A子供や若者からもらったもの

若者たち ショック、いかり 反省 行動、の様子、さまざまな反応

四街道をきれいにする会は来月15日は105回目のごみ拾いだ。継続は力。さまざまの反響をひろげてきた。この間学生たちが私のパワーポイントに反応している。まちおこし授業から・・・・

きれいにする会のパワーポイント(ごみひろい)をみた若者たちはショック、いかり 反省 行動、の様子、さまざまな反応

驚き19Tさん)廃棄物のパワーポイントを見たが、すごかった。  (20歳Cさん)ビックリしました。この事実を若い人は知らない19Sさん)とてもショック。自分の生まれ育ったまち、悔しいし、悲しい、がっかりした。(19Nさん)ものすごい量があるということを改めて知ることが出来ました。とてもショックでした。怒り  20Mさん)千葉で大量の不法投棄がなされているなんて知らなかった。佐倉、四街道の酷さを見ると、県全体の問題である。もっと大きく取り上げるべきだと思う。許せない。19歳女性Nさん)車の中からのポイ捨てなど良く見かけます。かなしくなります。21Iさん)ポイ捨てが、そのうち当たり前になってきて、ゴミがたまっていく現実が非常に怖いと思った。21歳mさん)産廃を捨てた会社をもっと厳しく取り締まる必要があると思いました。そして、見つけてそのままにせず、国が何とかすべきだと思います。

反省  四街道にあれほどゴミが不法投棄されていたとは知らなかった。同じ千葉県民として恥ずかしかったし、何か対策を考えなければ本当にやばいのではないかと思いました。(20歳Uさん)「ゴミはゴミを呼ぶ」という話はその通りだと思いました。僕はたまにポイ捨てしてしまうことがあります。しかし、見て考え直しました。これからはどんな理由があろうとポイ捨ては絶対にしません。(22Kさん)私も「いけないこと」と分かりつつタバコのポイ捨てをしばしば。「誰かがきれいにしてくれるだろう」という気持ちがあると思う。自分勝手な行動をとると必ず自分以外の人に迷惑がかかる。その意識をしっかり持って、ゴミ問題以外のことでも「自己責任」を持って行動したい。(20Iさん)自分もポイ捨てしてしまうときもありますが、そのゴミを誰かが片付けているかもしれないって考えると、どんなに迷惑をかけてきたことか・・・。すごく考えさせられました。(20Tさんぜ捨てるゴミと一緒に人間のプライドを! この名言を胸に秘めたい(注ゴミゼロマーチ1号ちらし)

清掃事務所でアルバイトをしていたことがあります。可燃ごみの日に不燃ごみを出す住民がいます。それは注意書きのシールを貼り、残していくのですが、集積所にゴミが残っていると歩いている人がどんどんゴミを捨てていってしまい、ますます汚れてしまっていきます。さらに割れたガラスを袋に入れただけで捨てられて、集積作業員がケガをするときもあります。私は焼き鳥の串が手に刺さってしまいばい菌が入り、手が動かなくなってしまった事があります。ゴミを出す側のマナーが悪いと思います。集積の大変さが分かれば、マナーも変わっていくと思います。

19Kさん)四街道のパワーポイント、非常にわかりやすかったです。四街道にはゴミ、産業廃棄物が大量に放置されているようで、市民たちのボランティア活動によって変わっていく様子が分かりました。すばらしいことだと感じました。

20Iさん)地域のごみを拾って町をきれいにするということはとてもすばらしいことです。しかし、それ以前にゴミを捨てないという強い意志を人が持たなければ、エンドレスな物になってしまいます。先ず、ゴミを捨てない、捨てさせないというものが町をきれいにする第一歩なのではないかと思います。

19Aさん)現状を知ることが出来てよかったと思います。自分たちが地域が汚れているという現実に自分たちの意志で立ち向かう試みは素直にすばらしいと感じました。

19Oさん  つくづくゴミ問題がどれだけ深刻なことかってことに気づかされました。今まで自分がやってきたことに反省し、これから機会があれば地域のゴミ拾いなどにも参加し、町をキレイにしたいと思う。

