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2013年11月

岩佐幹三さん ヒロシマをかたるから

子供たちに語る 8月6日・ヒロシマからS

 ・・・・・・・・妹を毎日のように探し歩いた僕も、丁度一か月たって急性症状で倒れました。身体じゅうに赤い斑点が出て、歯ぐきや鼻からは出血し、喉が焼け付くように痛み、昼も夜もわからぬ日が続きました。十六歳という若さからか、何とか回復することができましたが、あの死を前にした不安は忘れられません。その後も悪夢にうなされることがしばしばでした

 多くの被爆者が、死の淵を何とか乗り越えてきましたが、原爆の魔の手はその後も引き続いて被爆者の「からだ」「くらし」「こころ」のすべての面で襲いかかっています。被曝後四十数年のあいだ、被爆者は、様々な不安と死の恐怖にみちた「つらい生」を背負わされてきました。特に昭和三十年代後半からは、ガンにかかる率、死亡率が一般国民よりもはるかに効率となっています。また、先の日本被団協の調査では、およそ四人に一人が「こんなにつらいのならあの時死んだほうがよかった」と生きる意欲の喪失する感じだったことがあるという体験を持っています。今なお被爆者をそこまで追い詰めているのです。

 あの日、原爆はこの世の地獄を作り出したといわれますが、生き残った被爆者にとっては「生きるも地獄」なのです。このような原爆、核兵器の被害を許してよいものでしょうか。原爆の被害は、国の戦争政策の結果もたらされたものです。国にはあの戦争に対して責任があることを明確にしなければなりません。だから被爆者は四十数年たった今も、核兵器の廃絶と被爆者救援法の制定が求めて運動を進めているのです。援護法とは、日本国政府が「再び被爆者をつくらない」ことを世界の核国政府の先頭に立って訴える、その決意の証となるものなのです。

 こういうことは体験者でなければ語れません。語り継ぐことは大変な仕事ですが、それは人類の未来にかかわる問題です。被爆者は、そのような歴史的使命を担っているのです。そして、それを受け止めてくれる世代、それはみなさんをおいてほかにありません。被爆者にはもう時間がないのです。被爆者が死に絶えたら、だれがこのことを伝えられるでしょう。みなさんが、被爆者が抱える問題と要求を自分の問題として受け止め、自分の周りに伝え、次の世代に残せる人々の結集に努めてくださることを期待したいと思います。

                     (金沢大学教授 岩佐 幹三)

資料 岩佐幹三 「子供たちに語る、八月六日・ヒロシマから」

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教科書副読本   官製副読本批判の副読本 再掲母と妹に捧げる想い

副読本サイトアドレス

https://www.ad.ipc.fukushima-u.ac.jp/~a067/ index.htm

母と妹への手紙

                              岩佐 幹三

 母さん、好っちゃん(好子)。今年も八月六日がやってきたね。

 被爆から六十三年がたった今でも、僕は、原爆で連れ去られた母さんたちの命を甦らせて、手をとり抱き合いたいという空しい願いを持ち続けているんだ。

 欠かさん、僕は、先日も何回目かのつらい夢を見たよ。頭上でグワンという爆発音がして破壊し尽くされた町並みが現れた。それを見た僕は、「今度こそ母さんを助けるぞ」と叫んだ瞬間に、目が覚めた。その時の悔しさは、言いようがなかったよ。母さんたちの死は、戦争だから仕方がなかったという考え方は、絶対に許せない。

 デモね、当時の僕は、十六歳の中学生、全くの軍国少年だった。あの年の五月病気で亡くなった父さんや母さんを、本当に困らせたんだろうね。日本が起こした十五年戦争で、アジア諸国で二千万人、日本でも三百万人の尊い命が失われた。その戦争のお先棒を担いだ一人だったんだからね。僕たち若者が、敵の軍艦や戦車に体当たりして戦死すれば、家族は守れるし、後はどうなるだろうと浅はかにも死ぬことだけ考えて痛んだ。

