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2012年10月

この表紙の少女  私らはこの少女に見つめられている

もと岩波書店の社長の安江さんが存命のころ  大江健三郎と「核・エコロジー」と題して

対談をされ   それを私が勤めていたところのメンバーむけ冊子に掲載したことがあった。

かれこれ4半世紀前のことだ。何せビッグ対談、内容の濃さは時代を透視するもので感動

をおぼえたものだった。

ところでその内容にふさわしい表紙だけを紹介する。

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じーっと  後ろから迫ってくる自動車。・・・・

それとはきずかない少女・だが不安なまなざし・・・・ 

私らはこの子に見つめれれている・・・・・・ 

今年中に  石巻の大川小・ そして女川原発の前の立ちたい

と思う。

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セミ  蝉   セミ

セミ  ♪♪ 山は青きふるさと

          水は清きふるさと ♪♪    

 わたしら日本人にとってセミほどなじみの虫はない。今年の夏も同好会の蛍観賞の後、“みそら””旭が丘”両団地ともにそれぞれの中央公園の”セミ”の羽化を楽しんだ。喜こぶのは子供ばかりではない。大の大人があの木、この木と ”いたよ” “見てみて”“こっちきて”と暗がりの中で声を掛け合っている。童心そのものだ。かく言う私も

 脱皮の瞬間、静かにしずかに進む、あと7日間の命の連鎖へのページェントに見とれてしまう。淡い緑のような羽がくるっと逆さに出てきて頭を殻の上に乗せる瞬間に息を呑む。

 セミの不思議

 ”不思議”といっても生態学的な不思議ではない。それはその道の達人にゆずるとして、ある不思議に気がついた。「閑かさや 岩に染み入る セミの声」(山寺 立石寺)の芭蕉の句。知らない人はオバマ大統領と赤ちゃんと幼児だけだと思うほど、ポピュラーだ。山寺は郷里の仙台から近くだったので芭蕉の句に馴染んだせいかセミは日本の文芸に溶け込んでいるとばかり思っていた。ところが、数多ある日本曲の中にセミを歌ったものが他の生き物と比べて極端に少ない。いやない。「歌の玉手箱 音楽療法士 宮本晶子編」文芸社の歌集の、童謡、唱歌、民謡」を調べてみた。あった。珍しいので書き留めた。

作詞、さとう よしみ 作曲 中田

  せみ せみ  せみ せみ みんみーん

  どこにいるのか  せみ

  なかなかいないよ せみ

  なかなかとれない せみ

ひょっとして知らないのは私だけかも、

どなたか 文学 文芸 俳句など知っている方教えていただけませんか。

不思議その2

 私は“カナ カナ カナ カナ”となく”ヒグラシ”に暮れなずむ夕暮れ時の光景が浮かぶ。そして ツクツクボウシの鳴き声に子供時分に遊んだ仲間を思い出す。元気な気分になる。ミンミンゼミもいいが 交通事故の後遺症で耳鳴りがやまない今、油蝉のようなけたたましいのはちょっといけない。でも幼いとき良くとったせみなのでやはり懐かしさはある。”鳴き声”がどうしてあんなにでかくて美声で違うのか・・これは不思議だ。

    “アリとキリギリス”のイソップ童話

もともと“蟻と蝉”だったという。ヨーロッパ地域には蝉を見ない地域が多いという。そんな地域では「なまけもののセミがキリギリスに変身したとされる」(UP10月号)。しかし 蝉はキリギリスと違って鳴き、唄いまくり、まわりを楽しませ、樹液を吸って湖口を潤している。アリのように他の生命を食いちぎり犠牲にする昆虫ではない。夏は歌手として日中働いている。アリと対比してナマケモノにされるいわれはない。ありとキリギリスに代わってよかった。でもキリギリスを怠け者視するつもりはない。

蝉の鳴き声を聞けない恐ろしさ

 

「蝉の鳴き声がなくなった時ほど恐ろしさを感じたことはない」1945年8月9日、長崎に9歳の児童がいた。ピカッドン! 気絶。しばらくたって母の腕の中で正気に返った。

あれっ、今まで鳴いていた蝉の鳴き声がない。「じゃれついていた犬がいない」。「動く者もいない静寂の恐ろしさ」67年後の今も体に染みついた恐怖です。私はこれを聞いてかける言葉がなかった。

同じことをフクシマで体験した。Jブリッジから放射せん防御服を着て双葉町に車でむかった。20キロ荒れた田畑を挟んで大熊町・冨岡町・双葉町の正常な商店・住宅・食堂が軒並みをそろえて目に飛び込む。だが人の気配はまったくない。請戸に立ち寄った。600軒の住宅は壊滅。緑も小鳥も、セミもいない。無常、非情、不条理。放射線の恐ろしさ実感