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8月26日 平和フェスティバルで歌った”ふるさと ”

8月26日 なくそう世界の核兵器広げよう被曝者援護

ピースフェスティバル の集いが千葉文化センターアートホールで行われたた。千葉県原

爆被曝者友愛会が中心の実行委員会が主催し私も実行委員の1員を務めた。感動的な芝

の朝ちゃんをはじめ、被爆者と高校生の対話等の中で出演した四街道少年少女合唱

団は会場を魅了した。

最後に歌った故郷の曲にみんな引き込まれ こころにそれぞれのふるさとがよぎった。

私はなぜか 3・11の 津波で亡くなる前・病床の兄と語ったふるさとが浮かんだ。

かれが存命だったころ私が書いた書いていたものがある。その1部を以下抜き取って

みる。 

故郷 があって私が在る

・・・・育ったところに行ってきた。病に臥す人としぜんに幼いときの話になった。家の隣の人の消息やまわりの町名や街並みの話がでてきた。町名では城下町に特有な定禅寺 花京院通り 鉄砲町 二十人町 車通り 遣水町 空掘町 新寺小路に寺小路 霊橋と評定河原 などなど我が家につながる道だ次々に出てきた。道々にまつわる久しく忘れていた様々なシーンが浮かび上がってきた。全てがなつかしい名前であり場面だった。色々な仲間と遊び行きかいしたところだった。

しかしそれらの地名は数十年後の今では殆どなくなり、「番号町名」になってしまった。町並みもすでに変わり果てた。何か大事なものをうしなったような気分に襲われた。このような感慨は誰にもあることであろう。年寄の単なる感傷でないことを意識させたのは「ニ人称の死という書物」だった(福祉ボランティアで一緒した方の親族の著)

 人は誰だって親しい人、愛する人の死に遭遇するほどつらいものはない。それは、生前にその人と〝私〟いいかえれば〝あなた〟と〝わたし〟の親しい関係、対話があってのことだ。でも見知らぬひとのそれはどうだろうか、なんとなく他人事となってしまう。著者は人間の尊厳への思索を「二人称の死」へのむきあいから始まったとして鈴木大拙を解説する。

そこで私は「人」を「ふるさと」におきかえてみた。私の故郷など他人にとっては何の変哲もないただの地域であろう。が私にとってはかけがえないものでとにかく懐かしい。私は故郷を出てから45年をこえた。青・壮年期はたまにしか省みる事はなかった。私と同世代の多くの人たち(つまり経済の高度成長時を経験した世代)も故郷をたまにしか省みなかったのではないか。

「故郷」に含意される意味を疎んじてしまった。結果として人間を手段化し生活が目的にはならない面白味のない日本社会作りに加担してしまったともいえる。今様々な社会的病理現象 格差 排除社会の事実をつきつけられている。 私はその背景に「ふるさと」と「景観」を喪失させた列島[開発]があると思えてならない。

よるべき心のふるさとを奪い浮遊させてしまっている。生活から心を取ったら荒廃がまっている。そんな中先行き不安から強い政治権力を望む風潮すらみられる。

故郷と自然 街並み 景観  そして近隣 の人々  何よりも子供たち との「親しい関係」を作ることを阻む長時間労働 雇用形態を根本的に変えること抜きに活路はみいだせないであろう。

 まず私自身のこれまでの立居振る舞いも問われることになる。周りとの親しい関係 「 貴方がいて私がいる」に加えて「故郷」も 「地元の自然」も  「近所」のひとも 「医者」も 「福祉」もみんな「二人称の関係―あなた的関係」になるようにすることであろう。

そう考えると”先達”が沢山いることにきずく。足元にたちかえること、自分・自分の持ち場で、脚下ではじめているひとたちである。・・・最近亡くなった詩人の茨木のりこは「ダメな事の一切を時代のせいにするな それはわずかに残る尊厳の放棄」と詩にしたためている。わずかに残る尊厳を放棄はすまい。