 それなのに死んでも家族を守るべきはずの僕が生き残り、守られるべき二人を守ることができなかった。戦争ってなんだったんだろう。軍国少年って一体何だったんだろう。

 その反省と謝罪の気持ちをこめて、今この手紙を書いているよ。

 十五年にわたる戦争、特に敗戦の年は、僕たちの生活は耐乏状態の限界を超えていた。戦争に勝つためにがまんせよと、すべて軍事優先、衣服も食料も配給制度になり、それも遅配続きだった。お金があっても何も変えなかった。本当につらかったね。父さんがいない我が家では、食料の算段もできず、八月はじめには米ビツも空っぽだった。母さんは、「少しでも食べて死ねば顔色でもいいよ」と言って、わずかに残っていたお米を炊いて茶わんに半分ずつ三人で食べたよね。あれが水盃になったのかな。母さん覚えている?

 だが母さんは、八月四日か前日の五日か、近所の小さな店で、醤油いためのひじき一皿分を、僕たち兄弟のために持ち帰ってくれたんだ。自分も空き腹なのに、一緒に出された大豆の豆かすをひいたコーヒー(?)汁を飲んだだけで。それを僕たち兄妹は、むさぼるように食べてしまったが、親なればこそ、決して忘れてはいないよ。

 母さんは、そんなことまでして僕たちを守ってくれたのに、僕は、何もできなかった。だから今になって戦争がもう少し速く終わっていたら、せめて少しでも銀シャリ(白米)を食べさせて上げられたのになんて、時々ごたくを並べているんだよ。でもね。母さんたちの死は決して無駄にはしない。戦争も、原爆=核兵器もない世界のためがんばっているよ。

 あの年、昭和二十年、東京、大阪、名古屋をはじめ全国の大中小都市が次々と米軍機によって焼土となり、沖縄も陥落していた。日本の戦争する余力は尽きていた。それでも国は戦争を継続し続けていた。そして八月六日がやってきた。

 あの日は、動員中の工場が電休日だった。八時十五分少し前、僕は、自宅(広島市富士見町=爆心から一・二キロ)の庭にいた。飛行煮の爆音が聞こえてまもなく、激しい爆風の衝撃で、地面にたたきつけられた。そこはやわらかい畑地だったからたいした傷も負わなかった。五十センチほど右にいたら庭石にたたきつけられて即死だっただろう。家の前のバス通りを挟んだ向いの家の屋根の影になって、奇跡的に焼けども負わなかった。

 一瞬にして崩壊した広島の町並み、母さんは、崩れ落ちた家の下敷きになっていた。「母さん!」と呼ぶと、屋根の下から「ここよ」と言う声が聞こえた。「ああ良かった。生きていてくれたんだ」とその瞬間は安堵の胸をなでおろしたんだ。しかしその喜びも束の間だった。屋根板をはがして逆立ちするように顔を突っ込んだ目の前には、家のコンクリートの土台の上に大きな梁が重なって、行く手をはばんでいた。わずかな隙間から一メートルほど先に仰向けに倒れている母さんの姿が見えた。つむった目のあたりから血が流れていた。どこかをひどく打ちつけたのか、何を話しても目を開けず、顔をこちらに向けようもしなかった。「こっちからはもう入れんのよ。そっちで動けんの」と聞くと、「左の肩の上を押さえている物をどけてくれんと動けんのよ」という答えが返ってきた。

 別のほうから掘り出したが、なかなか進まない。そのうちに爆風の吹き返しの火事嵐がものすごい勢いでせまってきた。火の粉が降りかかってくる。気がきではない。「母さん、だめだよ。火事の火が近づいてきたよ。こっちからはもう側までいけんよ。」悲鳴に近い叫び声を上げた。外にいる僕でさえ何が起こったかわからないのだ。まして家の下敷きになって周りが見えない真っ暗な中では不安というよりも恐怖心で一杯だったろうね。でも母さんは「そんならはよう逃げんさい」と言ってくれた。