福島の痛みをわが痛みに 人災 ヨーク考えたい

故郷のメロデーが浮かんできた。

いつの日にかえらん            いつの日にかかなえん

♪♪ 山は青きふるさと          山は青きフクーゥシィマー

水は清きふるさと          山は青きフクシマ   

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今なぜ いまサダコ か  千羽鶴か

文学座の四街道公演(千羽鶴)を鑑賞してからというもの

      今なぜ いまサダコ か  を考えています。

もう1度歴史を繰り返させてはならない。という思いです

12年の生と死 1943~ 195510

サダコは原爆にふき飛ばされたが奇跡的に助かった。黒い雨に打たれていたサダコ

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かすり傷一つおわず、病気1つすることなく育ち、6年生になり、クラスのリレー選手1位だった佐々木偵子ちゃんが突然発病、21日日赤病院に入院。耳の後ろにしこり、それがだんだん大きくなり、リンパ腺の肥大首全体に。白血球増加、輸血26回。皮下出血。苦痛耐え「早く学校に行きたい」、鶴を千羽折ると願いがかなうと折り続けた。664羽で力尽き原爆の犠牲者になった。枕もとには最後までおり続けた小さな折りヅルが残されていた。(母の証言)Sdsc00547

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この年、偵子と同じように14人の子供が犠牲になっていた。同級生たちも多くはヒバクシャだった。入院の真実が知らされたとき教室はシ-ンとなった。他人事ではなかった。折りずるの碑を建てる運動は同級生から始まった。台座に「「私たちの叫びです。祈りです。」と刻まれている。台座の内部には日本で初めてのノーベル物理学賞受賞者 湯川秀樹が寄贈した鐘がつるされている)

 当時放射線のからだに及ぼす影響は日米政府によって否定され、原爆投下の翌年の46年に早くも、新聞までも「もうおさまった」と報じたという。だから国民にも放射線の人体に及ぼす影響は知られていなかった。しかし火傷をおわない人たちの間で早くから腹が飛び出したり、吐き気・下痢・頭痛・脱毛に苦しみ後遺症、白血病がんは続いていた。(急性症状で倒れたり・白血病にかかり次々に亡くなっていたのに徹底して被害の実態を隠したのは何故か?)

一見健常者なのにぶらぶら病といわれる症状は町の医者だけが知っていた。採血すると黄色の血が採決され、貧血・肝臓、生殖器に影響は及んでいた。原爆投下から7年間・1952年サンフランシスコ講和条約まで米占領軍は報道統制(プレスコード)を敷いていた。(医師肥田俊太郎は内部被ばくを指摘して5回逮捕されている・何故逮捕まで隠そうとしたのでしょうか?

1955年ビキニ環礁での水爆実験場から170キロ近く離れて操業していた第五福竜丸が放射能(死の灰)をかぶり久保山さんが「犠牲者は私を最後にしてほしい」の言葉を残し悶絶しながら亡くなった。 マグロ汚染に怒った杉並の魚屋の主婦の叫びから始まったという原水爆禁止署名は瞬く間に3000万を突破し第1回原水爆禁止協議会世界大会は佐々木貞子さんが折り鶴をおっていた8月に開かれるようになった。57年には被団協が結成された。57年にやっと原爆医療法(ヒバクから12年目・不十分な内容)ができた。ストックホルムアピールの全世界3億の署名が呼応し朝鮮など戦争での核兵器使用を思いとどまらせる力となって行った。

「1960年頃まで白血病の死亡に続いていた。60年第半ばからは癌をはじめ放射線による晩発性障害による死亡が急速に増えていった。放射線降下物や残留放射能に汚染された塵や埃を吸い込んだり、飲食類を体内に摂取することで(内部照射で)内部被ばくをした被爆者は今なおさまざまな疾病にかかって死の苦しみとたたかっている。だからこそ福島の被災者と連帯が…・・・」と。(日本原水爆被害者団体協議会 代表委員 岩佐幹三 2015年NPT再検討会議準備会 ウイーン、再び被爆者を作らぬために、世界のみなさんに訴えます。ヨリ)

