1この社会のこと

いのちはみな尊い松永伍一 1982年 平和のための呼び掛けけにこたえて

1982年  当時の大学新入生に配られたピースナウヨリ

30年以上前 のもの。時代と人間世界を透視したもの、こんな詩人が100にん居れば時代は動くだろう。輝きは一層増す詩といえましょう。

いのちはみな尊い 松永伍一

こういう状況になったら、もっともプリミテイブなところから問い直すしかありません。「誰のい

のちもみな尊いのだ」という前提に立って、「それでも、なぜ、 いのちを抹殺しようとする核兵

器をつくるのだろうか」という問いを、まず人類の一員である自分に、それから他人にむけて

発することです。

核兵器はよその国の人間を殺すのに使うが、自分は安全であるはずだ、と考えている人が

いたら、それは大いなる誤りです。そんなのんきなことは言っておれません。

核の使用は結果的に「人類の共喰い」をやらせることにつながります。

そういう「人類の共喰い」を阻止するためには、「自分が殺されたくなければ、人も殺してはな

らない」という、子どもにも解る論理に立ち一戻ることでしょう。「核の抑止力」だの「東。西の

力の均衡」といった軍事力学をもてあそぶ者は、 一見きわめて科学的に見えますが、かれ

は「人は死んでも自分は死なない」という倣慢な立場にいて、「人が殺されるときは自分も巻

き込まれる」ということに気がついていないのです。私たちは近代百年のあいだに何度も戦

争をして、数えきれぬ生命を失いました。これからは核戦争になると予想されていますが、そ

の予想は人類破減という取り返しのつかぬ事態を含んでいます。だったら、それを人類の

英知によって喰いとめねばなりません。「いや、人類はそれほどバカじやない。戦争など起こ

らないよ」と言うならば、人殺し用の核兵器をはじめ、すべての武器の製造を中止し、生活を

圧迫する無駄な軍備を撤廃すべきでしょう。これこそ真理にもとづく、もっとも科学的な対

応です。

若い人びとが、こういうプリミテイブな考えに立って「いのちはみな尊い」と言いつづけてくれる

ことを望んでいます。

(まつなが。さいち/詩人)

繁栄は一炊の夢だった

『東海第二』廃炉を

 村上 達也さん  茨城県東海村長   朝日新聞

 実は東海村の日本原子力発電所第二原発も、東京電力福島第一原発で起きた「全電源喪失」の寸前でした。地盤の影響で外部電源がすべてダウン、非常用発電機でポンプを動かして原子炉を冷却しましたが、一時間後に押し寄せた津波があと70センチ高ければ、海水は防波堤を乗り越えて、すべての冷却機器が失われていたかもしれません。

 2週間後にその事実を知り、背筋が凍る思いをしました。東海第二の場合、20キロ圏内には75万人、30キロ圏内には100万人の人が住んでおり、県庁所在地の水戸市も含まれます。細野剛志原発相に「選択肢として東海第二の廃炉ということも考えるべきではないか」と問題提起したのは、こうした事情があったからです。

 そもそも世界有数の地震大国の日本に、54基もの原子炉があること事態が以上です。しかも、東海第二のように人口密集地に原発を立地している国は世界でもあまり例がありません。

 「原発が無くなったら住民の雇用をどうするのか」「村の財政をどう維持するのか」という議論も村内にはあります。しかし、原発マネーは麻薬と同じです。原子炉を1基誘致すると固定資産税の交付金など10年間で数百億円の金が入る。その金がなくなると、また「原子炉を誘致せよ」という話になる。尋常ではありません。

 東海村の人口約3万7千人の3分の1は、日本原子力緊急開発機構を中心とする13の原子力事業所と何らかのかかわりを持っています。また原子力関係からの財源は一般会計の3分の1に当たる約60億円にのぼり、まさに「原子力の村」です。

 しかし、今後の世界は「脱原発依存」が主流となるでしょう。いつまでも原発マネーに頼って入られない。日本最初の「原子の火」がともった東海村は原子力と55年の歴史を共有し、原子力が文化として定着しています。これを同地域作りに生かすかが重要です。

 現在、村では原子力に関する科学・技術や人材を総合的に集積する「原子力センター構想」を策定中です。「脱原発」の場合も、廃炉の放射性廃棄物の処理、原発事故後の環境修復など様々な技術や人材が必要になります。そのための基礎研究、人材育成を担う構想です。世界屈指の大頻度陽子加速器敷設もあり、海外からも多くの研究者や、学生が訪れ、欧米の科学研究都市に匹敵する条件がある。持続性の高い発展が期待できます。