 それなのに気も動転していた僕は、「母さん、ごめんね。父さんのところへ先に行っていてね。僕も、アメリカの軍艦に体当たりして、後から行くからね。」何という不遜な親不孝の言葉だろう。しかもその後に「好ちゃんが大きくなったら、いいところへお嫁にやるからね。」と言ったんだよね。すぐ後から行くと言いながら、妹が大きくなるまで生きると言ったんだ。死別の祭に母さんを裏切る言葉を告げたんだよ。そして八十歳近くまで生き延びているんだよ。母さんへの罪の意識は一生抱いていくよ。

 母さんは、死を覚悟したのか「般若心経」を唱えだしたね。僕は、その声に後ろ髪を引かれながら、原爆の業火で生きながら焼きこらされる母さんを見殺しにして逃げたんだ。二~三日後家の焼けあとに積もった灰の中を探したら、母さんが倒れていた場所から痛いらしいものを見つけ出すことができた。それが母さんだったんだ。でもそれは人間の姿ではなかったよ。母さんは、小柄な女性だった。まるで子供のマネキン人形にコールタールを塗って焼いたような油でずるずるした物体だった。母さんは、あんな姿で殺されたんだね。人間としてではなく、「モノ」として殺されたんだ。悔しい。本当に悔しい。

 あの日比治山橋近くの土手で野宿した僕は、翌日紙屋町から半ば破壊された相生橋まで来て、突然絶望感におそわれた。それまで被害は広島の東部地区だけだと思っていた。橋の上から見わたせる西部地区も同じように原爆焼け野原になっていた。好っちゃん(好子)は、あの年憧れの県立第一女学校に入学できて、張り切っていたね。でもあの日は、土橋付近の建物疎開の後片付けに動員されて傷んだ。相生橋からみると、すぐ目の前じゃない。「あっ!好っちゃんもやられたんだ」そう思うと頭の中が真っ白になった。避難先にしていた安佐郡緑井のかおる叔母さん(母の妹)の家にも、あんたはきていなかった。好っちゃんたちまだ十二~三歳の男女中学生約五千人が、青春の喜びも悲しみも知ることなく、死んでいったんだ。戦争が招いた原爆地獄の悲劇は決して繰り返してはならない。

 その日からもう生きているはずのない好っちゃんを探す兄ちゃんの放浪の旅が始まったんだ。土橋、己斐、江波、草津、五日市までどこをどう歩いたか全く覚えていない。毎日とは言わないが、ただ夢遊病者のように歩き回ったんだ。あれは、もしかして原爆被害特有の「ぶらぶら病」の一種の症状だったのかもしれないね。

 そしてちょうど被爆から一ヶ月たった九月六日、急性症状が出て病床に伏すことになった。かおる叔母さんのおかげでたまたま近所に疎開していたお医者さんから高額な注射治療を受けられて、又奇跡的にも回復できたんだ。そのことが契機になって、僕も被爆者なんだと自覚するようになったんだ。

 その後かおる叔母さんが、母さんの代わりに僕を養育してくれたんだ。そのおかげで大学を卒業でき、大学の先生になれた。そして勤務地の金澤で石川県原爆被災者友の会の会長に選出されて、被爆者運動に係るようになったんだよ。定年になって千葉県に移り住んで、今は被爆者の善告訴してである日本原水爆被害者団体協議会の事務局次長を努めることになった。その間にも多くの被爆者と同じように原爆被爆の影響で晩発性放射線障害のがんや原爆白内障にもかかった。中でも前立腺がン派、薬物療法による治療を受けて、体内にがん細胞をかかえたまま。運動に勤めているよ。繰り返すことは、決して許されないことだから。

 でも僕たちが体験したことよりも、原爆は、もっともっとひどくつらい体験を被爆者に与え続けているんだ。そのような被害を、僕たちの子孫、そして日本国民、更に人類の上に、再び繰り返させたくない。だから「再び被爆者を作るな」と核兵器の廃絶を訴え、国が、その「証」として戦争被害、原爆被害に対して将来にわたって補償することを求めてがんばっているんだよ。二〇二〇年には核兵器を完全に廃棄させようという運動が進められている。その目標が達成されたなら、その時には、母さんたち一緒にお空に上ってお星さまになりたいね。