私らはサダコの国に住んできました。私らは内部被ばくの久保山さんの犠牲を目のあたりにした国に住んできました、私らは37万人の生存被爆者が暮らしている国に住んできました。私らは内部被Sdsc00551_2 ばくを認めなかった政府のもとにいきてきました。被爆者の裁判をかけた戦いで国は敗れ、やっと内部被ばくを認めてのはつい数年前だった。放射能被災に「小さく・低く・軽く」して対応してきました。補償には直爆などの条件付けた。入市被爆をみとめなかった。以遠の黒い雨の被爆者をみとめなかった、等々。被爆者に対し、戦争被害は国民等しく受忍しなければならないとした高名な学者たちの意見書を活用して裁判に当たる等々。)

なぜ今サダコか  次回へつづく

写真広島放送局刊  原爆の子  ヨリ

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核抑止という名の恐怖の応酬

核抑止という名の恐怖の応酬

核兵器は何故増え続いたのでしょうか。そのわけを日本で始めてノーベル物理学賞を受賞された故『湯川秀樹博士』が数十年前に看破し警鐘していました。

「米ソの核軍備拡張が強まる方向に事態が進んできたのは、それは核抑止という誤った考え方にある」と述べています。平たく言えばたえず相手国に核報復を行うという威嚇を行うことにより相手方の攻撃を思いとどまらせる、そのために米ソは相手より優位に自分をおこうとして核兵器開発競争を続けてきました。その結果が26000発です。日本政府は被爆国でありながら 核抑止の名で「核の傘」に入ることを選択してきました。最近国会で明確になりましたが原爆もち込みまで密約で許してきました。私たちは核抑止という名の恐怖の中におかれてきことになりますた

冷厳な事実の前に

この間世界は幾度となく核戦争の瀬戸際に見舞われました。多くの歴史家が論証したように朝鮮戦争時に、キューバ危機時に、台湾海峡紛争で、ヴェトナム戦争時に、湾岸戦争で核使用の一歩手前までいきました。ソ連消滅後もアメリカは“正義のため”に核兵器の先制攻撃の権利を留保し核兵器保持、開発をバックに国際政治を進めてきました

悲願から希望へ

しかし核兵器は たった1発の使用でも敵味方関係抜きにすべてを殺戮し尽くし世界を破滅に落とし入れることが世界に知られるようになりました。核兵器の95%を持つアメリカとロシアにおいては核放射能被害が自国の兵士と市民を襲い始めました。アメリカはイラクから帰還した劣化ウラン弾に触れた兵士たちなどによって、ロシアはチェルノブイリ原発事故(ヒロシマをこえる惨劇ともいわれる)などによって。核兵器拡散や核テロの恐怖が核独占の為政者をも捕らえ始めました。

核兵器を『俺は持つが、お前はだめだ』という脅かし論理で世界を納得させることは出来なくなりつつあります。21世紀を核のない希望の世紀にするチャンスは皮肉にもこんなところから生まれるかもしれない。未爆者に置かれることを拒否する頑固さが活路を開く。無関心は平和の敵だが  人々をブラインドにしてきた為政者の要因の解明が急がれる。

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自然なお果子

自然なお果子
                         お果子とは おかしな間違った書き方と思われるでしょう。でも、お菓子は昔「果実 果物」をさしていたらしいのです。果物の「」が「」にかわったのはいつ頃からか。いずれ同好会の佐々木満さんに教えていただくことにして,早速お果子のことにうつりたい。


ときは秋、栗。柿。いちじく。くるみ。

栗はいつも「曼珠沙華(彼岸花)」と共にやってきます。
 子供の頃、甘いものに飢えて育った「ボク」は今でも「クリ」と聞いただけでヤッターと声をあげたくなります。

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Sdsc00701_1 孫が来るので拾ってるのと87歳の0さん。山梨にて
 

去る97日、Aさんの栗林で栗ひろいがあり、35名集まったそうだが行けなかった。残念でならない。このAさんは「地元農産物を大切にする農家と市民の会」のメンバーである。もう1人のメンバーのである会の会長のAさんは私の散歩道(成山)で畑を耕している。昨秋、落ち葉で焼いた焼き芋をしゃがんでご馳走になった。食事外に仕事で疲れた合間に食べるものを、その昔は「クァシ」といったそうだから、こういうところでおしゃべりしながら食べる「焼き芋」こそ本物のお菓子の名にふさわしい。ここは無残に開発された成山の一角の森の中。みそらの対面の成山に残り少なくなったホッとするところ。

だからこの地でサトイモやショウガ、落花生などを作ってくれているAさんのような農家の方は、美味しい野菜だけでなく自然の景観を私たちに提供してくれる大事な人たちなのだ。この会では来る10月5日  19日、8時から10時 みそら集会場前庭で12日は、第四幼児公園(集会所Sdsc00478のとなり)で「朝市」を予定している。ぜひ、のぞき、手伝いたいと思っている。

