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2013年8月

 房総沖大地震  90年前の9月1日 

房総沖大地震

90年前の9月1日

1932年9月1日、関東南部を襲った巨大地震は、南関東を中心に潰滅的な被害を与えました。

瞬時に、死者9万9000人、

行方不明4万3000人,

倒潰家屋12万8000戸という途方もない大災害をもたらしたのです。

安房地域では1,206が亡くなり、

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いかに悲惨だったか、たとえば館山湾に面した現館山市域では98%の建物が壊滅しています。

その後M8.0前後の震源地東南海・南東海沖地震・房総沖地震におわれています。

 時が下り現代の日本は、金銭価値中心の経済成長をとげ、東京湾岸の都市に人口が集中して、京葉コンビナートなど大工業地帯が形成されてました。

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湾岸地域は埋め立て地の人口の密集地です。

埋め立て地はガス・ガソリンの大量に蓄積地です。巨大な化学コンビナート地です。100キロ先には東海原発があります。

すでに多くの地震学者は房総半島の南海沖一帯には、著しい地震エネルギーの蓄積が認められ、近い将来、巨大地震発生の可能性があると警告しています

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私らの世代は歴史上の巨大地震の直撃をほとんど想定できません。直撃の地震を受けた経験がないだけに、現在、関東大震災と同じ東京湾周辺で再び発生した場合、その被害は想像を超える甚大を極めるものと考えられます。フクシマ原発の危機については終息宣言をした政府のもとで、風化させています

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さてどうしたらよいか。

過去の経験を掘り起し教訓を導き出す。日本に住む以上、地震を止めることができない。さけてとおることもできない。

  犠牲を少なくする減災の知恵を探り共有することが大事だと反省する。人災は人が起こすのだから、人が止めることがでキル。原発はもちろんやめる、やめさせる。デモもできる。

災害の敵は無関心

手ごろな本を探してみた050

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9月1日の学習会もある日時】201391日(日)14:00

【会場】震災観音堂・北条海岸西口会館

http://bunka-isan.awa.jp/News/item.htm?iid=831

100聞は1見にしかず。福島に行ってみるのもいい。この日本では成り行き任せで集団自殺に等しいことになりかけないので。

余生を楽しむことでせいいっぱいとか。年金暮らしで余裕がない。年寄りだから俺はもういいとか。発言を聞くことがあるが、もしそれが本心らなら、これまで生きてきた意味が全く喪失してしまう。だから本心ではないのだが。

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はだしのゲン    被爆者の静かなshikashi確固たる怒り聞こえてきます。

        この要請書の紙背にあるものを 思うとき。 

人間として生きることを圧迫されてつづけてきた68年・被爆者。

私だけでもうたくさん、誰にもこんな苦しみが襲わないようにとねがって生き延びてきた被爆者。

ただそれだけのために・・・ 無私の叫びを続けて来た被爆者。

それなのに、なのに

広島の実相・心を子供たちに伝えさせないのはなぜ?

フクシマ・ナガサキ・をなかったものにしたいのは・なぜ?

日本をとり(盗り)もどすためなの。

ノーモアヒバクシャ、子供たち未来こそ 日本をとりりもどすことなのに。

言論・出版・表現の自由がある限り、

集会、学問の自由があるかぎり  人間の新生はあると確信したい

私が少年時代・戦争原爆の時代  徹底的に言論 出版 集会は弾圧された。

私はこのことでは妥協できない。

2013年8月23日
松江市教育委員会 様
日本原水爆被害者団体協議会
                   要 請
私たち広島・長崎の被爆者でつくる唯一の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は、貴教育委員会が松江市内の小中学校図書館において『はだしのゲン』閲覧を制限したことを残念に思います。すみやかに閲覧制限を撤回し、従来通り自由に閲覧できるよう求めます。
私たちは、1956年の日本被団協結成以来今日まで、原爆が人間に何をもたらしたか、原爆の残酷さ、あの日の地獄、今日までつづく苦悩を語りつづけてきました。私たちと同じ体験を誰にも味わわせないためです。核兵器の使用は人類の滅亡をもたらすからです。すべての人が、原爆について学び、考え、核戦争を起こさず、核兵器を無くすことに努めて欲しいからです。
中沢啓治さんの『はだしのゲン』は原爆の実相を伝える作品です。国の内外で、原爆を知る本、必読の本として高く評価されています。日本被団協は国連図書館をはじめ国際機関と国に寄贈し感謝されました。日本政府もNPT加盟国に英語版を配布しています。閲覧制限しなければならない理由はありません。
子どもは「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由」(児童の権利に関する条約13条)の権利を持っています。教育的配慮の名で、子どもの権利を侵してはなりません。この点からも今回の閲覧制限措置は不適切です。
『はだしのゲン』の閲覧制限をすみやかに撤回し、自由に閲覧できる措置をとるよう要請します。
以 上
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)