注 昨年に続き、今年も(2008年)NHK広島が募集した「ヒバクシャからの手紙」に応募したもの。番組でもその一部が朗読されました。

 又、今年(2012年)8月にNHK広島の深夜ラジオ番組で放送(約7分)されたようです。

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平和と文化のつどいへのご案内  おすすめ

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かすかな光   11月9日   早朝6時15分

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ラジオ体操に向かう道すがら  東の空

くるっと回って西には 曙光を浴び始めた町並み  歩道橋の上に立つて 

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7時  庭先のリンドウが目を覚ます

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目を覚ますリンドウ仲間

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太陽が美味しいぞー   開けない夜はない。待ってた甲斐があった

昨夜きいた孫の引くピアノ、、ショパン幻想曲のメロデーがうかんだ

新聞をポストから、覗くと日本の政治は夜に向かっていた

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明けない夜はないけど  曙光を見たい

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  福島被災地・被災者を世の光に

9月に泊りがけで 千葉の友人24人と一緒にフクシマ浜通りを見てきました。

日本どこにもない異様な世界にかわりはてていました。全国3位の面積をもつ福島県

・猫・カラス・小鳥・犬がいない。動くものがない。・音もない世界って本当に不気味ですね。人もいない、延々と続く昼しか戻れない、朽ちていく住宅街をすぎると見渡す限りの雑草、(いわきから新南相馬の浜通り

まったく見えないあぜ道・破壊された用水路。かって黄金色に輝いたはずの田んぼの今をみんなでみまた。バスの中は静まり返っていきました。

・遠くに、フクシマ第1原発の排気塔が見えながら、漁とり40年のSさんは、海にカモメがいなくなり、港に魚のにおいがなくなった。人がいない瓦礫の海を前に語ってくれました。それぞれに失われたものの大きさ、奪ったものの、巨大さをおもいました

◎人々を寄せ付けないままの古里。ここは原発立地町

・冨岡駅線路の上に生い茂る雑草、真っ赤にさび付いたレール、傾いたホーム・朽ちた駅舎。ここは原発立地町。駅前商店街の壊れた看板たち。人息の気配が全く消えた、繁華街と民家の惨状、 津波が根こそぎ奪った人家の跡・あと、跡・嗚呼ー・その上に蓄積した放射線が2年間人々を寄せ付けないままの古里。・持参した計測器がけたたましい音を立てた。2年間図ってきたなかで最高の線量でした。匂いを音もない。海が目との鼻の先に迫っていました。

◎浪江町請戸の悲劇

・助かるのにむざむざ置き去りにされた犠牲の多い請戸の悲劇・放射線でおおくのご遺体を長期間放置されたところ。504軒・阿鼻叫喚・合掌の体がふるえました(写真添付)

・交付金でつくられたまるでお城のような痕跡を残す浪江町請戸小学校校舎、被災後のむざんな姿。300人の児童たちはいま?ふるさとをおわれ全国二七箇所にわかれたままという。この近くの漁民で当日案内されおSさんの家はこのちかくだった。たまたま不在で助かったが、屋敷は見る影もない壊滅。ここに来るのも検問、けんもん・

上下2m断差が生じた

人が住まない楢葉町が一望できた。森の向こうにある第1原発。楢葉町の600年続いた宝鏡寺の墓地高台。高台からおりて小川に沿っていくと大断層2mの高段差ができているという。東電は原発建設にあたって断層があることを知っていたが3万年以上動いていないということで問題なしにしたという。しかし今回の上下2m断差ができた事実でくつがえされた福島原発周辺には3つのよく知られた巨大断層が走っているという。ここのお坊さん夫妻は30年以上警鐘を鳴らしつづけてきた。震災人災後、町長は「きみの言うとおりになってしまった」とお坊さんに話したという。いわきに障害者12人を連れて逃げたぼうさんだった。書いたものをいただいた。環境関係者に何らかの形で紹介いした

・浜通り育ちで当地の病院で働いているKさんが私たちをここに連れてきたわけが痛いほど伝わりました。真実を知ってほしい、事態はブロックされ隠されているが・厳しくなっている事実を、忘れないでほしいと。