 話を「お果子」に戻そう。栗にかかわるお菓子はいっぱいある。マロンケーキは四季に関係なく、洋菓子店にあるが、私の場合季節感があふれる和菓子に軍配をあげたい


 秋はくるみ。おふくろが蒸かしてくれた「ユベシ」の上にちょこっとのっている「くるみ」。クルミの実を荒縄にくるんで鉄づちでたたきわり、ほじくって実を取り出し、ユベシの中に入れる。そばにはとってきた小さい栗(今はないなあ)が湯気を立てていた。
 こんな風景は、誰にでもある思い出であろう。でも私の息子の世代はどうだろうか。
季節の折り目、節目を味わったことは学校の試験か、スキーシーズンぐらいだろうか。この半世紀日本人が失ったものの一つに季節感がある。お菓子の世界でも、ケーキ、チョコレートが大手を振っている。しかし、和菓子には季節感がにじんでいる。


 春、ヨモギが萌える頃は草もち、花見の頃には桜餅、その前に梅の匂うころに、のし梅があり、五月には柏の葉にくるんだ柏餅、牡丹の季節には「ぼたもち」秋に転じては「お萩」。ハレの日の家で作った牡丹餅は、一緒に食べた家族の顔が浮かんでくる。もちろん、千葉神社前の豆大福、東千葉駅前の特大おはぎ、大多喜駅近くの餡のいっぱい入った最中も最高。米屋の塩大福、佐原の和菓子たち、いずれも庶民派のとびっきりの味だが、これとてハレの日に田舎で食べた手づくり牡丹餅にはおよぶまい。


 は枝豆ふかして皮をはぎ、すり鉢で摺りつぶして餡にして、もち米を包む世に言うずんだもち(豆打もち)。団欒のお菓子の筆頭だ。漬物とも合性がよい。 夏はまた水菓子、お祭りの綿菓子、ところてん、秋は上記に加えて柿やサツマイモ、葛、ごぼうにちなんだ菓子は、ごまんとある。新年は、花びらもちからはじまる。


 和菓子屋をのぞくと四季折々の香りやかたち、いろんな模様に色デザインが目に飛び込んでくる。まさに総合芸術品。もったいないのでチビリ、チビリ食べることになる。その道の通に聞くとチマキ一つ作るのも、湿度、気温、水、原料、餡の練り方に細心の注意を払うという。京都の友人(和菓子の京都、岩波新書、著者 川端道喜に詳しい)に粽を頂いた時、和菓子のデリケイトさと奥床しさに恐れ入ったものだ。

 これを機にそれまで「酒も飲めない」という視線をあびてきた私は、甘党を隠すことをやめたのである。

 あと何年生きられるかわからないが死ぬまで庶民派甘党として四季を食したいものである。そしてお果子に限らずに色々な季節の移ろいを味わい、此の世も、この日本も、四街道もこの時代も生きるに値するところだったと言えるようになっておわりたいものだ。

 最後に一言。酒飲みの元気な皆さんに。

季節をおって仲間と飲む酒は、格別のことでしょう。でもね、お菓子もたまにめしあがってはいかがでしょうか。いま甘いものがお嫌いでも幼い頃のおもいではきっとあるはず。金子みすずの詩にかたらせましょうか。よくこの詩をよめば貴方の中の自然(じねん)が目覚め、甘党に寛容になることうけあい。甘酒も酒のうち、甘の季節が待ちどおしい。

  いたずらに一つかくした         おいてみて    

  弟のお菓子。              とってみてまたおいてみて

  食べるものかと思ってて、        それでも弟が来ないから

たべてしまった             たべてしまった  

一つのお菓子              二つ目のお菓子

母さんが二つっていったら        にがいお菓子

どうしよう                 かなしいお菓子

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彼岸花 白と赤の群生や見事

Sdsc00646_2 彼岸花 白と赤の群生や見事

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丹念にそだてたNPOの方々に感謝しつつ観賞

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赤もいいな

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黄色も

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キンモクセイ  ほのかな甘い香りに

赤と白と黄色に囲まれた近所の風情

育てた隣人やNPOに感謝

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  四街道の魅力  里山

Sdsc00132 彼岸花  曼珠沙華  里地  四街道

9月末・千葉市のワーキンググループ  彼岸花観賞に四街道を訪ねる。そのかづ200余名とか。四街道の魅力・Sdsc00104 其の1山梨の神社

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おっと間違い。文化座の千羽鶴  おいて四街道

平和と文化のまちでもある。

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