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フクシマ 原発  いまの事態

フクシマ 原発  未来を消す 今の事態Dsc07780

事態収束宣言のなんと罪深いことか。

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ストロンチウムは向骨性元素でカルシウムと似た挙動を示し、白血病、骨肉腫、骨髄がんなど、あらゆる疾病の原因になります。
今般事故による放射性ストロンチウムの放出はフクシマの生物を苦しめ続けることは当然であり、魚類の食物連鎖を通じて地球規模の問題であることを証明してしまいます。

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以上東京新聞から、政府はこの報道にまともに答えられないのはなぜ。

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もっと病からの転換 

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以下の文のゴシックのところを見てください。貴兄にふさわしい文ですがいかがでしょうか・

清水博という著名な生化学者で哲学者です。私がかって書いたもの(発想の転換同時代社刊)をほめてくれた方です。氏はこういっています

 人びとがより多く持つという方向に向かって社会はこれまで動いてきました

         (注 持つ…お金・もの・物質・地位・土地・学校歴・名誉etc  th 

しかしその動きをどこまでも続けていくと、やがて地球から様々な生きものを追
い出してしまうことになるために、このままでは人類に未来がないと、多くの人
びとが次第に感じるようになってきました。

 人間が地球を独り占めできるという考えは根本的に間違っているのです。しか
し人びとが働いている組織がグローバル化した資本主義経済の影響を受けて非常
に厳しい競争をしているために、どうすれば方向転換をすることができるか、そ
の方法がまだ見えていません。


 その一方で、東日本大震災を経験した日本では、多くの人びとの存在感情にす
でに変化がおき始めており、価値観が確実に変わっています。それは一度しかな
い人生の限られた貴重な時間を、何かをより多く持つことのために消費してしま
うよりも、生活のレベルを調節して時間的な余力つくり出し、それを貴重な人生
を充実して生きるために使う方が生き甲斐があると、考えるようになったのです。
そのことがライフスタイルや、余暇の楽しみ方を変え始めています


 人生の充実は贈りものです。それは、〈いのち〉の居場所としての社会に、も
っと一般的に言えば地球に、〈いのち〉を与贈した個人の人生に、その居場所か
ら「〈いのち〉の与贈循環」によって与贈される贈りものです。
 すでに個人の「〈いのち〉の与贈循環」にしたがって、人びとが多様な形で動
き始めていることに加えて、さらにインターネットによる生産者への注文と商品
の宅配というように市場を通さない個人的な流通経路も生まれているために、表
からは捉えにくい形ですでにお金が動いていると思われます。
 この〈いのち〉の与贈循環をともなっておきているこの多様な動きは、グロー
バル化した資本主義経済の「新幹線」に対して、いわば経済の「ローカル線」に
相当しますが、やがて次第に「ポスト資本主義経済」として成長して、危機にあ
る人類の未来を開いていく可能性があると、私は思っています

高橋   いかがでしょうかでしょうか。貴兄は 東日本大震災からはるか前からこのような先進的生き方でした。Yさんも。Tさんの双葉生活も・・・Oさんも・・K・T・Tさんも。