安倍首相は国を代表して オリンピック招致で 福島の状況は「The situation is under control」(状況はコントロール下にある)と発言しています・「健康に対する問題はない。今までも、現在も、これからもない」。「私が安全を保証します。状況はコントロールされています」。「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされてる」。「福島近海でのモニタリング数値は、最大でもWHO(世界保健機関)の飲料水の水質ガイドラインの500分の1だ」。と

     福島の人たちは怒っていました。当日報道は汚染水は「打つ手がない」と報じていて見え透いた嘘の破綻。

小泉元首相も原発ゼロを言いだしました(10月2日報道)。いくらなんでひどすぎるからだろうか。氏のこれからの行動を見ていきたい。あとから省みてこんなはずじゃなかったと悔やまないで済むような生き方を小泉さんも求めているのかなー。フィンランドの一〇万年間閉じ込めるオンカロを見て核の廃棄物は捨てられないと思ったのでしょうか。「百聞hは壱見はにしかず」フクシマから学ぶことが大事だと思って帰ってきました。

フ ク シ マ 

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「疎開させよ」…お母さんたちの呼びかけ

3・11後に書いたものから

「疎開させよ」…お母さんたちの呼びかけ

 私の子供・目の前の子供たちを疎開させてください。自らが立ち上がらなければ、子供たちを守れないと、覚悟を決めた放射線高濃度地域の福島のお母さんたちが立ち上がった。その呼びかけはメールに乗って全国を駆け回った。首相あてのメールを打ったときは7万人だった。2万人が目標と記されていた。私は限りの友人に「応えませんか」と呼びかけると次の日に10万をこえていると返事がきたと言う。心の中にかすかだが希望の灯がちらついた。

民意から離れて進む日本の政治

しかし [民意を反映しない政治。言葉のトリックで、民意をかわしながら、]ついにアメリカに120%奉仕し農業にのみならず、医療、保険などあらゆる分野の自由化を進めようとしている。すでに食料の自給率は40%になり、ついで国民皆保険制度や医療・郵政を解放によって破壊することになる。一方、民意などそっちのけで「原発の輸出」「武器三原則の緩和を国際約束している。沖縄基地の強化を進め、またもや、沖縄県民の「切り捨て」の道を歩みだした。

安全神話を支えてきた成長神話

福島原発事故の冷厳な事実は原発の「安全神話」白日のもとに示した。

犠牲は未来に向けて、末広がりに広がる様相を示している。ヒロシマ,ナガサキ、チェルノブイリの5年10年、20年、60年の経過が示している。既にヒロシマ原爆の99.6個分の放射能をまき散らした。(東大アオソトープ研 所長)、その半減期はセシウム13730年、ついてストロニュウムは・・長期低線量内部被爆の恐ろしさが国内外の研究者によって警告されている。

事実を隠ぺいのうえで「収束宣言」

パニックになるからという理由で事実を隠ぺい、事実の一端が露見すると「ただちに影響はない」とかわし、1か月がたってから「単なる事象」から、世界の最悪の過酷事故であることをしめすレベル7であると発表した。

それすら[低く]「狭く」「軽く」見せることにメディアを動員してきた。多くは政府の広報誌のようになった。地方行政は下請けの域をでない。挙句の果てに「収束宣言」だ。

 

事故原子炉の内部を見ていない。燃料棒を取り出す廃炉まで40年。

先週さいたまに町役場をもつ福島の双葉町の町長に埼玉の友人の紹介であった。心から怒っていた。同行した福島から避難した被災者は「帰りたい・戻りたい・しかし帰れない」つらさを語り続けた。ボランティアの埼玉の友人たちは彼にやさしかった。再び民意から離れて進む政治 民意を反映しようとしない政治を直視しよう。

民意無視の政治がどうしてそれが許されるのか。「成長」がすべてを癒すというふれこみで、戦後日本を特徴づけた経済成長第1主義が土壌ではないか。

経済成長第1主義の土壌

そのおこぼれをあづかった市民は80年台には国民総中流の意識になった。ジャパン アズ  ナンバーワンに浮かれた。

結果は、世界の先進を走る格差社会に収れんした。自殺は10年以上3万人を超え、非正規労働は5割を超え若者から希望を奪った。無慈悲な労働、5次下請けの原発で働く人権無視の過酷労働を見よ。小さくベタ記事で3人が亡くなったと出ていた。放射能との因果関係不明という解説付きで。どうあれ原発事故は金銭欲の成長政策の最たるつけといってよい。

