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2012年9月

人を活かすやおよろずの神の住むところ

  人を活かすやおよろずの神の住むところ

No12

        

同好会ができたてのころSさんがいった。「身近な自然でこどもたちを遊ばせてあげたいんだよ」 と。確かに子供は自然のなかで遊んでこそ一人前の人間になる事が出来るという。亡くなられたSMさんは旧村などに残る神社の来歴やしきたりをしらべ語り残していただいた。古より子どもの心技を育てた景観の表現でもあった。鳥の下では黙々と体を動かす人たちによって休耕田がめだかの池やホタルの生息地に変貌し訪れる子供や家族がホットできる景観になっている。

定年になり時がたつにつれ

環境 景観とは「そこの生き物 動植物とひとびとが一緒に住んでいるところ」とその大切さを実感的に認識できるようになってきた。先達のおかげだ。当然にも生き物というのはみな「命」がある。

いま命を顧みない痛ましい子どもの事件があいついでいる。あるかたは言う。「子供たちが命の大切さを知らないとすれば、それはいのちの大切さを教えなかったからではなく 大人たちが豊かな自然のある空間を顧みることなく命をないがしろにする振る舞いをしてきたからである」と。

実はそれを実感したのは鮭が成田近くの多古町まで遡上していることを若い人たちに写真映像つきで話したときであった。「エーウソーわくわくするなー」「この千葉に?おれ栗山川のそばに住んでいるのに知らなかった。おれの生まれたところだよ、ほこっていいよなー」「さけの映像を見て子孫を残すための必死の姿、感動した。」「まだこんな場所もあるのか。

千葉には汚い川しかないと思っていた」と次々に感動の表情でかたる。ついでさけの遡上の環境が厳しい写真を見せると「俺がにごった汚いプールで泳ぐのと同じだ、」「コンクリートで産卵させるなんてひどい」「なんか悲しい」「はじめ感動したが安心して遡上できるようになってからやるべきだと疑問に思う」という意見が出始め鮭奉納の写真には「崇める大切な行事がされているのにそれにきづかず、自然の恵みに対する感謝さえなくなっている」そして「鮭からもらった恵みを鮭のすみよい環境づくりをし恩返しすべきだ」。若者のみずみずしい感性の言葉や文に接し「今時の子供は、若者は」と言いかねない自分がはずかしくなってくる。若者だけではなかった。

ある友人から

「素晴らしい話題ありがとう。生きるために不可欠な「水」が、山の涌き水や川から得ていた時代と水道やコンビニから手にすることが出来る時代の日常意識の変化=川や涌き水を生み出す山に感謝し大切にしてきた循環・持続思考文化から短期的な人間効率優先文化へ=「自然に対する感謝・配慮の欠如」・・・・その限界が見えてきたようですね。これも「人類生存システム」からの警鐘でしょうか。性善説で扉を叩き続けましょう」と。

鮭に出会ったのは2年前「むくろじ」の参考にと訪れた多古町染井の自然公園の会長代理のTさんと漁協のOS、S、Oさんらの計らいによるものであった。

2005栗山川・しゃけの遡上の南端

No10

No01

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若者たち ショック、いかり 反省 行動、の様子、さまざまな反応

四街道をきれいにする会は来月15日は105回目のごみ拾いだ。継続は力。さまざまの反響をひろげてきた。この間学生たちが私のパワーポイントに反応している。まちおこし授業から・・・・

きれいにする会のパワーポイント(ごみひろい)をみた若者たちはショック、いかり 反省 行動、の様子、さまざまな反応

驚き19Tさん)廃棄物のパワーポイントを見たが、すごかった。  (20歳Cさん)ビックリしました。この事実を若い人は知らない19Sさん)とてもショック。自分の生まれ育ったまち、悔しいし、悲しい、がっかりした。(19Nさん)ものすごい量があるということを改めて知ることが出来ました。とてもショックでした。怒り  20Mさん)千葉で大量の不法投棄がなされているなんて知らなかった。佐倉、四街道の酷さを見ると、県全体の問題である。もっと大きく取り上げるべきだと思う。許せない。19歳女性Nさん)車の中からのポイ捨てなど良く見かけます。かなしくなります。21Iさん)ポイ捨てが、そのうち当たり前になってきて、ゴミがたまっていく現実が非常に怖いと思った。21歳mさん)産廃を捨てた会社をもっと厳しく取り締まる必要があると思いました。そして、見つけてそのままにせず、国が何とかすべきだと思います。

