D忘れ得ぬ人のこと協同を担った人たちから聴いたこと観たこと

子供たちに語る、八月六日・ヒロシマから 被団協代表 岩佐幹三

資料 岩佐幹三 「子供たちに語る、八月六日・ヒロシマから」

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子供たちに語る 8月6日・ヒロシマ

 

 ・・・前略・・・・・中略・・・・・・・・

・・・妹を毎日のように探し歩いた僕も、丁度一か月たって急性症状で倒れました。身体じゅうに赤い斑

点が出て、歯ぐきや鼻からは出血し、喉が焼け付くように痛み、昼も夜もわからぬ日が続きました。十六

歳という若さからか、何とか回復することができましたが、あの死を前にした不安は忘れられません。その後も悪夢にうなされることがしばしばでした。

 多くの被爆者が、死の淵を何とか乗り越えてきましたが、原爆の魔の手はその後も引き続いて被爆者の

「からだ」「くらし」「こころ」のすべての面で襲いかかっています。被曝後四十数年のあいだ、被爆者

は、様々な不安と死の恐怖にみちた「つらい生」を背負わされてきました。特に昭和三十年代後半から

は、ガンにかかる率、死亡率が一般国民よりもはるかに効率となっています。また、先の日本被団協の調

査では、およそ四人に一人が「こんなにつらいのならあの時死んだほうがよかった」と生きる意欲の喪失

する感じだったことがあるという体験を持っています。今なお被爆者をそこまで追い詰めているのです。

 あの日、原爆はこの世の地獄を作り出したといわれますが、生き残った被爆者にとっては「生きるも地

獄」なのです。このような原爆、核兵器の被害を許してよいものでしょうか。原爆の被害は、国の戦争政

策の結果もたらされたものです。国にはあの戦争に対して責任があることを明確にしなければなりませ

ん。だから被爆者は四十数年たった今も、核兵器の廃絶と被爆者救援法の制定が求めて運動を進めている

のです。援護法とは、日本国政府が「再び被爆者をつくらない」ことを世界の核国政府の先頭に立って訴

える、その決意の証となるものなのです。

 こういうことは体験者でなければ語れません。語り継ぐことは大変な仕事ですが、それは人類の未来に

かかわる問題です。被爆者は、そのような歴史的使命を担っているのです。そして、それを受け止めてく

れる世代、それはみなさんをおいてほかにありません。被爆者にはもう時間がないのです。被爆者が死に

絶えたら、だれがこのことを伝えられるでしょう。みなさんが、被爆者が抱える問題と要求を自分の問題

として受け止め、自分の周りに伝え、次の世代に残せる人々の結集に努めてくださることを期待したいと

思います。

                     (金沢大学名誉教授 岩佐 幹三)

資料 岩佐幹三 「子供たちに語る、八月六日・ヒロシマから」

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「命は皆尊い」

気分は枯れ葉かな、デモ涸れてはいない。 

春は好きだ。春の緑、新芽・蕾、花 はたまらない。

ついばむ鳥、虫、蝶 もいい、春の野菜、果物はもう最高。
...
デモ この春を汚し、夏秋冬かけてじわじわなぶり、命の循環を断つ核種。

誰だまき散らすものは。こうなったら・いのちは皆尊いというもっともプリミ

ティブなところから始めよう。枯木の山のにぎわい というじゃないか。

足尾銅山鉱毒を告発した田中正造氏は明治45年の日記に

「真の文明は、山を荒らさず、 川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべ

し」と書いた。それから100年のあいだに「山 川をあらし村を壊し人を殺

してきたまぎれもない歴史の事実がある。原発はその頂点にたつ。

枯葉年代はそれを進め、あるいは許した世代でもあるしその過程を実感もでき

る。「命は皆尊い」という立場に立って3世代をつなげうる立ち位置にある。

たとえごまめの歯ぎしりになろうと、これ以外の選択枝ははないと思うがどうだろうか
福島のさる保育園にて  この子たちを思い切り外で遊ばせてやりたい。
そのために  枯れ葉じじーに何ができるのか。こたえは簡単なのだが
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冬・木々の美しさ、私はⅠ8歳で死んでいた・日本の老人は眠れない・筆洗い.三題

冬 木々のうつくしさ  空の青

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私はⅠ8歳で死ん

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新しい春のために   細川春雄

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半世紀前大学時代からの友人    岩手県沢内(西和賀郡)で農業を