アメリカ資本は自由に 農業にのみならず、医療、保険などあらゆる分野の自由に入り込み、すでに食料の自給率は40%になり、ついで国民皆保険制度や医療・郵政を国際資本に解放することによって日本人の生活は一層破壊されることになる。

さらに、民意などそっちのけで政治家は「原発の輸出」「武器三原則の緩和を国際約束している。まるで死の商人ではないのか。沖縄基地の強化を進め、またもや、沖縄県民の「切り捨て」の道を歩みだした。

はたして日本国民は唯々諾々とその道を許すだろうか。

私は「疎開させよ」…お母さんたちの呼びかけに心を動かされると同時に 福島のお母さんたちをこのような取り上げ方に追い込んだ政治社会の無慈悲さに怒っている。

いま

現実の暮らしからの気づきの契機が豊富に身の回りにおきている。

素直に事実に向き合えさえすれば、その解決を求める心のエネルギーは仲間との連帯に向かうだろう。生活にかかわるあらゆる団体・個人が現代の目の前の緊急で本質の事に向き合い始めている。昨日訪ねた埼玉の葛西高校での生協と市民の実践からも読み取れた。

12月18日には私が住む町で「地域の平和の集い」で秋葉前広島市長と福島から避難されたかたの話に700余の聴衆は泣いた。

秋葉前広島市長からは希望を読み取った。この会には被団協代表委員の岩佐先生が多重がんに体をむしばまれた老躯を引きずるようにして参加された。ヒバクシャ9人とともに参加し原爆展を開き、ついで、福島からの避難者の話を聞いてくださった。

当事者に優るものはない。10年前の現役時代のいろんな場面がよみがえってくる。岩佐さんが原爆ドーム近くの芝生に座った子供たちと輪になって語る場面、このときの話はテープにとっておいたので後にブックレットにしていただいた。

私は現役の方には及ぶべくもないが、市民の参加、市民の力に 立脚した生き方、在り方、にこだわって、残る人生を仲間と歩みたいと願っている。齢70代中盤に入ってほとんどできないが、被爆者の経験を聞く最後の世代として。(被爆者の平均年齢は77歳。)

同時にファッシズム,ハシズムに向かうのを許すのか。歴史的大転換期であるのは間違いない。戦前責任が問われる時代である。

それぞれ未来に向けた自分の位置と役割が大事になる。

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じーさんのフクシマ認識  その2

浜通りを仲間と一緒に見てきました。

日本どこにもない異様な世界にかわりはてていました。全国3位の面積をもつ福島の浜通り

・猫・カラス・小鳥・犬がいない。動くものがない。・音もない世界って本当に不気味ですね。日本どこにもない異様な世界にかわりはてていました。(いわきからの浜通り

 

見渡す限りの雑草、まったく見えないあぜ道。かって黄金色に輝いたはずの田んぼの今をみんなでみました。

・遠くに、フクシマ第1原発の排気塔が見えながら、漁とり40年のSさんは、海にカモメがいなくなり、港に魚のにおいがなくなった。人がいない瓦礫の海を前に語ってくれました。それぞれに失われたものの大きさ、奪ったものの、巨大さをおもいました

◎人々を寄せ付けないままの古里。ここは原発立地町

・冨岡駅線路の上に生い茂る雑草、真っ赤にさび付いたレール、傾いたホーム・朽ちた駅舎。ここは原発立地町。駅前商店街の壊れた多くの看板。人息の気配が全くない、繁華街と民家の惨状、 津波が根こそぎ奪った人家の跡・あと、跡・嗚呼ー・その上に蓄積した放射線、2年間人々を寄せ付けないままの古里。・持参した計測器がけたたましい音を立てた。関東で2年間図ってきたなかで最高の線量でした。匂いを音もない。海が目との鼻の先に迫っていました。

