たった九月六日、急性症状が出て病床に伏すことになった。かおる叔母さんのおかげでたまたま近所に疎開していたお医者さんから高額な注射治療を受けられて、又奇跡的にも回復できたんだ。そのことが契機になって、僕も被爆者なんだと自覚するようになったんだ。

 その後かおる叔母さんが、母さんの代わりに僕を養育してくれたんだ。そのおかげで大学を卒業でき、大学の先生になれた。そして勤務地の金澤で石川県原爆被災者友の会の会長に選出されて、被爆者運動に係るようになったんだよ。定年になって千葉県に移り住んで、今は被爆者の善告訴してである日本原水爆被害者団体協議会の事務局次長を努めることになった。その間にも多くの被爆者と同じように原爆被爆の影響で晩発性放射線障害のがんや原爆白内障にもかかった。中でも前立腺がン派、薬物療法による治療を受けて、体内にがん細胞をかかえたまま。運動に勤めているよ。繰り返すことは、決して許されないことだから。

 でも僕たちが体験したことよりも、原爆は、もっともっとひどくつらい体験を被爆者に与え続けているんだ。そのような被害を、僕たちの子孫、そして日本国民、更に人類の上に、再び繰り返させたくない。だから「再び被爆者を作るな」と核兵器の廃絶を訴え、国が、その「証」として戦争被害、原爆被害に対して将来にわたって補償することを求めてがんばっているんだよ。二〇二〇年には核兵器を完全に廃棄させようという運動が進められている。その目標が達成されたなら、その時には、母さんたち一緒にお空に上ってお星さまになりたいね。

注 昨年に続き、今年も(2008年)NHK広島が募集した「ヒバクシャからの手紙」に応募したもの。番組でもその一部が朗読されました。

 又、今年(2012年)8月にNHK広島の深夜ラジオ番組で放送(約7分)されたようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日の出  鳥たちの飛翔  曙光に向かって 一緒だよー

Sdsc02493

賀正 2013-1-16時45分 九十九里白里海岸

にて。日の出を待つ海鳥たち。世の曙光を願いながら孫と

Sdsc02492

一緒だよ   忘れないよー

閖上中学校前にて  2012-11-14

Sdsc01937

南相馬・3重苦   わせれないよー

S712_002

希望   Tさんから  石巻

S6811_069

S20120826_178

| | コメント (0) | トラックバック (0)

原爆の生き証人   67年間被爆者として生きて   12・2

2700

| | コメント (0) | トラックバック (0)

   地震 ふくしま

ドイツ放送のフクシマについての取材報道

なお所要時間は35分間くらいです。


http://www.dailymotion.com/video/xpisys_yyyzdf-yyyyyyy_news 

世界の地震

そして、3.11

http://www.youtube.com/watch?v=zNGqDRElI44

誰かがYouTubeに再投稿してくれた貴重な動画
 『チェルノフイリ原発事故・終わりなき人体汚染』(1~4)49
        http://www.youtube.com/watch?v=uPFcn23q7uc&feature=youtu.be

チェルノブイリ

○『チェルノブイリ~大惨事の環境と人々へのその後の影響』
の紹介とともにご覧ください。
http://www.universalsubtitles.org/en/videos/zzyKyq4iiV3r/

訳がついています。今後の日本に参考。

S2012_1121_118

| | コメント (0) | トラックバック (0)

 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会   参加しました  

S002

写真大江健三郎   発会式にて

大江健三郎(作家)・肥田舜太郎(被爆者・医師)

・岩佐幹三(被団協代表委員)・安斉育郎(学者)  4氏の呼びかけ

呼びかけ

      ノーモア・ヒバクシャを記憶遺産に!