 福島のような事故が起これば何もかも失ってしまう。原発による繁栄は一炊の夢に過ぎません。目を覚まして、持続可能な地域経済をつくるべきです。(聞き手・山口栄二)

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ふじの花 今が旬 非人間的なことを知ると きれいなものが見たくなる

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知らないことほど恐ろしいことはない

使用済み核燃料の冷却がとまる大規模な停電事故が発生

3月18日夕刻 福島事故原子炉の使用済み核燃料の冷却がとまる大規模な停電事故が発生したと発表。

これは1号機392本、2号機615本、3号機566本、4号機1533本、共用プール6377本、計9000本が冷却できない事態におちいったことを示している。これがあと4、5日以上継続くと規定温度を越える。冷却ができない状態がつづけば、臨界事故が危ぶまれる事態に陥りかねない戦慄すべきことになる。その寸前に至っていたることことになる。廣島原爆の何千倍の威力を持つ量だ。幸い電源が回復したが、原因はなんと電源盤は屋外仮設の建物にあって、ネズミ1匹が原因だという。あきれおどろく発表だった。

事もあろうに、ほかにも仮設施設がたくさんあるという。元原発設計者の後藤政志氏は汚染水が通る配管の劣化、汚染水貯蔵のタンク自体の劣化も危惧していた(TBSテレビ)。

多くの国民は、私たちの命がこれほどお粗末な原発管理のもとにあるとは報道規制があるとはいえ知らないできた。福島原発過酷事故から2年たつが収束おろかまだ16万人が避難している。今回の事故ははからづしも東北全体、日本全体をまきこみかねない状態に置かれていることを示すことになった。

こうなったら「いのちは皆尊い」というもっともプリミティブなところから始めよう

老若も,男女の違いも、イデオロギーも、信条の違いも、貧富の差も、人種の違いも越えて放射線は降りかかる。

足尾銅山鉱毒を告発した田中正造氏は明治45年の日記に

真の文明は、山を荒らさず、 川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」と書いた。それから100年のあいだに「山 川をあらし村を壊し人を殺してきたまぎれもない歴史の事実がある。原発はその頂点にたつ。私のような年代は、それを許した世代でもある。その過程を実感もできる。「命は皆尊い」

という立場に立って3世代をつなげうる立ち位置にある。

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新聞購読を東京新聞に切り替えた時 目に焼き付いたすごい記事

新聞購読を東京新聞に切り替えた時目に焼き付いたすごい記事

福島・浪江町 「希望の牧場」はいま  
   (東京新聞「こちら特報部」2012年8月25日)  ヨリ 

福島県浪江町の警戒区域で、放射性物質に汚染されて出荷できなくなった三百頭以上の肉用牛の飼育を続けている男性がいる。「希望の牧場・ふくしま」の吉 沢正巳代表(58)だ。国は同区域の家畜を殺処分するよう求めている。しかし、吉沢さんはそれを拒 
み続けている。「絶望ばかりのこの場所で、原発事故の意 味を問うていきたい」。被ばくも辞さず、あえて牧場にとどまる意味を聞いた。 (上田千秋

 

「被ばくした牛の動物園みたいなもの。殺されずに、寿命まで餌を食べ続けられるんだから」。牛舎で体を横たえている牛たちの前で、吉沢さんはそう切り出した。 開放的な牧草地が広がり、奥に牛舎や吉沢さんの新築してから四年の自宅がある。青空の下で牧草をはむ牛たち。見た目はどこにでもある牧場の風景だ。放射能の影響を体で感じるはずもない。牧草地に散らばった牛の白い骨がわずかに事故があったことを物語る。  同県南相馬市との境に広がる「希望の牧場」は、東京電力福島第一原発から北西約十四キロの地点に位置する。今年四月から、三十二ヘクタールのうち同市の四 ヘクタール分が居住制限区域となって出入りが自由になったが、残る二十八ヘクタールは立ち入りに 
許可が必要な警戒区域のままだ 事故当初に比べれば下がったとはいえ、空間放射線 
量はいまも毎時四~五マイクロシーベルト。そこで吉沢さんはボランティアたちと牛の世話を続けている。