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8月26日「ふるさと♪♪」を口ずさむ私の声が低くなり、壇上の少年少女合唱団を後ろに会場に向かって指揮を取る指揮者の姿もかすみはじめた。

当日私は原爆展の担当だった。展示パネルを説明する被曝者友愛会会長の青木さんのナガサキ弁の声色も浮かんだ。白血球が普通人の半分のからだで杖を突きながら丁寧懇切に当時の様子を語る様子。彼にとっての故郷は?世界史上初めての原爆投下地の惨状。たくさんの2人称の死・おびただしい犠牲者から 生きてノーモア被曝者の生のリレーランナーとして、「使命」をいたくされたて生きてきた。生きる事がたたかいだった人。

「昔があって今がある」

「未来があって今がある」

「故郷があって今がある」〝いま〟〝ここ〟に生きる意味がうかびあがってくる。

みんなに無性に感謝したい気持。”ふるさと”を一緒に歌ってくれた四街道少年少女合唱団員の皆さんありがとう。「ふるさとのメロデー」にも有難う。

   

合唱団は会場参加者とともに「故郷」をうたった。

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あきらめないまち  石巻 その力におれ達はなる,人間って いいな

あきらめないまち  石巻

その力におれ達はなる

石巻工業高校生。春の高校野球選抜大会宣誓

人間って いいな

私は昨春に3回石巻に兄の霊をたずねた。 ・石巻市は人口16万人だが死者・行方不明は最大の4000名近く。海岸・北上川沿いが殆ど壊滅。今でも石巻と聞いただけで足がすくむ。もがくようすも臨場感をもって地獄のような想像場面でくるくる出てくる。現地の被災者の心労・苦労は想像できない。

すくむのはそれだけではない。隣町の女川原発周囲のよーすがセットされて出てくるからだ。最近の友人の知らせによると「女川原発は危機一髪3・11は外部電源5本の内、地震発生後生き残ったのはたった1本、4月7日の大余震で生き残ったのもたった1本。しかも前回と今回では通じたのは別別、本当に危なかった。」

女川原発は 福島原発よりも震源地に近い。女川町は津波が40㎡を超えたと今月の調査。しかも40年使用の福島原発と同系の原発。福島原発後、3大紙はまるで見てきたように、「女川原発は安心できるのはなぜか」とうそっぽい大きな記事を載せ、東北電力は再開方針述べた。

冗談ではない。数10キロ先には仙台があり100万人口がひしめく。風光明媚な牡鹿半島/金華山には鹿が至近で放射線を浴び、仙台までの石巻線沿線(まだ復旧していない)には多数の死者がでたがでた南三陸町、東松島・多賀城市がある。

この地域には同窓生・親類が多い。千代田さんらがひとごとには思えない東北での人も多いと思う。

さて加齢はどうもいけない。わが町、わが国のような政治風土で、一人の老人が、気張ったところでどうなるものではない。一人悶々の世界に入りかねない。

ところが石巻工業高校生。春の高校野球選抜大会で

あきらめないまち  石巻  その力におれ達はなると  宣誓をきいた

そしてこうも言った。おれたち選手たちの間にもう壁はない。精いっぱい生きる事が私たちの使命。

それを聞いた後。房総の花を手向けに送った東北の犠牲者の家族から便りがとどきだした。

又 かっての知人 からメールや手紙が来た。辛酸をなめているのに被災者が主体となった書き方だ。私たちの支援も、支援先の立場に立って被災者を主役にできるように支援することが肝心だと思った。   あきらめないで何かできることがあるはず。被災者から学べる。

若いっていいな。人間っていいな

  