反省  四街道にあれほどゴミが不法投棄されていたとは知らなかった。同じ千葉県民として恥ずかしかったし、何か対策を考えなければ本当にやばいのではないかと思いました。(20歳Uさん)「ゴミはゴミを呼ぶ」という話はその通りだと思いました。僕はたまにポイ捨てしてしまうことがあります。しかし、見て考え直しました。これからはどんな理由があろうとポイ捨ては絶対にしません。(22Kさん)私も「いけないこと」と分かりつつタバコのポイ捨てをしばしば。「誰かがきれいにしてくれるだろう」という気持ちがあると思う。自分勝手な行動をとると必ず自分以外の人に迷惑がかかる。その意識をしっかり持って、ゴミ問題以外のことでも「自己責任」を持って行動したい。(20Iさん)自分もポイ捨てしてしまうときもありますが、そのゴミを誰かが片付けているかもしれないって考えると、どんなに迷惑をかけてきたことか・・・。すごく考えさせられました。(20Tさんぜ捨てるゴミと一緒に人間のプライドを! この名言を胸に秘めたい(注ゴミゼロマーチ1号ちらし)

清掃事務所でアルバイトをしていたことがあります。可燃ごみの日に不燃ごみを出す住民がいます。それは注意書きのシールを貼り、残していくのですが、集積所にゴミが残っていると歩いている人がどんどんゴミを捨てていってしまい、ますます汚れてしまっていきます。さらに割れたガラスを袋に入れただけで捨てられて、集積作業員がケガをするときもあります。私は焼き鳥の串が手に刺さってしまいばい菌が入り、手が動かなくなってしまった事があります。ゴミを出す側のマナーが悪いと思います。集積の大変さが分かれば、マナーも変わっていくと思います。

19Kさん)四街道のパワーポイント、非常にわかりやすかったです。四街道にはゴミ、産業廃棄物が大量に放置されているようで、市民たちのボランティア活動によって変わっていく様子が分かりました。すばらしいことだと感じました。

20Iさん)地域のごみを拾って町をきれいにするということはとてもすばらしいことです。しかし、それ以前にゴミを捨てないという強い意志を人が持たなければ、エンドレスな物になってしまいます。先ず、ゴミを捨てない、捨てさせないというものが町をきれいにする第一歩なのではないかと思います。

19Aさん)現状を知ることが出来てよかったと思います。自分たちが地域が汚れているという現実に自分たちの意志で立ち向かう試みは素直にすばらしいと感じました。

19Oさん  つくづくゴミ問題がどれだけ深刻なことかってことに気づかされました。今まで自分がやってきたことに反省し、これから機会があれば地域のゴミ拾いなどにも参加し、町をキレイにしたいと思う。

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私の 原爆体験 ヒロシマそして今 藤川さんの証言 2008年12月

私の 原爆体験 ヒロシマそして今  

                        藤川浩司 

世界で始めての原爆投下から63年が過ぎました。

 私は当時17歳、学徒動員で市内の軍需工場で朝鮮からの徴用工たちと一緒に働いていました。 8月6日の朝も8時からの仕事始めで待機中7時半ごろ警戒警報が鳴り8時ごろ解除になり、職場に戻ってまもなく「ドカーン」と大音響と共に鉄骨建築物の屋根や壁が吹き飛ばされました。

恐る恐る空を見上げると巨大な入道雲(キノコ雲)が空高く昇っていました。そのうちにその雲が真っ赤に染まって見えました。市内全域の火災に依るものだと思われました。 再爆撃もなさそうなので、工場外でみんなで情報交換をいたしました。誰からともなくみんなで「ガスタンクの爆発だろう」とか「太陽の爆発」とかまた「B29が落ちて爆発」などなど・・・