 

◎請戸の悲劇

・助かるのにむざむざ置き去りにされた犠牲の多い請戸の悲劇

・まるでお城のような痕跡を残す浪江町請戸小学校校舎、交付金の行き着いた姿・被災後のむざんな姿。300人の児童たちはいま全国27箇所に?・

上下2m断差が生じた

人が住まない楢葉町が一望できた。森の向こうにある第1原発。楢葉町の600年続いた宝鏡寺の墓地高台。高台からおりて小川に沿っていくと大断層2mの高段差ができているという。東電は原発建設にあたって断層があることを知っていたが3万年以上動いていないということで問題にしなかった。しかし今回の上下2m断差ができた事実で覆されることになった。福島原発周辺には3つのよく知られた巨大断層が走っているという。

・浜通りの病院で働いているKさんがここに連れてきたわけが痛いほど伝わりました。真実を知ってほしい、事態は厳しくなっている事実を、忘れないでほしいと。

安倍首相は国を代表して  福島の状況は「The situation is under control」(状況はコントロール下にある)と発言しています・「健康に対する問題はない。今までも、現在も、これからもない」。「私が安全を保証します。状況はコントロールされています」。「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされてる」。「福島近海でのモニタリング数値は、最大でもWHO(世界保健機関)の飲料水の水質ガイドラインの500分の1だ」。と

     福島の人たちは怒っていた。当日報道は汚染水は「打つ手がない」と報じていた。見え透いた嘘の破綻。

私は突き上げてくるような怒りがこみ上げてきます。同時に福島から学ぶ事の自覚不足です。

私たち東北・福島県外のものは、3・11から支援という言葉を使ってきました。尋常でない災害地に対して支援というのは人間として自然なことでした。しかし2年半を経過し、マスコミの取り上げも減少するにつれて支援の熱は冷めたかにみえます。しかしフクシマの事態が正しく伝わらないことで福島は風化被害に遭っています

「福島にいってきました」と街で知人にあって挨拶すると「もう福島は収まったの」の返事。 一瞬びっくりし福島認識の温度差に愕然としました。次にであった人もそうでした。福島双葉町から避難されて2年半のTさんも「まだいるの」の視線があるという。かくいう私も 避難されたかたの苦しみや・月1度の割でふくしま・宮城にいっているとしても福島の人の現実を知り理解していないのです。

しかしながら私らは福島の被災者のおかげで、というより尊い犠牲で原発事故の恐ろしさを実感してきました。その中でわたしは支援という言葉に違和感を感じ始めました。こうです。支援というと「当事者や当該地の外側にいる人からの支援です」が、一方的な支援は時が経つにつれ、継続的でなければ忘れられていきがちです。みんな忙しく、生活で精一杯だということもあるでしょう。 こういう中で 「 ただちに影響はない」から始まってフクシマは「収束した」とか「いまもこれまでも、これからも安全だ」、「世界1の技術持つ日本は輸出もできる」とときの首相のお墨付きがあり、マスコミは政府発表の情報中心のテレビや新聞に内容になってきました。国会議員の多数は原発推進を取すすめるようになった。フクシマの被災地と被災者から学び真相を知って一層運動を広げることが活路となっている。

政府の事実隠しは広島長崎の原爆投下直後から始まって68年後の今に続いている。死ぬべき人はみんな死んだとして放射線による内部被曝は長期間みとめてこなかった。9年後、第5福竜丸の船員の久保山さんが放射線を浴びてなくなったのを機に原水爆禁止運動(原水協)が始まった。被爆者運動(被団協)も始まった。世界はやっと放射線の恐ろしさを知るスタートにたった。政治は内部被曝を認めざるを得なくなったが、放射線の影響を「小さく」「狭く」「軽く」みせようと努めた。その中で原発への安全神話が作られフクシマ第1原発過酷事故につながった

