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言葉の力   被災地に花を 花の力   花物語 南房総  

言葉の力   花の力

井上ひさしにちなんで

    手記は聖書  ~~若いおかあさんの遺体の下に赤ちゃんがいたという話がたくさん残っている。憎悪の塊のさく裂点の下に、人間のすばらしさが小さな宝石箱のようにキラキラしている。だから聖書なのです

被災地での花

「地震で家屋が全壊になったショックから立ち直れるかと思っていましたが、月日がたつうちにがんばらねばと思うようになって来ました。菜の花とキンセンカがとてもきれいで、春が来たことを知らせてくれました。」

「暗い毎日を送っておりましたが、春の花で心を取り戻しました。今日からは元気、元気。、すてきな花ありがとうございました。真心、嬉しかったです。」

「どん底に突き落とされたときほど人の関心と温かいお心づかいをいただけるほど嬉しいことはございません。特に遠方の方々からお寄せくださいました慰めとやさしい言葉と品々、そして無言のうちに心温まる花々。ありがとうございました。」

再掲

花ものがたり

         ―― 南房総は面白い ――                           

真冬というのに路地に自然に花が咲き乱れているところがある。房総半島の最南端の地域である。こんな所は日本国中めったにない。もちろん千葉県民なら誰でも知ってはいるが、実際行くとなるとよほどの理由がなければ足を運ばない。花より団子の口はなおさらである。

以下、私が改めて感嘆した花景観のいくつかを披瀝し、未だ行っていない方に千葉県民の特権行使をお勧めすることにしたいと思う。

― 景観いくつか ―

 房総半島最南端、東京湾の入り口に当たる外海に面した州崎燈台から白浜方面に車を走らせるところからはじめたい。この地域の特徴は、山が丸まっちいことだ。なだらかな丘陵を包む照葉樹林の森が、照り返す海のキラキラ光とあいまって車窓に飛び込んでくる。ついで、フラワーラインと称する海岸通りを帯状に連なる、まっ黄色な花を左右の道端に見ながら走ることになる。千葉県花、菜の花はここが一番と鮮やかである。どうしてこんなにおだやかな金色をかもし出すのか。しばらくして、お目当ての野島崎燈台に着いた。

― 野島崎 ―

女性的な景観は、ここで一転して男性的に海に突き出した岩礁の景観に変わった。奇岩の上に飛び散る波のしぶきの向こうに見る水平線上の舟影、足元には宮崎の日南海岸と同じような“洗濯板”の岩層があり何千年、何万年の記憶を景観の中にとどめている。そういえば、ここの年間の平均気温は15℃とか。宮崎の日南地方と同じ。亜熱帯に近い。車に引き返す道すがら「アロエ」の群生が目に止まった。我が家では一晩外に出しっぱなしにして「アロエ」の鉢植えごと枯らしてしまった直後だっただけに、無造作に群生していることに驚く。そういえば、この近くの館山の沖の島でサンゴを見たことがある。北からはアザラシの玉ちゃんが迷い込んだ。南と北の海流がまじわった面白い植生が景観の特徴なのだろう。野島崎の海に飛び出た突端は周囲は1kmという。その中にある厳島神社に立ち寄った。広島の厳島神社と姉妹という。面白いのはここにある七福神だ。これを彫った石工は奇人だったらしく、「100年経てば理解してもらえる」と、周囲の無理解者たちに豪語していたという。もうとっくに百年以上たっている。七福神(写真)との出会いは、各地の五百羅漢が好きな私にとって、もっけの幸いであった。後世の人まで人間好きに誘うなんて石工冥利に尽きることだろう。又この辺は、古来海女さんの仕事場でもあった。往時は1000人を越える海女さんがあわび取りをしていたという。今は碑がたっているのみだ。まだどこかでやっているとしたら是非白い丸首にパンツの海女さんにお目にかかりたいものである。興味が尽きない地域であった。西岡としこの孔版画の「早春の海」は菜の花畑から野島崎を臨んだものだと後できずいた。

― 花ものがたり ―

道の駅で腹ごしらえをした後、目的地である白浜に向かった。何度か来た事があったところだが、改めて息をのむ。白浜の海辺からの傾斜地の畑(田)に8月に撒かれた、ポピー、ストック、キンギョソウ、キンセンカなどの種は1~3月に開花し、まるでモザイク模様のじゅうたんのように、太陽の陽に照りかえされて視界いっぱいでも補えきれない。冬の潮風にも耐えて成長した花たちであった。無霜地域を巧みに利用し、貧困にあえいだ農漁村の先人たちが苦労に苦労を重ねて作り上げてきたものだという。

かって阪神大震災時、神戸に支援に行った仲間から「今,震災地の人々に必要なのは花かもしれない」という知らせが届いた。これを当地の漁業協同組合の知人に言ってみた。震災一ヶ月がたち、被災者の疲労は極に達していた。梱包された花をトラックいっぱいに積んで現地の生協に届いた。花は建物崩壊の中でも開いていた店にもまわされた。店で受け取った被災者からお礼状が沢山きはじめた。必死に寒空の中で耐えてきた人たちは、「あっ、もう春なんだ。生きてきたんだ。と我に返った」。花にほほを寄せて涙ぐんだ様子など、未だ私の手元にある文面(コピー)から読み取ることが出来る。そんなことに思いを馳せる私を尻目に同行者たちはうでに抱えきれないほどの花を切り取っていた。試しに分けてくれた農家のおばさんに当時取り合った知人の消息を聞いてみた。病気で加療入院中ということであった。

田宮虎彦 の小説にここを舞台にした「花」という作品がある、戦争中、政府から花栽培禁止令が出され、県は時々抜き打ち検査して花栽培を禁じていた時代のことである。この中でどうしても捨て切れなかった花の種をひっそりと隠し持っていた農家があった。見つかれば国賊にされるところであった。戦争が終わってしばらくしてこの種の花栽培が始まった。たまたま、房総を中心とするNPO千葉自然学校の役員をしている関係で、話は前もって伺っていた。だから同行者が切り取った花たちに良くぞお出まし願ったと声をかけたいきもちになっていた。

花は弱い。特に戦争に弱い。平和にこそふさわしい。戦争を経験しなくなって久しい日本に住む私たちは幸せだ。しかし花を守った人たちのこと、花を奪った戦時体制、そして広島や戦争を忘れるとき何が待っているか。ちょっぴりでも想像をめぐらすことがあっていいと自戒しながら離れた。そして加齢もあってかやはり日常の暮らしの中に理屈ぬきに花があるのが一番いい。さらに適うことなら 年に1度ぐらいは文化や歴史の宝庫でもある南房総の景観を楽しみたい。同行の姉はむかしのまんまの笑顔であった。やはり花は強い参考 房総のふるさと 多田屋)

  

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