 これまでの新聞紙上やラジオによる爆撃の惨状の報道にもなかった新しい惨劇でした。暫くたった時に学校の担当教官から「新型爆撃により,

広島市

内は全滅の模様、工場勤務は中止とするので各自自宅に帰るように指示がありました。

工場から眺めた市内の建物は全壊・全焼・帰宅するにも道路は通行できず、川沿いに歩くよう指示がありました。自宅まで焼く2km弱です。川に沿って歩き始めましたが、市内に入った途端に男性・女性の区別もつかない、衣類は焼け皮膚も焼け爛れて皮がぶら下がっている姿、まさしく幽霊の行列と出会いました。

「水をくれ」水をくれ」「痛いよう、痛いよう」「病院へ連れて行ってくれ」「お医者さんを呼んでくれ」・・・・と「阿鼻叫喚」とはまさしくこの状況だと思いました。自分の頭の中は自宅にいる父、母、妹のことが心配で、助けを求める皆さんには「ごめんなさい」「ごめんなさい」と謝りながら自宅に戻りました。通常なら30分で帰りつく筈なのに、道のない道を歩いて約2時間でやっと自宅にたどり着きました。瓦礫の中から自宅を探すのは大変でしたが、幸いにも妹は倒れた家の下敷きになりながら自力で這い出ていました。父親も同様でしたが妹と二人で何とか引っ張り出しました。

「お母ちゃんがいない」 聞きましたら警戒警報が解除になったので洗濯物を持って2階に上がったとのことでした。慌てて付近を捜したところ、帰宅途中で出会った人々と同様の状態で吹き飛ばされていました。近所の病院も警察も学校も全壊、全滅で思案に呉れていましたら、軍人さんが数名見えて手伝うからここを出て知人宅に行くように指示されました。(後から知ったことですが、この軍人さんは佐倉連隊千葉出身の方でした。現在存命かどうかわかりません)。やむなく焼け残った戸板にぐったりした母親をのせて知人宅に運び、廊下で雨露をしのぎ介抱をいたしました。

翌朝35歳の若さで息を引き取りました。それから近くの川の土手に一人で穴を掘り、荼毘に付しました。どれほどの時間が経ったかわかりませんが、夕刻には遺骨を持って自宅に帰りました。

 当時父は町内会長をしておりましたので、町内から外へは出られませんでしたので、焼け残った材木、トタン等でバッラクを建て住むようになりました。救援物資の食料、飲料、衣類等を頂きました。被爆の翌日に叔母、従弟妹たちが近郊から“おにぎり”や“惣菜”を持って見舞いに来てくれたことは未だに嬉しく記憶に残っています。そのとき訪ねてくれた従弟が今日の四街道の催しについて趣意書を最初に広島平和祈念資料館への届けてくれたのも何かの因縁だと思います。彼は入市による被爆者手帳の申請をしましたが、彼の母親が申請をしていないこと、また何故今になっての申請の理由が不明とのことで却下されました。昨今「原爆症認定訴訟」の報道がなされていますが、政府は第二次世界大戦では原爆だけが救済の対象ではないとの認識だと思います。 私は昭和23年まで広島に住み、後は東京・埼玉・千葉と61年に亘り関東に住んでいます。

 私は77歳まで、頑なに被爆の話題は避けてまいりました。千葉県原爆被爆者友愛会に一昨年入会し、一昨年入会した千葉県原爆被爆者友愛会の人たちが、先立ちの被爆死者の無念と尊厳を思い、再び被爆者を作らせない、と核兵器廃絶を願い、核兵器の魔性に満ちた非人間的兵器を告発し続けている姿に接し、ヒロシマの原爆碑にあるように〔過ちは繰り返しません〕を、実現させるために、私もやっと心を開き素直な気持ちで当時の状況を話すようになりました。