原発ゼロは国民の圧倒的世論になった。が原発推進・原発輸出を掲げながら経済復興(アベノミックス)への支持で政権を取り原発再稼動・推進へ危険な道にこの国を導いている。原発反対の世論は安倍内閣の高い支持率よりはるかに高い(80%)。原発反対の声が一つになれば時代は変わりうると見ることだできる。困難ななか私たちは希望が見いだせる、そんな時代に生きている。 

ノーモア被爆者  「被爆者支援」でなく「被爆者から学ぶ」  自分のことだから被爆者に学ぶ

被爆者が必死に青年に語りかけて場面に出会ったことがある。ききいる青年たちは、もはや治る見込みのない被爆者がどうしてあんなに心を込めて私に語りかけたのか感想に書いている。「貴方にこんな苦しみを味わって欲しくない。私だけでもうたくさん」、被爆者にとっては孫のような青年を通して人間(命)の継承の希望を語っておられた様子がわかる。大切な{価値}を伝わった。以後この取り組みは30年続いて断えることはない。自分と仲間と人類のための活動だからだろう

フクシマの風化は未来を奪う。

現地に見る浪江・双葉、富岡などの町は警備などで厳重で外にブロックされていた。原発の作業に従事している人たちも同じだという。うっかり飲み屋で口をすべらせないように管理されっているという。「放射線はブロックされてない」 代わりに「人や真実がブロックされている」。行くたびに監視が強化さていることがわかる。真実がブロックされる嫌な時代の先取りだと感じた。

2年半をへても埼玉に6000人、千葉に3000人というふうに16万人が避難している。見知らぬ土地で支援が必要な方々が大半です。であえば風化の中フクシマの現実の一端を知ることができる。福島に現にお住まいの方の厳しさ、生・育・老・死に関わる生活環境は、あすの我が身とつながっている。行けば「いくらなんでもひどすぎる現実に出会えます、 支えあって生きる素晴らしさに出会えます」「集会に参加すれば元気がもらえます」それぞれのできることでの力を寄せ合って行きたい。福島に学び伝える活動・集会に私も参加しています。

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じーさんの  フクシマ 認識 

その1

私たちの未来は、福島被災地・被災者から、いかに学ぶかにかかっています

。なぜなら、もう1度福島のような原発事故が日本の国土で起きたらどうなるかを考えるとすぐわかります

。世界の10%の地震が集中する狭い国土の日本。首都圏直下型・房総沖・東海などの大地震発生確率は70%~90%という。確実に大惨事が起きます。狭い火山国に54基の原発があります。

その

うちの一つでも・・・・もはや人もいきものも住めない広大な国土に化していいくことになるでしょう。その中に私と私たちの愛する人がいる。未来の子供がいる。同胞がいる。枯れ葉じじーは世の摂理では早晩形がなくなり1度目の死を迎えますが 人々が幸せなら生き続けます。

しかし制御できない核戦争や原発事故に一度・・・・たったの一度です・・・直面すれば連鎖が起こり人げんそのもの存続の危機が来る。1度死んだ私の2度目の死になるでしょう。枯れ葉は肥やしにもならなくなる・生存・生態系そのものも消え伏せる。墓場を不避難所にして自害された南相馬のおばあさんが教えてくれました。そう福島の被災者のすべて」がおしえています。

 「福島がそれを教えてくれました

素直に福島から学ぶことが未来を守ることになります。福島を他人事にする風化は未来を危くするでしょう。

  おかしい度100% ちょっと考えても気づく

経済利益優先・お・も・て・な・し―放射線のつけは甚大です。一度事故にあえば輸出大国日本のものが売れなくな

る。外国から人が来なくなる(観光立国破たんに)。廃炉の方法わからず30年以上かかるのに原発推進で巨額な資

金投入。もんじゅ1兆円かけえ無用の代物・維持費甚大。汚染水、核燃料廃棄物の排気技術も場所もない。原子炉

廃炉の労働者の過酷労働・下請け格差。除染・除染できない森林地帯。放射線の移染・原子関係研究者の枯渇・

・健康被害・人命の危機     経済ひっぱく必至・・・・・なの原発推進で経済復興とは。

小泉元首相も原発ゼロを言いだした(10月2日報道)。いくらなんでひどすぎるからでしょう

か。

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