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北国から   みちのくから  便り

いつもメールをありがとうございます。

毎回読んでいますが、なかなか返信できずすみません。

先日の、子どもたちが原発のことで政府要請している

動画は、涙なくしてはみられませんでした。

職場で声をだして泣きたくなりました。

私も、もっともっとがんばらなくては・・と決意しました。

これから本格的な冬が始まります。

仮設住宅の周りは、岩手の場合何にもない雪の中です。

通常でも寂しいのに、もし一人でいたらどんなにか

寂しい数ヶ月になるのかと思うと・・・。

でも、高橋さんのように忘れずに考えてくれて、足を運んで

くれようとしている人がいることは救いです。

私も、引き続き支援の運動を組み立てていきます。

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さわるな うつるから  差別を生むもの

この子供たちを守りたい・・どうしたらいいのだろうか?・  思案の  ・年金生活者T

となりの机の子が 消しゴムを落としたので

拾おうと思って 手をのばしたら、

さわるな うつるからって・・・・・・おばーあちゃん ぼく悲しい・・・

福島の原発事故で千葉県に越して来られた方の事です。原発から9キロの強制避難の方です。我が家でご夫妻と「お茶」したとき、娘が来るからそろそろ帰らなくてはと席をたとうとしたとき・ポツリと私と妻の前で漏らした言葉です。11月22日の事でした。

以来、語った時のMさんの表情とT君の言葉がこびりついて離れないのです。悲しそうな、悔しそうな、言い表せない眼の表情。小さな胸を震わせ、大好きなおばーちゃんに、胸の内を明かしたT君の事が折に触れて浮かんできます。

T君とはまだあっていません。でも僕の孫と同じ年の、千葉市の小学校3年生です。孫がこのようなことにであったらと思うと…すぐにもT君のところに行って抱きしめてあげたい。「僕はいつも君の味方だ、心配するな」と。

さわるな、うつるから」といった子も小学校3年生です。彼もまた「大人・社会のこと」を素直に言ったに過ぎないのです。大臣まで「うつすよ」といった国ですから。仲良くしたいのにできない被害者の一人ではないのか。

私もまた差別を許してきた側の一人として、「Tちゃん、安心して、未来の君を必ず守ってやるから」と堂々と言えなのです。

T君はじめ福島の子供たちは、何も悪いことはしていません

たまたま原発がある福島に生まれただけです。そういえば生涯にわたって被爆障害で苦しんできた広島・長崎の被爆者もたまたま広島・長崎に居合わせただけです。しかし「就職、結婚、仕事・地域」で差別されてきました。四街道にお住いの藤川さんは77歳で初めて勇気をもって被爆者であること公にした方です。数十万人の被爆者は隠さざるを得ない重い十字架を背負っていきてきました。

福島の子供たちへの差別の源流は広島、長崎の「ノーモアヒバクシャの心」に向き合わなかった事にあるのではないか。私たちの問題ではないか。改めて広島前市長と双葉町から避難された千代田さんの話を18日聞きたいとおもいました。

T君はじめ福島の子供たちと、子供の未来の健康と命のために何か1つでも出来ることはないだろうか?   73歳の私が出来ることはbccで「このメール」を貴方に送ることです。他にも何かきっとあるはず。散歩がてらに測定器をもって測定して歩くこと。もっとある。さしあたり12月18日の集いにお誘いです。 そして学びあうことですね。あなたがやっていること、やろうとしていること、提案など、から学びたい。        

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福島の子供 テレビから   9歳の僕、「大人になれますか?」

6日朝のテレビ「みのもんた 」 

 福島の130人の子供の手紙をもった3人の子供が上京し官僚に訴えた様子を20分にわたってうつしだしていた。   写真テレビから

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映像   

13歳女子  「大人が勝手に作った原発で、なぜ福島の子供たちが被爆しなければならないの?」「福島全域で、徹底的にきれいにする計画を立て、それを実行してください」

官僚  「省庁と連携を取り取り組んでいます・」・

9歳女子 「早く除染してください」「(3・11から)外で一回しか遊んでいません」

官僚 「最大限努めています」

9歳「最大限ってどおいうことなんですか?」

 ・・・・・・・・・・同席の官僚たちマイクを回しあって誰も答えられない・

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9歳S君の手紙 画面に「いつになったら放射能なくなるの」