 又、被爆当日、動員先から自宅への帰途、負傷者を見捨ててしまったエゴ、自分の家族が無傷であることだけを祈った羞恥、それがくいとなって自分の心に深く残り、その悔恨の念が定年後の地域ボランティアへと駆り立てて今日に至っています。

 

これからは残りの人生を体力の続くかぎり原爆を直接受けた私が、原爆の恐ろしさを後世に語り続け、平和な国であるように「核兵器廃絶平和都市宣言」をされた

四街道市

の実行委員の方々にお手伝いを約束いたします。

 「平和に暮らせる」を祈念して私の体験談を終わります。2008―12―21

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いのちはみな尊い。ある牧師から刺激を受けて

 いのちはみな尊い。ある牧師から刺激を受けて

キリストが言う「右の頬をぶたれたら左の頬をさし出す」と

一方キリスト教信者「正義の戦争  報復戦争  戦争準備」を叫んでいる  

「右のほほをぶたれたら左の頬をさし出せ」「汝の敵を愛せよ」と キリストは言ったとい

う。「剣をとるものは剣によって滅びる」ともいった。「滅びる」とは命が滅ぶだけでな

くアメリカの『イラク帰還兵が』明らかにしているように人間性も滅ぶのである。以下の

プログはそれを余すことなく示している。

戦争とはむごいものだとつくずく思う。

証言1> http://www.youtube.com/watch?v=vv7zg7Q06hc&feature=related

証言2> http://www.youtube.com/watch?v=q9mrdnX6r3M&feature=related 

証言3> http://www.youtube.com/watch?v=r_OFNXEYFvM&feature=related

昨12月米詩人アーサー-ビナードは私のまちでの講演で「右の頬をぶたれたら左の頬をさし出す」、というキリストの教えを誰も実践し検証していないと看破した。なるほど歴史の事実は左の頬をさしだすのではなく宗教の名で(権力者が宗教を利用して)の戦争の歴史であった。そして今も続いている。

キリスト教原理主義者を国家中枢にすえたブッシュのアメリカはイラクに侵攻し、おびた

だしい無辜の人々を殺した。十字軍になぞらえて正義の戦争とまで宣言しアメリカに味方

しないものは敵とも言ってのけた。私はテレビでブッシュがそのように語っていたのを暗

たんたる思いで聴いたものだった。

イラクは大量殺戮兵器を持っていて9.11テロのアルカイダを支援しているというふれ

こみだった。程なくそれがうそだと言うことが全世界に明らかになった。イラク侵攻後6

年目にアメリカではブッシュを批判したオバマが大統領に就任することになった。でもま

だアフガンにこだわり一層深おいしていると報道されている。アメリカがベトナム、イラ

クのような泥沼に陥り始めていると。

軍事によって何も展望は示せない時代に入ったのである。日本はどうするのか。

核の時代のいわゆる『正義の戦争』は世界を破滅に。

「キリストは決して国のためなら人の命を奪ってもよいとはいわなかった」と記したキリ

スト教信者の作家三浦綾子の言葉が浮かんでくる。軍国教師だった反省の上で人々に『徴

兵は命かけても阻むべし祖母母おみな牢にみつるとも」の短歌を紹介している。「命はみな

尊い」と言うもっとも人間的でプリムティヴな言い方でかたりつづけることによって「国

のためなら人を殺してもよい」「人を殺せば栄誉になる」と言う軍国主義の台頭に警告して

いるとみた。

私はキリスト信者ではないが 生死の深みにおいて内省し社会を見ようとしている宗

教家に敬意を持つ。最近知り合いになったばかりだが若い牧師の教示に期待したい。機会

が許されるなら又話したいと思う。

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原子力村とは

友人からの情報提供

朝日は一面トップで、再稼働問題が国民注視の的となっている大飯原発をはじめ原発14基をを抱える福井県の原子力安全専門委員会の委員4人と関西の大学教授37人が、06~10年度に関西電力とその関係団体からそれぞれ1490万円、5895万円を寄付金として受け取っていた、と報じています。