生業にしてきた詩人、協同組合人、  細川春雄氏の賀状ヨリ

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飯館村の無人の小学校。南相馬に野菜などを運ぶ道中

車窓からとった。放射線計数はぐんと上がり行けども行けども無人

地帯。子どもも、老人も。農家もすべてが追い払われた。

放射線の恐ろしさとはこうゆういうことなのだ。戻りたい。帰れない。

老人たちは眠れない。お墓に避難したいといった老人。

これを取材したルポ作家の友人のN氏と今日かたりあった。

出来上がったばかりの本をいただいた。

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 さて今の時代、 人の命・ を中心に据えると

 さて今の時代、 人の命・ を中心に据えると 「絶望」に陥リ易い時代です。死を宣告されれば誰しも感じるのは絶望的感情になるでしょう。これはわかります・愛する人の場合どうだろうか・これもわかリます。親子・かけがいいのない友人たちの場合。一人の命は地球よりも重いとおもうでしょう。 この間 私の身の回りに 亡くなる方が多かった。こんな中では気持ちがどうしても滅入ってしまいます。これは人の道を歩む限り避けられないです。でもね「絶望」に陥リ易いのは

人災による大勢の生命の危機 に直面し、あるいは苛酷な実態を知った場合どうだろうか。多くの国民は 311でその事実の一端を知るところとなりました。次の世代の人のことをヨリ深く考えるようになりました。私もその一人です。原発はいらないという声は民意になったといっていいいと思います。しかし

 一方で過酷な実態を受け止められていない人々がおおい現実 があります。

この間 風邪をこじらし ベッドと居間 往復の生活を送りました。5日目です。テレビも新聞も普段より多く見ました。世は選挙に突入しました。いわく 脱原発は非現実的・原発は核抑止のために必要・国防軍にする・憲法改定・等々が威勢よく飛び出しています。テレビはどのチャンネルも同じようにレストラン・料理・名所旧跡・サプリメント紹介・ドタバタを伴っての歌番組 ましなのは中村勘三郎逝去を悼む番組だけだった。

震災地震・原発事故などの報道は影をひそめ、政府 は放射線の恐ろしさを隠し、放射線被害を 軽く、低く 小さく 見せる路線で国民を安心させ 原発再稼働を狙っています。その証拠は、福島原発放射線の収束宣言直後に原発輸出に動き出したことでもわかります。輸出の利得のために「安心」と輸出先での「原子炉の燃料」が必要だったのです。日本の原発の再鼓動を急いだのはそのためでした。利得のためでした。

いまもって原発避難民が16万人がいるのに

福島原発事故原因究明と、収拾のめどが立てていないのに 収束宣言の傲慢さ

今日テレビで双葉病院など被災地にあった老人医療・福祉施設での悲劇が報道されていた。放射能避難移動中バスの中で11人命を亡くし、200キロ転々としてきたバスがやっと着いた いわきの底冷えのする体育館で50人亡くなったという報道です。終わりの見えない強いストレスのもとに生きる福島の住民、かえるに帰れない苦悩の住民。健康不安。私は先月閖上で福祉施設の悲劇後を見てきました。日本社会の高齢者を思いやる文化は一体どこにいいてしまったのだろうか。「福島の復興なくして日本の再建なし」などとうまいことを言って実は反対のことをやってきた今の政治。その動向を見るとき本当に絶望的な気持ちになります。おそらく現行選挙制度の中で民意を反映しない結果も予想されます。

小生はやや絶望気味ですが、とはいえ絶望するほどの感受性はないのかほどほどにいきています。しかし家族の暮らしを担い、高齢者の福祉を担い、仕事の責任を果たしている大勢の庶民がいます・絶望する暇もないしいろいろ同時進行で課題をこなし、細部に喜びを見出い、変化に希望を持って生きています。