間違いですか。間違いなら反論を。  唸ってしまいます

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私の8月15日

~~前略~~

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815日  68年前の疎開先

 天皇の玉音〔敗戦〕放送は縁故疎開先の母のおじの家で聞きました。みんなは正座していました。私は遠巻きに聞いていました。母のおじが「負けたのだ、負けたのだ」と声を上げました。2人の息子を兵隊にとられた叔母は黙っていました。私は何がなんだか全く理解はできませんでした。ただ親が迎えに来るぞという思いにいたったのかは明確ではないのですが何故か明るい気持ちでした。820日過ぎにやっと母がやってきました。それまで、帰るのは危ない。米軍がやってきて皆殺しになるからと、親戚一同が私たち兄弟を帰すまいとしていたようです。母は死ぬときは家族一緒だといいはり、反対を押し切って連れ戻すことになったと後で聞きました。別れるとき親戚たちが泣いていたのも進駐軍に皆殺しになると本気で思っていたからでしょうか。軽便〔ミニ機関車列車〕で4時間近く揺られて帰宅したのですが家では兄姉全員が待っていて、手をつないで輪になって座敷の中をくるくる走り廻ったこと、今も平和のありがたさを噛み締める私の映像になっています。

  敗戦直後の自宅付近

   程なく米軍が進駐してきました。先頭に機関銃をすえたジープが走り十数台のジープ、トラックが家の前を過ぎていきました。走りながら空砲も撃ったと後で聞きました。占領開始の威嚇を狙ったのだと思います。

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近くの駅の半分はペンキが塗られたのか瀟洒な米兵専用駅になり、金網越しに覗き見ることができました。列車は冷暖房つき。日本の列車は窓から体を出すほどの込み具合。その差は歴然、敗戦国の姿でした。米占領軍兵舎が置かれた旧陸軍○連隊。ここには2等兵の兄がいて母と慰問に行ったことがある。殴られて顔が無残に膨れていた。ここからガタルカナルやアリューウシャンや北支さらにビルマなどに派遣され転戦し多くが死んだ)

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向かう道路はMP憲兵が厳重な警護、交通整理に当たっていました。駅は戦災孤児や、家を焼け出された人たちの住処になっていました。線路下のガードも家を焼け出された人たちの住処になり、その状態がしばらく続いていました  

中略

   私は家の外に出ることが厳禁となりました。米兵たちがジープから子供たちにチュウインガムを撒き始めました。私は門の隙間から道路をそっとのぞいただけだったのに、血相を変えた父から罰として屋敷奥にあった蔵に閉じ込められてしまいました。真っ暗な蔵の中で泣きじゃくった覚えがあります。門を開けて米兵が一人で入ってきたこともありました。女性を探しにきたのです。裏通りの各地に売春宿ができはじめ日本人の円タク(当時の自転車タクシー)斡旋屋が間違って米兵をつれてきたということです。親は不在で小学生2人が棍棒と擂り粉木を持ってきて姉を守ろうとしました。大人が誰もいないと気づくと出て行きました。姉たちはとっさに隠れたようです。

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駅構内 と線路下ガードは  焼け出された人たち・戦争孤児のすみかになっていた。焼け残った我が家はこのちかくにあった。臭くて私は行かなかった。今考えると恥ずかしい・爆弾がちょっとそれていたら私ももこの中にいたかもしれない。あるいは爆死したかもしれません)

待っていたのは空腹でした。学校ではクラスで弁当持参は70人中23人だけ、一つの弁当にみんなが群がったようです。私は低学年だったので家に帰ってから食べました。母が着物など売って芋などに変えていたようです。よくかい出しにいっていました。学校では米軍放出の腐ったにおいのするミルクがアルミの蓋の上に注がれました。私は吐き気を我慢して飲む場合と捨てるときがありました。先生の指示で小学5,6年生は食べられる雑草を摘んで登校しました。雑草いりどんぐり粉パン(どす黒い緑のパンが配給されました。私はとても食べられず捨てたのでひどくしかられたことがあります。

   日系二世の米兵が教室を廻り戦争に関する掲示物をはがしていきました。教科書には墨が塗られました。校舎は焼け出された女学校も使うようになり2部授業になりました。(学制が変わってからは3部授業になりました)。この女学校には姉も通っていて同級生には迫りくる火に追われて逃げ場を失って広瀬川に飛び込みなくなった友人、包帯だらけになってくるもの、先生も火傷をおっていたといいます。

   敗戦の混乱は人々の心を蝕んでいきました。私の通学のズック靴も傘も学校の帰りにはしばしばなくなり、やむなく私ははだしで学校に通うこともありました。大人が学校に入ってきて盗むということでした。私のあだ名はチュウインガム、私にとって屈辱のあだ名でしたが当時の世相を反映していました。