 昨年三月十四日、十二日の1号機に続いて3号機が水素爆発。同町の住民の多くが避難し、吉沢さんも一緒に暮らしていた姉とおいを千葉県に避難させた。自身は牛の餌やりを続け、十七日からは上京して東京電力の本店や霞が関の中央官庁を抗議して回った。 「当時は牛のことばかり考えていて、自分の被ばくの危険性は頭になかった。それより牛に経済的な価値がなくなり、牧場経営が終わってしまったことに腹が立った」 牧場入り口のタンクに書かれた「決死救命団結」のスローガン。事故当時の気分を記した。
 「そのころ、東電が原発から撤退するという報道があった。頭に来た。死ぬ覚悟で国民の命を救え、と言いたかった」

 吉沢さんが東京に出かけたころ、牧場では運営会社の「エム牧場」(福島県二本松市)の村田淳社長が約三百三十頭の牛を牛舎から放った。放牧すれば、辺りの水を飲んだり、草を食べたりして、何とか餓死を避けられるだろうと考えた。

  福島に戻った直後、吉沢さんは迷いながら牧場に三日に一回のペースで通っていた。「牛舎につながれ、ミイラ化した牛が町のあちこちにいた。すごい臭いだっ た。餌やりを続ければ、こちらも被ばくするし、そもそも売り物にならない牛を生かす必要がある 
のかという迷いがあった」
 村田社長らと議論を重ねた末、吉沢さんは牛を生かそうと決めた。 「汚染された水や草をとり続けた牛を調べれば、被ばくの正確な状態が分かるはず。牛たちは原発事故の 
生き証人、役に立つんだと思った」 国は昨年五月十二日、衛生面などを理由に警戒区域 
の家畜は所有者の同意を得て殺処分するという方針を打ち出した。数百軒の畜産農家、酪農家に説明会が開かれた。

 吉沢さんは「逆にスイッチが入った。棄畜政策が進めば、今度は棄民政策で人間が見捨てられる。殺処分は臭いものにふたという証拠隠滅に等しい。ベコ(牛)屋として意地もあるけど、何が何でも牛を守り続けようと決めた」と話す。
 昨年七月、「希望の牧場」プロジェクトが始まった。警戒区域の家畜を守るために情報発信し、被ばく牛を研究対象にしてほしいと全国の大学などに呼び掛けた。

 これまでに日本獣医生命科学大や東北大など五つの大学が反応。牛の体内から放射性セシウムを排出させる研究や、セシウムが蓄積される歯の分析などをしている。
 福島県などによると、原発事故前、警戒区域にいた牛は約三千五百頭。すでに半数以上が餓死したとみられ、現在は約千頭までに減った。

 「希望の牧場」でも百頭以上の牛が病気や栄養失調などで死んだ。しかし、それに迫る数の新しい命が生まれ、他の牧場から引き取った分も合わせて、現在は 
約三百二十頭の牛を飼っている。 「いまいる牛やその子ども、その次の世代まで調べ 
て、遺伝に与える影響も研究してもらいたいと考えている。牛たちも草を食べ、子どもを産みながら抗議している」

 吉沢さんは各地で写真展を開いたり、講演もしている。月に一、二回は東京・渋谷の街頭に立って、運営費の募金を兼ねて演説もしている。怒りが口からほとばしる。 「福島では一つの家族の中でも子どもや若い人は遠くに避難、年寄りは地元に残るなど、家族まで分断された。原発事故の影響は多くの人生を狂わせた。それなのにどうして再稼働を許し、原発に頼ろうとするのか」

 吉沢さんは、浪江町の現状を厳しく絶望の町と表現する。 「大半の子どもは戻って来ないだろう。水源が汚染され、恐らくもうコメ作りもできない。工場など働く場所が再開することも簡単ではない。戻ってくるのは、二万人の町民のうち、十分の一ぐらいかもしれない」

 しかし、決して自暴自棄になっているわけではない。その目はまっすぐ前を向いている。
  「まずはそうした現実を受け入れないことには前に進めない。事故直後に逃げた判断は正しかったろう。しかし、被害やその後に起きた福島に対する差別は、逃 げて嘆いていても解決しない。一人一人が声を上げて、全国の原発を止めようとする動きに連帯し 
て闘っていけば、絶望が希望に変わっていくはずだ」