 「いったいこの国は、ヒロシマ・ナガサキから何を学んできたのだろう」

―― 「あの日」から66年たった311日、福島原発事故に遭遇した原爆被爆者たちの心に去来した悔しさ、空しさはいかばかりだったことでしょう。

 今年は、被爆者たちが「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おうという決意」を誓い合い、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)を結成して55年を迎えます。この半世紀を超える長い間、被爆者たちは体と心に深い傷を負い、その不安と苦しみの「生」を生きながらも、原爆は人間に何をなし続けるのかを身をもって告発してきました。核戦争の地獄の体験と、被爆者として生きねばならなかった「生」とを通じて、”核兵器は人間と共存できない”、”再び被爆者をつくるな”は命を懸けた叫びとなったのです。そして、原爆被害の実相を世界に広げ、核兵器廃絶を訴えてきました。

 それにもかかわらず、数千発の核兵器が地球上に実戦配備され、人類は依然として核戦争の危機に脅かされています。この地球は核の汚染にさらされています。

 被爆者に残された時間はわずかです。被爆者たちの「長い時間をかけた人間の経験」と志を歴史に埋没させてはなりません。

 ヒロシマ・ナガサキ、ビキニを経験し、そして今、フクシマまでも引き起こしてしまった被爆国の私たちがなすべきこと―― それは被爆者が遺してきた原爆被害の実相と、証言、記録、たたかい、未来へのメッセージを確かに受け継ぎ、世界中の人々が共有できる記憶遺産とし、発信し続けることです。それこそが、(核の犠牲になった人々)(未来を生きる人々)への何よりの責任の取り方ではないでしょうか。

 そのために、私たちは「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承するセンター」を発足させることにしました。

 みなさんの会への賛同とこの取り組みへのご参加を心から呼びかけます。

                              20111210

           ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会 設立総会

| | コメント (0) | トラックバック (0)

通学路  の放射線

通学路  の放射線    放射線粉じんが舞う街への危惧。  内部被爆

S201112_4_003 S201112_4_006

S201112_4_008  S201112_4_052

                             1.424μmsv

S201112_4_041 S201112_4_023 S201112_4_018

何人かで地域を測定して見て分かったことは 行政の発表の何倍もの、あるいは桁違いのミニホットスポットが無数に存在していることです

粉じん、埃が否応なく飛びかなかで生活を余儀なくされる。
呼吸で口から入り、接触で体や傷口から・加えて食べ物から体内に入ります。セシュウム137の半減期間は30年、排せつによって半分は減るので17年は
内部から照射をつづけるというわけです。もはや老若男女、金持ちも、貧者もみんなが長期
にかぶっていきます。放射線とは長の付き合い(福島事故原発発の廃炉までの期間は30年―
政府発表)になることは必定です。。出来るだけあびないようにする自己防衛が不可欠となるでしょう。
これからは食べ物、飲み物の検査体制が身近な役所等で行われることが重要、のんびりできないときです。世界1の地震国日本での原発の建設再開。原発輸出が気がかりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

放射線  蛍の身になってかんえろよなー  蛍のお出まし

昨年書いたもの

メダカとホタル  四街道が誇る自然の遺産

                     

トンボとかえると小鳥に昆虫  みんな違ってみんないい

四街道に住んでよかったことは?   なんと言っても緑が豊かだからよ

  市民の10人中8~9人はそう答えます。東京から手軽なところにこんなに緑があるなんて     

何で緑がいいの?  やすらぎかな。目に優しいし。 ほっとするし。 すむのに持ってこい

ほかにも緑の恩恵はいっぱいあるよね!!  それは 水を蓄え命をはぐくむからだ。

     里地の豊かさは天下絶品。お米に野菜に果物も命。

     トンボとかえると小鳥に昆虫 そうそう蝉も。めだかや蛍は千葉でも有数

            子どもが育つのにいいところだね

そのめだかですが全国めだかシンポジューム四街道大会が8月8~9日文化センターで開かれるって言うんだ。   

そりゃーすごいめだかや蛍の生息は千葉でも有数だから四街道に白羽の矢が来たんですね。?   いやいやそれもあるがめだかや蛍の生息出来るような環境保全にに長年つとた市民の取り組みがあったからでしょうね

そして今年  6月29日

トンボとかえると小鳥に昆虫   みんな一緒に放射能

            何も悪いこといていないにね。

                

       ひたすら…今さえよければ…うちさえよければ・・・・・原子村

          

蛍の身になって考えろよなーTop_anatagaite

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