生きてあることの意味を 歴史とじぶんの来歴にとらえ  過去たちの中に   仲間を捜し

対話し 探ってみたい。前向きな希望が湧きで出来るまで深めるべき時代に出会ったのだろ

うか。

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この表紙の少女  私らはこの少女に見つめられている

もと岩波書店の社長の安江さんが存命のころ  大江健三郎と「核・エコロジー」と題して

対談をされ   それを私が勤めていたところのメンバーむけ冊子に掲載したことがあった。

かれこれ4半世紀前のことだ。何せビッグ対談、内容の濃さは時代を透視するもので感動

をおぼえたものだった。

ところでその内容にふさわしい表紙だけを紹介する。

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じーっと  後ろから迫ってくる自動車。・・・・

それとはきずかない少女・だが不安なまなざし・・・・ 

私らはこの子に見つめれれている・・・・・・ 

今年中に  石巻の大川小・ そして女川原発の前の立ちたい

と思う。

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今なぜ いまサダコ か  千羽鶴か

文学座の四街道公演(千羽鶴)を鑑賞してからというもの

      今なぜ いまサダコ か  を考えています。

もう1度歴史を繰り返させてはならない。という思いです

12年の生と死 1943~ 195510

サダコは原爆にふき飛ばされたが奇跡的に助かった。黒い雨に打たれていたサダコ

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かすり傷一つおわず、病気1つすることなく育ち、6年生になり、クラスのリレー選手1位だった佐々木偵子ちゃんが突然発病、21日日赤病院に入院。耳の後ろにしこり、それがだんだん大きくなり、リンパ腺の肥大首全体に。白血球増加、輸血26回。皮下出血。苦痛耐え「早く学校に行きたい」、鶴を千羽折ると願いがかなうと折り続けた。664羽で力尽き原爆の犠牲者になった。枕もとには最後までおり続けた小さな折りヅルが残されていた。(母の証言)Sdsc00547

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この年、偵子と同じように14人の子供が犠牲になっていた。同級生たちも多くはヒバクシャだった。入院の真実が知らされたとき教室はシ-ンとなった。他人事ではなかった。折りずるの碑を建てる運動は同級生から始まった。台座に「「私たちの叫びです。祈りです。」と刻まれている。台座の内部には日本で初めてのノーベル物理学賞受賞者 湯川秀樹が寄贈した鐘がつるされている)

 当時放射線のからだに及ぼす影響は日米政府によって否定され、原爆投下の翌年の46年に早くも、新聞までも「もうおさまった」と報じたという。だから国民にも放射線の人体に及ぼす影響は知られていなかった。しかし火傷をおわない人たちの間で早くから腹が飛び出したり、吐き気・下痢・頭痛・脱毛に苦しみ後遺症、白血病がんは続いていた。(急性症状で倒れたり・白血病にかかり次々に亡くなっていたのに徹底して被害の実態を隠したのは何故か?)

一見健常者なのにぶらぶら病といわれる症状は町の医者だけが知っていた。採血すると黄色の血が採決され、貧血・肝臓、生殖器に影響は及んでいた。原爆投下から7年間・1952年サンフランシスコ講和条約まで米占領軍は報道統制(プレスコード)を敷いていた。(医師肥田俊太郎は内部被ばくを指摘して5回逮捕されている・何故逮捕まで隠そうとしたのでしょうか?

1955年ビキニ環礁での水爆実験場から170キロ近く離れて操業していた第五福竜丸が放射能(死の灰)をかぶり久保山さんが「犠牲者は私を最後にしてほしい」の言葉を残し悶絶しながら亡くなった。 マグロ汚染に怒った杉並の魚屋の主婦の叫びから始まったという原水爆禁止署名は瞬く間に3000万を突破し第1回原水爆禁止協議会世界大会は佐々木貞子さんが折り鶴をおっていた8月に開かれるようになった。57年には被団協が結成された。57年にやっと原爆医療法(ヒバクから12年目・不十分な内容)ができた。ストックホルムアピールの全世界3億の署名が呼応し朝鮮など戦争での核兵器使用を思いとどまらせる力となって行った。

「1960年頃まで白血病の死亡に続いていた。60年第半ばからは癌をはじめ放射線による晩発性障害による死亡が急速に増えていった。放射線降下物や残留放射能に汚染された塵や埃を吸い込んだり、飲食類を体内に摂取することで(内部照射で)内部被ばくをした被爆者は今なおさまざまな疾病にかかって死の苦しみとたたかっている。だからこそ福島の被災者と連帯が…・・・」と。(日本原水爆被害者団体協議会 代表委員 岩佐幹三 2015年NPT再検討会議準備会 ウイーン、再び被爆者を作らぬために、世界のみなさんに訴えます。ヨリ)