 警戒区域で作業をすれば、被ばくする。そのリスクは覚悟している。「家の中だと(被ばく線量は)半分ぐらいになる。この年なので、あまり気にしないけど」。ただ、内部被ばくの軽減についても、専門家と試行錯誤を続けているという。 吉沢さんは「今回ほど生命の問題について考えさせられたことはなかった」とつぶやいた。

 「多くの人が亡くなったり行方不明になったりした。家畜やペットも合わせれば、数え切れないほどの生命が失われた。自分も残り十年か二十年の人生だ。それを福島の人間の思いを伝えながら、国や東電、放射能と闘うために使いたい」

 よしざわ・まさみ 千葉県四街道市生まれ。東京農業大卒業後、父親が経営していた浪江町の牧場で酪農に従事。十数年前から、福島県内で7牧場を経営する有限会社「エム牧場」の傘下に入って、黒毛和牛の繁殖・肥育に取り組んでいる。

<デ スクメモ> 「町のアンケートを見ると、死にたい、意味がないと言う人が大勢いるんだよ」。吉沢さんはそう語る。彼の試みには賛否があるだろう。ただ、こ う話すのだ。「大勢の年寄りが生きがいをなくし、仮設住宅で死んでしまう。そうやって、人生を終わらせていいのかなと」。その言葉の重さに沈黙する。 (牧)





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93歳のおばあちゃん。私はお墓に避難します。嗚呼ー

南相馬市の九十三歳のおばあさんの自殺と遺書

    ルポルタージュ作家西村一朗氏からの情報提供

 ここで、六月二十二日付毎日新聞に掲載された南相馬市原町区の九十三歳のおばあさんの自殺について触れておこう。

 このおばあさんは、第一原発の爆発直後、住民が次々と非難していく中、長男夫婦と孫二人を含む一家五人で相馬市の次女のところに避難。

ところが、原発被災による南相馬市の勧告で長男夫婦と孫は群馬県へ避難したが、おばあさんだけはここに残った。四月後半、女性は体調を崩し市内の自宅に戻ったが、その二週間後に自宅庭で自殺した。原発事故による、本当に痛ましい犠牲だ。以下が遺書の全文である。

 このたび三月十一日のじしんとつなみでたいへんなのに原発事故で近くの人たちがひなんめいれいで、三月十八日家のかぞくも群馬の方につれてゆかれました。私は相馬市の娘○○(なまえ)いるので三月十七日にひなんさせられました。たいちょうをくずし入院させられてけんこうになり二か月位せわになり、五月三日家に帰った。ひとりで一か月位いた。毎日テレビで原発のニュース見てるといつよくなるかわからないやうだ。またひなんするやうになったら老人はあしでまといになるから 家の家ぞくは六月六日に帰ってきましたので私も安心しました 毎日原発のことばかりでいきたここちがしませんこうするよりしかたありません さようなら 私はお墓にひなんしますごめんなさい。

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私が訪ねたときヘルパーさんの車とともに車いすが点在していた。

ここヨッシーランドで津波でなくなった犠牲者数を超えて放射線を逃れて転々と移動させられた中でなくなった

老人のほうが多いときく。二五〇人。

今は無人の双葉町のむなしくそびえたつスローガン。

原子力明るい未来のエネルギーの結果は・・・

九三歳のおバーちゃんの自害に示されている。もう一度遺書を読んでみる。

何をなすべきか。犠牲者の死を無駄にしかけない日本。怒りが湧出してくる。

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  ギヤチェェンジ

 原子力明るい未来のエネルギーの標語を作った少年が

26年後の7月15日、避難生活を体験し自らの標語を原子力破滅未来のエネルギーに書き換え世に訴えた。(東京新聞5月18日以下の写真) きずきのために辛酸な体験があった。

私らは先月6月21日原子力明るい未来のエネルギーの大看板を双葉駅前で見てみたばかりだった。事故が起こってからは遅い。福島から謙虚に学び、次代の生きとし生けるものに責任を持つ生き方ヘ仲間とともにギヤチェンジしようと思った。

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面白い   これなーんだ  寄りあうと出来るもの

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面白い   これなーんだ  寄りあうと出来るもの

その1     草ぼうぼうから   4年目

8_019 草ぼうぼう・その下にゴミおっぱい。小学校前

S_078 我が住宅のメイン道路。草ぼうぼう/市管理化

これじゃー恥ずかしい。よし来た   定年男組   自治会有志と朝市連中立ち上がる

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花壇に生まれ変わる  花好きな魔法の手は女組と畑好きな男組