中略

62年ぶりに 入院していた外科病院跡地に立って

 駅に程近いところに戦前外科病院がありました。私は赤ちゃんのときに手がくるぶしのようになるおおやけどをしていました。国民学校入学の前にくるぶしを切開して指を出す手術をしていました。長じてから、病院と周辺が7月10日集中的な焼夷弾を浴びたと聞いた事があります。ベッドの上の患者と付き添いのベッドの下の親を不発弾が貫通するなど(早乙女勝元編集日本の空襲・に詳しい) 周りは阿鼻きゅうかんだったと伝え聞きました。70歳になった昨年私はその前に妻と立ちました。もう病院はありませんでした。又確か近くにカソリック教会があり、外国人たちが隔離収容され、中庭を運動のためかぐるぐる引き廻されていた記憶がかすかに浮かんできました。私を執刀してくれた医者や看護士はどうだったのか。私が手術した病室は?思いはぐるぐる廻りました。教会にいた人は?きっと逃げ切ったに違いない。でも避難のため、もしかして空襲の当日の昼この病院に程近い斉藤報恩館の近くを通ったときに見た多くの焼死体の中におられたのではないか。熱いものがこみ上げてきました。

追記

 戦争はすべて狂気です。すべてを異常にします。暑い日私は父に連れられて家から釘を拾いながら歩いたことを思い出します。行けども行けども焼け野原、瓦礫。よくもこんなに燃えたものだ。日本の家屋は木と紙と壁でできていることに目をつけて大量の焼夷弾を落としゼラチン状油脂が体や家屋に付着し火災を起こし多くの市民を殺戮しました。広範囲の周囲に火災を起こしその中にいる多くの人々の逃げ道をふさぎました。市民生活を破壊し尽くすような空爆は東京空襲をはじめ日本各地の都市空爆がそうだった。ー中略ー戦後日本政府から何故か高位の勲章を授与された米司令官ルメイ(ヨーロッパ戦線で武勲を立てて太平洋戦線に回されたきたといわれる)の立てた戦略だったのは今では明らかです。日本の真珠湾奇襲攻撃、重慶市民への無差別爆撃 南京虐殺など さらに東南アジ諸国への日本の侵略、非道な加害が先行したことに続く日本の都市への攻撃でした。

日本の敗戦が既に明確となったときに戦後世界の覇権のためにアメリカはヒロシマ、ナガサキに原爆を投下し21万人(これまで38万人)を殺傷しました。今なお23万人が放射能後遺症で苦しんでいます。その1ヶ月前に私の町の空襲で1000名を超える命が散りました。また敗北が明白にもかかわらず国体護持のため”もう一戦交えてから”という聖断で戦争を引き伸ばし3月10日の東京大空襲での10万人の犠牲者を始め全国各地の都市への爆撃を許してしまいました。市民の爆撃犠牲者は55万人をこえ都合330万人の犠牲者を持って戦争は終わりました。日本軍の手によるアジアの2000万とも言われる犠牲者一人一人にそれぞれの生活と人生があり親がおり子供がおり友達がいました。その犠牲の上に世界に向けた平和憲法が生まれました。私の学び舎だった大学も武家屋敷から師団司令部、そして接収された米軍キャンプにかわり米軍基地から「初めて武器よさらば」した平和な大学キャンバスになりました。

63年間戦争に直接手を染めなかった日本。尊い犠牲の上に私も平和のもとに生きることができました。

しかし戦争責任をあいまいにしてきた日本。戦争のむごさを忘却していく日本。軍事費が膨らむ日本。海外で武器を使うことを合法化しようとする日本。今を生きるものの「戦前」責任が問われそうです。もろくなった平和を崩さないように。崩れぬ平和のために。孫子のために。

注  空襲

 マリアナ基地を9日15時3分 134機出撃 ばく撃機数124機 投下爆弾総数12,961発。高性能爆弾8個  焼夷弾912トン、10日24時3分から午前2時3分まで 25回の波状攻撃 無差別爆撃によって猛火に襲われ、羅災戸数23,956戸 羅災世帯11,411羅災人員51,832人  死者1060  重傷者385人。市内の中枢部116万坪 焼け落ち瓦礫に。敗戦1ケ月前であった。