「早く外で遊びたいです」「家族と離れて暮らすのはイヤ」「友達と離れるのはイヤです。」

質問「今1番の願いは?」

子供らしい声色としぐさで悲しいひょうじょうで。

   「放射線がなくなって家に帰ること」

   「マスクなしで外で大好きなサッカーできること」

   「今の福島ではいっぱいサッカーできません」

再び子供からの質問

    僕、大人になれますか?

    どうか私たちを助けてください?

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南相馬市の中学校の体育館であった給食の子供たち(添付)がダブって見えてきます

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さて私は子供の質問にどう答えるだろうか?孫から聞かれたらどうしよう。

   安心しろ。大丈夫だ。原発なくして放射線を出ないようにするから。・未来は明るいぞ・・と胸を張って答えること出来るだろうか? 
 どうすればいいのか。私達の、いや私の生き方が問われることになる。まずは子供の問いかけを反芻したい。子供の質問に明解は簡単「原発なくします」。これを国の基本政策に早くすることですネ。そのために・・・・・・・・・。
家の周りでも計測すると高い値のところがあった。足元の問題である。これより先枯れ葉じじーのやれることはたかが知れているが。
枯れ木も山のにぎわい。みんなについていきたい。でないと
子どもの率直な問いに答弁できない官僚と同じで、おかしな社会に加担していくことになってしまう。
子供率直。嘘がない。子供に学ぼう

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おしゃべりの輪よ広がれ,広がれ

かって私も加わった「おしゃべりの輪」Spdr_05922 私の授業

31suan28 たき火は面を白くほ照らす。顔(おも)が白くなる。だから面白い。

S 人権のつどい。働く輪(分科会)。地域で。

S428_0522 私の授業で

S_045 仲良し

S9_052 ホタル生息地清掃

おしゃべりはふつう軽んじられる。あぶくのようにその場限りといって。

でもね。えらいさんがいたり(上下関係)ジャッジする場では「おしゃべりはできない。

顔色うかがったり、バカ呼ばわりされる関係の場では心が開かない。

その点おしゃべりできるのは「うなずきあったり」「ただしあったり」「きずかされたり」対等な人間関係あってこそ。「横」を使わないのはもったいない。横は楽しい。縦の秩序関係偏重がこの国に住む人の心をおかしくしている。創造性を奪っている。

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仙台  仙台弁  せんでー弁

仙台弁

3,11を境に仙台弁が面に出てきた。

仙台弁では「恥ずかしい」ことを「おしょすい」とか「おしょすいこった」(このイントネーションが私にはえにいえない響きがある)とか言って裏に隠れていたものだ。

ところが大震災から日がたつにつれ、「悲惨」さの中にあって耐えに耐え、ひたすら家族と隣人を支えあっていた「ががさん(母、妻の意味)」たちがテレビ画面に堂々と出て仙台弁で語るようになった。そのたびに何かほっとする。

彼女らは「俺(おら)やんだ」(嫌いだの意)といってもう隠れない。福島原発に抗議する女性たちのあの「強さ」も見た。福島べんもいい。

私は兄の命を奪った石巻の現地光景を思い出すたびに足がすくむ。しかし、海岸沿いの「ざいご」(田舎の意)の人たちは、毎日足がすくむ環境の中にあって「こええ」(疲れた)とか言っておられず、「ていご」(おたがいに)におどけ(冗談の意)たりしながら必死にこらえ「かしぇえでいる(働いている)。「ひすて」(1日中、昼夜を問わずの意)戦っているのだ。

私たちは〔日本は〕みちのくの{がか}たちから学ばなくてはならない

それにしても「ぜいご」(田舎)で被災を受けた子供たちの様子、私には「もぞこく」て(不憫で)しょうがないのだが、時に見せるあの笑顔は日本中を励ましている。私も励まされる。