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そして2012年7月S2012_713_331_046

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4季折々の花が途切れることなく咲き乱れる花壇のようなメイン道路になっていった。

その維持は住民の有難うで支えられているが、やる人の日々の努力があってこそ。感謝。

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ここから300めーとる西に下がると  冒頭の写真光景が展開する  里地だ

これを壊そうとする動きがひそかに練られているという。

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被災地に足を運ぶ

被災地に足を運ぶたびに

現地に足を運ぶたびに被害の大きさを改めて痛感する。

時間が止まったような現場、瓦礫だけではない。福島原発事故周辺は「収束」どころか、被災者のからだ、こころ、くらしのすべてにわたり、苦しみをあたえているいる。

「政府」は福島の苦しみから離れ、何も学んでいない。苦しみの原因である原発事故の徹底究明を抜きに大飯原発の再稼働を昨日決めた。福島の人たちにどんな申し開きが出来るのだろうか。

この国に生まれた不幸を嘆かないように、できるだけのことをしていきたい。

来週福島、広野町から福島原発地域に行く予定だ。この目と心に焼きついたものを

いずれ語りたい。

その前にわが町に避難された方、野菜を支援している給食センターの方への昨年のインタビュウーを再掲する。初めての出会いだったので。

これを念頭に来週現地に行くつもりだです。

福島原発避難者にとって一番つらいこと                         

所用の電話の最後にこんな質問をしてみた

 一番つらいことは何ですか?

 家族がバラバラになったことです。

 わかるような気がします。(実は本当にわかっているとは言えないのだが)

 あの日からバラバラになってしまっています。子供二人は新潟の親戚に。両親と夫はよそで、仕事の関係もあるし。私はこの地でこうして単身で。

 (福島原発から)20K以内だったんですね。

 そう、家も流されました。

 (南相馬)そこで貴方は一生懸命・・・・  (言葉が出ない)

 皆んな私の子供たちですから――ここは学校給食センタ――

(彼女は、給食管理者)

 今度行ったときその子供たちに会いたい。隣が学校でしたね

 どうぞ。

この世に観音様のような方は確かにいる。確かにいる。

今、私の仲間は、南相馬の子供たちのために野菜を集め始めている。私のところにも集まってきた。これから取りに伺う。14日それを積んでHさん2トン車で南相馬に向かうことになっている。

その2

同じ団地に引っ越してきたHさん夫妻と

私 大変でしたね。何かやってほしいことあります。お互い様ですから。

H夫人 この辺わからなくて、・・お店とか(その後連れ合いは各所を案内したようだ。)

私 (次の日)母を引き取ることになった方が同じ団地にいて、その娘さんであるAさん夫妻が「おばあちゃんの家の家財を見て入用なものがあったらあげたい」と言っています。私が案内しますので、もしよかったら

――三日後おばあちゃんすむ家を訪ねると――

  どうぞどうぞ。何でもご入用でしたら差し上げます。

私 ( Aさんのおばあちゃんにむかって低い声で)。馴染んできたものを手放すってさびしくありませんか? 

Aさんおばあちゃん。 使ってもらうと私もうれしい。(とにこにこ顔)

H夫人 この洗濯バサミ、孫が来るのでこのコップをください。

Aさん。これどう?(次々に生活必要となる夏掛けなどをさしだす。きれいにたたんであった。――そういえば雪の降る日に避難したので夏物はないHさん夫妻だった)

Aさん このサイドボードいりますか?。

H夫人 いただきます。(私にむかって)また連れてきてもらえますか。(旦那さんは足を痛めていて近く入院するという。この日は同行されていました)

  いいですよ。帰りは旭が丘の電気屋さん寄りしましょうか。(玄関のブザーが壊れていて電気屋さんに連れて行ってといわれていた)

Hさん  何もしないのはつらいねー。(帰りの私の車の中で)

こうして近所付き合いが始まった。

Hさんは強制退去の日まで富岡町で10町歩を耕していた。有機米500表と有機野菜を千葉にも送っていたという。

冷厳な事実・・・原発は彼からすべてを奪った。故郷、仲間、仕事。7代続いた家、墓を奪った。艱難渦中の人たちから、生きるだけでなく、生きていくことの意味をまなびたい。問いつづけたい。