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8月15日  その日を伝える新聞から

8月15日  その日を伝える新聞から

Dsc07591平和と不戦の誓いの碑なのに

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以上東京新聞から

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8月15日 私の行動

8月15日   お盆とハスとイチジクと

        

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お盆とゆずと語らいDsc07582Dsc07584

炎天下 9時  の ゴミ拾い  8年来つずく 15日は5×3  ごみの日

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年寄の汗水  年寄のもく拾い

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長崎平和宣言   長崎市長 田上 富久 画期的内容

平成25年 長崎平和宣言   長崎市長 田上 富久

                

 

68年前の今日、このまちの上空にアメリカの爆撃機が一発の原子爆弾を投下しました。熱線、爆風、放射線の威力は凄まじく、直後から起こった火災は一昼夜続きました。人々が暮らしていたまちは一瞬で廃墟となり、24万人の市民のうち15万人が傷つき、そのうち74千人の方々が命を奪われました。生き残った被爆者は、68年たった今もなお、放射線による白血病やがん発病への不安、そして深い心の傷を抱え続けています。


 このむごい兵器をつくったのは人間です。広島と長崎で、二度までも使ったのも人間です。核実験を繰り返し地球を汚染し続けているのも人間です。人間はこれまで数々の過ちを犯してきました。だからこそ忘れてはならない過去の誓いを、立ち返るべき原点を、折にふれ確かめなければなりません。

 日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。
 今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80か国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。
 しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。


 インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。
 NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化することになります。NPTを脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。
 日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。
  非核三原則の法制化への取り組み、北東アジア非核兵器地帯検討の呼びかけなど、被爆国としてのリーダーシップを具体的な行動に移すことを求めます。

 核兵器保有国には、NPTの中で核軍縮への誠実な努力義務が課されています。これは世界に対する約束です。
 20094月、アメリカのオバマ大統領はプラハで「核兵器のない世界」を目指す決意を示しました。今年6月にはベルリンで、「核兵器が存在する限り、私たちは真に安全ではない」と述べ、さらなる核軍縮に取り組むことを明らかにしました。被爆地はオバマ大統領の姿勢を支持します。
 しかし、世界には今も17千発以上の核弾頭が存在し、その90%以上がアメリカとロシアのものです。オバマ大統領、プーチン大統領、もっと早く、もっと大胆に核弾頭の削減に取り組んでください。「核兵器のない世界」を遠い夢とするのではなく、人間が早急に解決すべき課題として、核兵器の廃絶に取り組み、世界との約束を果たすべきです。 核兵器のない世界の実現を、国のリーダーだけにまかせるのではなく、市民社会を構成する私たち一人ひとりにもできることがあります。

 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という日本国憲法前文には、平和を希求するという日本国民の固い決意がこめられています。かつて戦争が多くの人の命を奪い、心と体を深く傷つけた事実を、戦争がもたらした数々のむごい光景を、決して忘れない、決して繰り返さない、という平和希求の原点を忘れないためには、戦争体験、被爆体験を語り継ぐことが不可欠です。

 若い世代の皆さん、被爆者の声を聞いたことがありますか。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と叫ぶ声を。
 あなた方は被爆者の声を直接聞くことができる最後の世代です。68年前、原子雲の下で何があったのか。なぜ被爆者は未来のために身を削りながら核兵器廃絶を訴え続けるのか。被爆者の声に耳を傾けてみてください。そして、あなたが住む世界、あなたの子どもたちが生きる未来に核兵器が存在していいのか。考えてみてください。互いに話し合ってみてください。あなたたちこそが未来なのです。宣言します。



2013
年(平成25年)89
長崎市長 田上 富久

動画は
http://www.youtube.com/watch?v=kCWu1jkPhiY&feature=youtu.be 

 長崎平和宣言   長崎市長 田上 富久

Photo

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いくらなんでもひどすぎる   ナチスにならって発言

いくらなんでもひどすぎます

先の参議院選は 自民党は議席で大勝しました。これから3年間解散以外選挙はなし。自民党は「改憲と原発推進の他政党の補完勢力を抱きこんで3分の2の確保も可能報道されています。

