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千葉県飯岡の被災者とのおしゃべりからいくつか。

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千葉県飯岡の被災者とのおしゃべりからいくつか。

〇飯岡に生まれ育ったHさん。ほっとするもの飲みたい とダジャレをいって入ってきた。

  僕    「ダジャレがうまいね」

  Hさん「壁に向かっているよりはここがいいやね。kさん(生協職員)いるかね。好きなんだよ]   撲「おひとりで暮らしているの?」 

Hさん「そう。波乱万丈の人生だった。―云々―いま毎日絵を描いているんだ・」

向かい側に座った方 「この人ペンキ屋さんだったんだよ」

撲「そりゃうまいだろうね・観たいものだ」というと携帯にとっていた絵を見せてくれた 。支援者3人と坊さんの絵だった。人物画が好きだといっていたが猫や花の絵もあった。

〇毎日が苦だ。でもね・・・・

  「何もかも失ってしまった。でもね…しばしして・・自分には日本語がある。日本語を

操れば、人と会うことが出来る・出会えば人が好きになる。僕はそんな信条で生

きてきたんだ。人を幸せにすることが出来るんだ・・・・」

僕はこれを聞いてうなってしまった。苦難は人を「哲学者にする」ようだ。尊敬の気持ちになった・もっと聞きたい人だった。

〇89歳と86歳の老夫婦。軍隊やシベリヤの抑留生活を思えばこれっきしのことは。

撲「元気そうですね。何を食べているの?」氏「鳥の空揚げ・毎日だ。」撲「御子息さんたちは心配だろうね」

氏「4人。生きたいように生きなさいと言って育ててきた。私はね中野の無線学校を出て満州に召集されその後シベリヤに3年抑留されたんだ。軍隊や抑留の時を思えばこれしきの苦労は何でもない」 撲「どんな暮らしだったの?」

氏 「食べ物がなくてね・松の木の皮をはいで食べたんだ。皮と幹の間にあるところ、これが甘いんだ・・・・・・・・・・」   写真を撮ることも喜んでくれた。

 これを聞いた翌日24日シベリヤ抑留者協議会の会長が亡くなったとの知らせがあった。私の元職場の先輩で私の結婚式を取り仕切ってくれた方だった。鳩山元首相も列席した25日の斎場でわたしも焼香しながらふと飯岡の89歳氏のことがよぎった。 

被災者一人ひとりにはそれぞれの来歴があり、つながりがあり、苦難の社会で私たちと同時代を生きてきた個性のある尊敬すべきひとたちだった。話を伺うと、飯岡を愛し、浜を愛してきた。風光明媚な屏風岩のことを言うと、きもちがつうじた。港のそばで新鮮な魚介に恵まれ 温暖な気候の中でいきてきた。それは誇りだった。

会う人が気さくだったのは、

この仮設住宅には飯岡町のコミニチーの雰囲気が漂っていたと思った。もちろん継続している支援活動のおかげも大きくあずかっているからでもある。しかし毎日が苦である現実は変わらない・先の希望が見えないことほど苦痛はない。

ともすればと東日本の大震災も忘れがちだ・千葉にも被災者が多くおられることも県民の意識から遠ざかってしいがちだ。

12月の発表によると首都圏直下型地震・千葉沖大地震が30年以内に起きる確率が10%引き上げられ80.%台になった。明日にでも起こりうる。足元の千葉県を知りきずく機会としても飯岡支援の継続は貴重だととおった。関係者に感謝したい。

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