私らはサダコの国に住んできました。私らは内部被ばくの久保山さんの犠牲を目のあたりにした国に住んできました、私らは37万人の生存被爆者が暮らしている国に住んできました。私らは内部被Sdsc00551_2 ばくを認めなかった政府のもとにいきてきました。被爆者の裁判をかけた戦いで国は敗れ、やっと内部被ばくを認めてのはつい数年前だった。放射能被災に「小さく・低く・軽く」して対応してきました。補償には直爆などの条件付けた。入市被爆をみとめなかった。以遠の黒い雨の被爆者をみとめなかった、等々。被爆者に対し、戦争被害は国民等しく受忍しなければならないとした高名な学者たちの意見書を活用して裁判に当たる等々。)

なぜ今サダコか  次回へつづく

写真広島放送局刊  原爆の子  ヨリ

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私の 原爆体験 ヒロシマそして今 藤川さんの証言 2008年12月

私の 原爆体験 ヒロシマそして今  

                        藤川浩司 

世界で始めての原爆投下から63年が過ぎました。

 私は当時17歳、学徒動員で市内の軍需工場で朝鮮からの徴用工たちと一緒に働いていました。 8月6日の朝も8時からの仕事始めで待機中7時半ごろ警戒警報が鳴り8時ごろ解除になり、職場に戻ってまもなく「ドカーン」と大音響と共に鉄骨建築物の屋根や壁が吹き飛ばされました。

恐る恐る空を見上げると巨大な入道雲(キノコ雲)が空高く昇っていました。そのうちにその雲が真っ赤に染まって見えました。市内全域の火災に依るものだと思われました。 再爆撃もなさそうなので、工場外でみんなで情報交換をいたしました。誰からともなくみんなで「ガスタンクの爆発だろう」とか「太陽の爆発」とかまた「B29が落ちて爆発」などなど・・・

 これまでの新聞紙上やラジオによる爆撃の惨状の報道にもなかった新しい惨劇でした。暫くたった時に学校の担当教官から「新型爆撃により,

広島市

内は全滅の模様、工場勤務は中止とするので各自自宅に帰るように指示がありました。

工場から眺めた市内の建物は全壊・全焼・帰宅するにも道路は通行できず、川沿いに歩くよう指示がありました。自宅まで焼く2km弱です。川に沿って歩き始めましたが、市内に入った途端に男性・女性の区別もつかない、衣類は焼け皮膚も焼け爛れて皮がぶら下がっている姿、まさしく幽霊の行列と出会いました。

「水をくれ」水をくれ」「痛いよう、痛いよう」「病院へ連れて行ってくれ」「お医者さんを呼んでくれ」・・・・と「阿鼻叫喚」とはまさしくこの状況だと思いました。自分の頭の中は自宅にいる父、母、妹のことが心配で、助けを求める皆さんには「ごめんなさい」「ごめんなさい」と謝りながら自宅に戻りました。通常なら30分で帰りつく筈なのに、道のない道を歩いて約2時間でやっと自宅にたどり着きました。瓦礫の中から自宅を探すのは大変でしたが、幸いにも妹は倒れた家の下敷きになりながら自力で這い出ていました。父親も同様でしたが妹と二人で何とか引っ張り出しました。

「お母ちゃんがいない」 聞きましたら警戒警報が解除になったので洗濯物を持って2階に上がったとのことでした。慌てて付近を捜したところ、帰宅途中で出会った人々と同様の状態で吹き飛ばされていました。近所の病院も警察も学校も全壊、全滅で思案に呉れていましたら、軍人さんが数名見えて手伝うからここを出て知人宅に行くように指示されました。(後から知ったことですが、この軍人さんは佐倉連隊千葉出身の方でした。現在存命かどうかわかりません)。やむなく焼け残った戸板にぐったりした母親をのせて知人宅に運び、廊下で雨露をしのぎ介抱をいたしました。

翌朝35歳の若さで息を引き取りました。それから近くの川の土手に一人で穴を掘り、荼毘に付しました。どれほどの時間が経ったかわかりませんが、夕刻には遺骨を持って自宅に帰りました。

 当時父は町内会長をしておりましたので、町内から外へは出られませんでしたので、焼け残った材木、トタン等でバッラクを建て住むようになりました。救援物資の食料、飲料、衣類等を頂きました。被爆の翌日に叔母、従弟妹たちが近郊から“おにぎり”や“惣菜”を持って見舞いに来てくれたことは未だに嬉しく記憶に残っています。そのとき訪ねてくれた従弟が今日の四街道の催しについて趣意書を最初に広島平和祈念資料館への届けてくれたのも何かの因縁だと思います。彼は入市による被爆者手帳の申請をしましたが、彼の母親が申請をしていないこと、また何故今になっての申請の理由が不明とのことで却下されました。昨今「原爆症認定訴訟」の報道がなされていますが、政府は第二次世界大戦では原爆だけが救済の対象ではないとの認識だと思います。 私は昭和23年まで広島に住み、後は東京・埼玉・千葉と61年に亘り関東に住んでいます。