来週仲間と共にまたみちのくを訪ねようと思う。仙台のことを私が育ったころは(せんでー)とよんでいた。

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白骨難忘   感恩  有難

ある若い青年が  我が家を辞すとき「ベック グル なんとかーーー」と私の目を見てかたった。聞き取れなかった。

「なんといったの?」紙を差し出し「これに書いてみて」と頼んでみた。 

「白骨難忘」

みたことも、聞いたこともない言葉だった。スペルもきいてみた。baeki doh  mangと書いて

はみたが,正確に聞き、書き取ったとはいえない。しばし考えた。ややあって「なーるほど」

たとえ死んで白骨になっても恩は忘れませんよ、ということなのだ。オーバーな表現だが、

日本語の「ありがとう」だって「有難う」と書いている。「在る (有る)ことが難しいこと

をあなたが私にしてくれた、だから感謝する、ということなのだ。」だけど普段はそんな意味

も、ものともせず挨拶かわりにしている。 彼の国でもそうかもしれない。

でも彼は礼儀正しい立ち居振る舞いの中で「この言葉を使っている。サンキュー、ベリ-マ

ッチfrom the buttom、of my heart,ということであろうか。

またこんなときもあった

ベトナムの日本留学生が日本を離れるため 我が家を訪ねたとき「カンヌ-ン」といったことをおもいだす。『感恩」と彼女は書いてくれた。受けた恩に感謝する。ということなのであろうが、私が,さしたることをしてあげたわけではない。20091218 写真アオギリはたくましく育っていく

私も ベトナムの彼女も、ソウル生まれの彼も 古から 漢字を使ってきた国に育った。

漢字には言霊が宿っている。なんか通ずるものがあった。彼らは週1回家族と連絡を取る

親孝行、子思いの人たちだった。

 私はかってベトナムを訪ねたとき 彼女にはシンポジュームでつききり3日間、通訳をし

ていただいた。イントネーションは??だったが日本語の難しい用語を含め正確だった。

仲間と感心したものだった。小学校の子供2人のお母さん学者だった。

しばらくして政府留学生として東京外大に1年間入学。政府のお金が切れてから 日本

に滞在しもっと勉強したいという。よほど優秀なのか埼玉大ついで、東大の大学院 に受

かってしまった。さあ大変!仲間10人を誘って生活費(学費は奨学金)を5年間おくった。その最後の「カンヌーンだった」。

いまハノイの大学で教鞭をとっている。私に世界へ目を開かせてくれた方でる。こちらから「カンヌーン」だった。

白骨難忘のかたは日にに見えた。 米国のF大学の大学院生で歴史学を専攻

ている30才の青年であった。

驚いたことに彼は  日本の研究者が見向きもしないような第2次大戦前の東京の学生消費組合の資料をあさっていた。彼の私へのヒヤリングの 熱心さに押されて つい熱が入り話は 午前11時から夕方17時まで及んでしまった。彼は日本のT大学院に1年間留学中であるが 私がかって書いた雑文 も、すでによんでいた。。ソウル大学中から日本語と英語を学び アメリカは東海岸の名だたる大学の院生アメリカでは院生博士課程に月30万円の学資を出しているという。世界の若い知識人をアメリカに集めている仕組みがわかる。これに引き替え 学部生は授業料は高く大変だといっていた、

さて何で第2次大戦前の学生消費組合の資料あさっているのか。問題意識の一端をすこし知った。T大と韓国の大学で発表するという。時代は若い知性をもとめている。

こういうことを知るだけでも 73歳の 私のほうから「ありがとう」をいいたい気持ちだ。

 8日たずねきた彼に、私がここで調べたらと人を紹介したら すぐに連絡ついたと電話があった。当然とはいえ礼儀を心得ている。

こういう場合わが息子はどうするだろうか。やはり信ずることにしよう。でもあの親にしてこの子もありもありうるか。

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