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ありがとう考 2

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ありがとう考 2

ありがとうの詩 歌集・楽曲集

3,11大震災復興支援企画

発行   河北新報社  定価1000円

022-214-3811

被災地に生協あり

   阪神淡路震災の時「被災地に生協あり」が報道され語られた時、どんなに全国の生協は我がことのように励まされ、誇りにおもたったことか。「生協をやる意味」と「生協で働く意味」をこの一言が示していた。コープ神戸の役職員・全国からはせ参じたボランティアは心からあふれ出る「ありがとう」を自然に使っていた。

時移りバブルがはじけた後は、成長をもう1度とばかり、お金が神様になり。もっと大きく。もっと効率を、もっと早く、といった「もっと病」はグローバリズムの名のもとに、蔓延していった。もっと病は上位下達の縦の弊害と人間関係を断ち切り、結果1000兆円の借金、世界で冠たる格差社会・貧富社会・非正規の奴隷的な労働、働く意味の喪失、が目の前で展開されることになった。優勝劣敗のとげとげしい社会不安は後を絶たない。

挙句の果てに近代化のつけの最たる「福島原発過酷事故」は現未来を脅かしている。わが町で福島の小学校3年生の子供をばい菌扱いにする姿を見て愕然とした。

1番大きな変化はこの間「ありがとう」の言葉がなくなりつつあることだ。

親子の間でもそうだが、ス-パーマーケットで観察するとよくわかる。あいさつ代わりの「すみません」「ごめんなさい」は聞くが店員が客に、客が店員に

「ありがとう」をいう機会も言われる機会も強度に減っている。地域社会でも感じる。

農産物や海の恵みに対して、或いは食事の背後にあるたくさんの手数に対して「感謝し、いただきます」という関係が乏しくなり、家族のだんらんが少なくなったからではないか。安けりゃ何でもいい、生産地と流通、消費。廃棄の関係創造で成立してきた協同組合から内容のある「ありがとう」が消えたとき

協同組合のは歴史的使命はどうなるのだろうか・・・・・しかし東北大震災の中で示した各生協の戦いは  一人一人に沿って事柄と言葉を交わしながら進めているという。西村君の本で知った。私はふるさとが仙台の10回ほど東北に行ったが、うなずけるものがあった。次のような詩に心情を寄せ足元で「ありがとう」に示す協同がある限り困難を乗り切っていくのではないか。ほとんど生協の現状に疎くなったものとして期待を述べたい。

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ありがとがす    岩手県一関市  62

だらだらの汗、日焼けした顔

泥まみれの作業服

おめえ様とすれちがう時

おらは目頭が熱くなるちゃ

宿舎にもどって行くおめえ様の背中に向かい

おらは心の中で最敬礼するのしゃ

おめえ様は仕事だからと実に格好いい

おめえ様にも緑豊な故里があり

心やさしい家族が待っているべ

ほんでも、もうちょっとだけ

おらに力を貸してけねが

おらも精一杯努力すっから

必ず夜の次には朝がきて

泣いたあとには笑うときがくるちゃ

この前テレビでどこかのばあちゃんが

ありがとがすと何回も頭を下げていたのしゃ

おらも同じだ

ありがとがす ありがとがす ありがとがす

おらも精一杯努力すっから

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生協には夢があった。 古来 先駆者たちは、協同の夢を掲げて戦ってきた。そして世界に、日本にひろがっていった。

未来は今すぐ実現が出来ない事を十分認識した上で、なおかつ「未来は必ずや我らのものである」という不動の立場を固めることが、地道な不屈の努力を生み出すのである」(福武

直  賀川豊彦に寄せて) 戦争にひた走る気息奄々の時代に「みらいは我らのものなり」といってのけ、生協人を鼓舞した賀川豊彦がいた。賀川は日本のみならず世界の協同組合の先駆者だった

千葉市民生協の創設時  故田仲善一も「夢をかたった」。私は夢見る夢でなく「日々の営みを糧に目覚めていく気づきの夢」に置き換えてみた。その時掲げた夢は叶っていっただろうか。