 私は77歳まで、頑なに被爆の話題は避けてまいりました。千葉県原爆被爆者友愛会に一昨年入会し、一昨年入会した千葉県原爆被爆者友愛会の人たちが、先立ちの被爆死者の無念と尊厳を思い、再び被爆者を作らせない、と核兵器廃絶を願い、核兵器の魔性に満ちた非人間的兵器を告発し続けている姿に接し、ヒロシマの原爆碑にあるように〔過ちは繰り返しません〕を、実現させるために、私もやっと心を開き素直な気持ちで当時の状況を話すようになりました。

 又、被爆当日、動員先から自宅への帰途、負傷者を見捨ててしまったエゴ、自分の家族が無傷であることだけを祈った羞恥、それがくいとなって自分の心に深く残り、その悔恨の念が定年後の地域ボランティアへと駆り立てて今日に至っています。

 

これからは残りの人生を体力の続くかぎり原爆を直接受けた私が、原爆の恐ろしさを後世に語り続け、平和な国であるように「核兵器廃絶平和都市宣言」をされた

四街道市

の実行委員の方々にお手伝いを約束いたします。

 「平和に暮らせる」を祈念して私の体験談を終わります。2008―12―21

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ある牧師のメールから  被災地で、「分けると増えるってほんとだなぁ」

「分けると増えるってほんとだなぁ」

ある牧師のメールから

・・・・・帰りの車のなかでぼんやり考えていたのは、「分けると増えるってほんとだなぁ」ということでした。あちらでは本当にカセットコンロのガスボンベが貴重です。10倍以上の価値があるといっても過言ではありません。その価値とは「値段」ではなく、ガスボンベ1本あることが「希望」であり「喜び」なのです。被災していない家にある三本のボンベはそのままではたんなる三本ですが、そのうち一本でもわけると、「希望」や「喜び」が、困難の中にある人たちの中に、そして私たちの中に、確かに生まれるのです。・・・

(阪神大震災時   茂原で分けていただいた天然ガス用ガスガマ50台を仲間たちが手分けして担いで新幹線で運び 神戸市内の公園でテント生活の被災者に分けたときのことが思い出され、なるほどと思った。寒い中ホカホカのご飯が作られた。ガスガマは多くの人からのカンパだった。単なるお金ではありえなかった

N牧師さんが救援に入った陸奥仙台は私の故郷。被災を受けた多くの友人・親戚・知り合いの顔を浮かべながら読みました。ありがとうございました。)

その4 団地と 里山(山梨)の木々  朝の散歩

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大石又七さんのこと

大石又七さん

一昨年のビキニデーにての氏の発言

 (広島県の1000倍の威力を持つ)水爆実験による放射線を頭の上に、毛の中に降り注いだ。放射能は骨

に蓄積していった。・・・保障はなく、保険もおりず、ただ差別だけ残った。多くの被爆諸氏は沈黙する

ことが唯一の選択になった。私も焼津を離れ、わが子の死産のショック、がん手術もしたが、しかし、沈

黙を強いられ苦悶の中で一人欠け、二人欠け、三人欠けていく中で無駄死にさせてはならないという内側

からの声に押されて明らかにした。調べるうちに私をはじめ被爆者に言われていることがうそであること

がわかった。本は4冊になった。もうまっぴら、再びあってはならない。戦争さえなかったら原爆投下はな

かった。戦争につながるものはなくそう。世界への災害救助隊に変える。全世界に貢献し日本が尊敬され

る道はこれだと思う。

(来日しているNPT ニューヨーク行動の全体責任者のジョセフ、ガーソンさんは大石又七の功績をた

たえていました。四街道で40冊売れた大石さんの本は英訳されています

内部被ばくの恐ろしさをとことん突き詰めていたら原発はつくれなかったはずです。

大石さんがたどった内部ヒバクシャの恐ろしさ、内奥の苦しみにを、これから福島の被爆者の身に起こる

であろう苦衷を想像し重ねて考えることが・・・・・・・・。、

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