その中で飛び出したのが  麻生副首相兼財務省大臣の「ナチスにならって」の発言。何をナチスに学ぼうというのでしょうか。ぞっとします。

アウシュビッツなど対外排撃のナチスのやり方か。当時第1党の共産党150議員を国会放火のでっち上げで放逐したやり方か、民主主義を機能不全にしていつのまにやら平和憲法を亡き者にするやり方か。ワイマール憲法の中で全権委任法で全権を掌握した民主主義をなくしてしまったやり方か、いま欧米ヤ東南アジアの諸国からするどい日本への批判が起きています。全世界を敵に回す

排外主義。

小田実氏は  市民活動の原点は  「いくらなんでもひどすぎる  感覚で立ち上がる  デモだといいます。麻生発言はいくらなんでもひどすぎます。

 

戦争体験  広島・長崎・ビキニ・福島の記憶を多少なりとも実感として持つ私ら年配者なら「いくらなんでもひどすぎる」という気持ちを持ちます。「おごれるもの久しゅうならず」ですが権力を持つ者の暴走もあり得ます。そんなはずではなかったのにときずいた時にはもう遅い・

だから8月6・9・15日を挟んでこの8月は 年配者の出番だと思いました。せっかく年寄になったのですから

今日は快晴。どしゃ降りにならないうちに朝顔を見ておきたい

ちょっと休憩。見てくる。写真撮ってきたい

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ほっ

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ブログを始めるにあたって   5年前の文章

ブログを始めるにあたって   5年前の文章

この春 古希到来。これを機に恥ずかしながらプログを始めることにしました

まだよせばよいのにという気持ちがあります。何せ仕事を辞めて65歳から初めて触ったパソコン、(火傷のせいで)右手のひと指しゆび一本で打つ難儀、続けられるか本当に心もとない。

でもやる気になったのは教えてくれる人がいたからです。このところ聴いたり、語りあいたかった人が相次いでなくなったことにもよります。もったいなかった。 そんな方のおかげで70年間生きられたのだし「いま」をいただきました。

実際70年間いろいろ食べさせもらい 人に出合ったコトで今の私が在るわけです

 まさに「お陰」さまでした そんな「お陰さま」とは「貴方」の事だと今更ながらきずきました色々教えてくれたし、きずかせてもくれた「貴方」です。わたしの「在る」を支えてくれた全てのひとです。鈍感なわたしに気づかせてくれたもの全てです。

 そこでテーマはあなた(みんな)がいて私がいるニュースとします 

  貴方とは  

文字

(

もんじ

)

とおりあなたですが、時にほんの著者になったり  近隣の人になったり、孫子になったり 今や昔の友人や先生になったり します 

四街道の景観も故郷仙台も世界のあの街も

   貴方的な親しみがありさえすればもちろん貴方になります。ですからこのプログ私ではなく貴方のことや事実が主役です。果たしてどうなるか

大まかな分類

1 お茶しませんか ― 気軽なおしゃべり エッセイーー  (   茶)

2 なんといっても平和がいいーー戦争と平和の事― ― (   平和

3 地域を楽しみながら  ――地域社会の意義と意味―   ( 地域)

4 この国のこと   ――政治や経済 社会のことー  (   政経社)

5 この地球のこと   ――地球環境 自然環境―   (  環境)

6 にないあって、    ――協同こそ未来、希望-    ( 協同)

7 忘れえぬ人、   ――人類の恩人 わたしの恩人― ( 識者、友人 )

8 印刷されたものから ――本として印刷されたものからーー(  屈文)

よく続いたものです。いやよく見てくれたものです

この5年間で書いて載せた記事(文章写真)は374件

月4~5回のペ-スで書いてきた。アクセスはこれまでに25571

自分でもひどいなーと思うもの記事もあるのににこんなにアクセツ

いただき恥じ入る次第、感謝です。

後期高齢期にはいって  ふりかえると

1お茶しませんか ― 気軽なおしゃべり エッセイ

7 忘れえぬ人、   ――社会的先輩 わたしの恩人― ( 識者、友人

が不足している。反省したい 。齢のせいか 忘れえぬ人、時勢のせいか

次の世代につながる社会的な先達を探っていきたい気がしている。   

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