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あれから二〇年経た今日、翻って日本は途方もない混迷の時代を迎えている。金融崩壊は「精神のない構造改革。人間を粗末に操作する利益効率至上主義の管理やテクノロジー。実生活や現場から離れた管理。理念を棚上げにした精神のないリーダーシップ」のいきつく先だった。失われたものは大きすぎ格差の犠牲は傷口を広げ始めた。日本社会が人間を粗末に操作する利益効率至上主義の延長線上に進むなら、混迷はひどくなる一方であり出口のない不確実な未来があるのみであろう。いわゆる政治屋や子役人や専門家の目先の小手指では全く解決はしない。アメリカ流、小泉流資本主義をきっぱり否定し「人格性」を取り戻す協同の道以外に活路はあり得ない。いかに困難があろうとも人間性、人間味のある社会システムを取り戻し構築していく必要がある。

協同を価値とする社会構築の可能性のある時代を迎えた。人は皆温もりのある関係を求め始めている。そんななか協同組合がどんな構想力と知性を集め実践するのか、協同組合の歴史をかけた時代と認識したい。

Sdscf00031_2ところでさる2月27日連れ合いと

22年前の田中さんに会いに墓を訪ねた.水仙が好きだった が菜の花を 手向けた。

彼には夢があった。夢をうらずける名言があった、。総代会の席上「生協は大きくなるためにあるのではない。

生活と労働の中に喜びを広げていくためだ」と

彼とは希望は夢の中から創造される。そんなロマンをよっぴいて語り合ったものだ。働く喜び、生きる事の喜び

人間が好き、という人の輪を暮らし協同に中から創ること」   日本全体が金銭社会の組織病ーー「もっと病」の深い傷に陥りはじめたころだった。

「夢」の墓標にむかって手を合わせた。

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物言えない個人。 物言わせない社会・組織。   どちらが先か

うろ覚えだが昔の歌謡曲の歌詞に「男は一人でさけをのむ。…女は無口がいい」とかいう曲があったとか。

これが日本的情緒?なんだと。とんでもないとおもうけど,貴方は?どう思われますか 

これは酒が飲めない私の単なる??かもしれないが。おしゃべりしているときは大体みんな笑顔さ。

えらいさんや、監視している人がいれば、絶対おしゃべりはなりたたない。追従笑いぐらいかな。

おしゃべりのときは心・胸が開いている。なんといっても仲間だね。

コミニケーション、言えて・見えて・関われれば いい社会だろうね。日本国憲法これを保障しているのに物言えないとは。。

ところで話が変わるが11日 久しぶりにいい記事にであった。その1部を紹介することで上につなげたい。

3月11日 朝日新聞   仏教界の動き     科学者の世界も

原発事故の教訓  空気を読む沈黙繰り返すな

          編集委員 星浩

以下抜粋

全日本仏教会の脱原発宣言より

「『いのち』を脅かす政治への依存を減らし、原発に依存しない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指します。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければなりません」と明言している。

あの戦争のとき、宗教者が国家に順応して戦争に協力してきたことと、原発問題に口を閉ざす雰囲気が重なる。原発事故で故郷を離れざるをえない人々のことを思えば命の尊厳を唱える仏教者として原発は持ってはいけないものだ。生活のあり方を見直し、原発を人用としない社会を目指すべきだ。」として「地震発生から丸1年の11日午後2時46分に梵鐘をつくよう呼びかけている。

1方  ある科学者が警鐘していることを取り上げている

、一人ひとりは安全対策に問題があると思っていたが、自分が何

か言ってもどうしようもないと、みんなが空気を読みあっていた。空気を

読むことが日本社会で不可避であるとすれば、そのような社会は原子力のような

リスクの高い大型で複雑な技術を安全に運営する資格は無い」

世の中の空気を読んで口を閉ざす。その愚を繰り返してはならない

失われた20年を振り返ってみると

評価制度とそれによる選別・差別・懲罰を進めることで  物言えない様にしていく 。 上司や周りを気にして・もの

が言えなくなっていく。この失われた20年を振り返って見切ると。社会のメルトダウンの中で迎える少子高齢社会だったということが見えてくる。子どもを20μsVにおいても平気な政治社会。お母さんたちからおこりはじめた。

物言えないお父さんたちの指導者が登場してきた。あれっ私もお父さんだっけ。いや爺さん。でも逃げ切る

ことはできない。孫たちが見ている。

・・・・・・・その先にあるのは単なる沈滞だけではない。よーく考えたい。ヨーク考えようとおもう。。

男は一人でさけをのむ。…女は無口がいいと歌い合っていたほうがよかったかな。

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