原子力安全委員会の斑目委員長や東大、京大、阪大などの多くの原子力学者も電力会社や関連団体から研究助成や寄付講座、個人寄付などの名目で巨額の原発マネーを受け取っていたことが既に明らかになっています。公務員が職務に関連して業者から金を受け取れば立派な犯罪(贈収賄)ですが、原発政策や世論形成に影響力のある国公立の大学教授が電力会社や原発メーカーから金をもらって、「安全神話」をふりまき原発推進の提灯持ちをやる、ひいては未曾有の大事故を引き起こす。これは犯罪ではないのか。
 百歩譲って「ワイロ」でないという強弁が成立するとしても、「李下に冠を正さず、瓜田に沓を入れず」と古人も言う。学問的良心と普通の市民道徳があるのなら、いかがわしい麻薬ような金とは手を切るべきだ。

インターネットで調べました。

原子力村とは「原発を推進することで互いに利益を得てきた政治家と企業、研究者の集団学者集落200300人、原子力産業の中核になる仕事に携わる人は、数千人原子力工学を学んだ学生が、教授の人脈を通じて原子力関係の仕事に就職することが常態化している

·         電力会社関係者から政治家に献金が行われる大学等の原子力技術研究機関に電力会社から献金が行われる

·         マスコミ関係者を講演会の講師として招聘し、多額の講師料を支払う挨拶代わりに研究者を原子力施設の見学ツアーに招待する施設の安全の技術指針を定めた土木学会の委員の半数が電力会社関係者である

·         核燃料輸送容器などの検査において、関連企業から多額の献金を受けた大学教授が、検査基準を国の基準よりも緩めるよう取り計らう

·         

原子力村として指摘された組織

·         東洋経済2011423日号において、「「ニッポン原子力村」相関図--至る所に東電の影響力」なる記事にて、原子力村に包含される組織の一覧を掲載した。

国及び業界団体[15]

内閣府

原子力委員会

国の原子力政策大綱を定める最大の行政機関。大学教授や東電の尾本彰顧問ら5人で構成されている。

原子力安全委員会

原子力安全・保安院が行う安全規制をダブルチェックする機関。傘下に専門審査会や部会を多数抱える。

経済産業省

原子力安全・保安院NISA

原発の安全規制を担当。しかし経済産業省の事務官僚らで構成されているため専門性は低い。

資源エネルギー庁

インフラ政策の推進を担う経産省の外局。石田徹元長官など東電の天下りが常態化している。

原子力安全基盤機構JNES

原発の検査業務などを行う。役員は経産省の役人、大学教授ら。

総合資源エネルギー調査会

経済産業大臣の諮問機関。分科会の原子力安全・保安部会の委員には東電副社長など。

原子力部会

委員には東電常務、関電社長など業界関係者多数

文部科学省

日本原子力研究開発機構JAEA

国内有数の原子力研究機関で職員数約4000人。20109月まで東電の早瀬佑一元副社長が副理事長。2005日本原子力研究所核燃料サイクル開発機構が統合。

業界団体

日本原子力技術協会JANTI

民間の自主規制機関。電力9社やメーカーが会員。

日本原子力産業協会JAIF

理事に東電の木村副社長

国際原子力開発JINED

原子力設備のインフラ輸出を目指す目的に設立。社長は東電の武黒一郎フェロー

日本原燃

ウランの濃縮、使用済み核燃料の再処理を手がける。歴代の会長は東電社長が務めている

電気事業連合会(電事連)

歴代の会長は東電社長らが務めている。

電力中央研究所

業界研究機関。評議員に東電社長。

·         太字は東京電力関係者が関与する機関

民間の原発企業

電力会社

電力9社(北海道電力東北電力東京電力中部電力北陸電力関西電力中国電力四国電力九州電力

主契約者

東芝日立製作所三菱重工業

土建

竹中工務店大林組鹿島熊谷組五洋建設清水建設大成建設西松建設前田建設工業奥村組ハザマなど

プラント工事

東芝プラントシステム太平電業日立プラントテクノロジー

素材

神戸製鋼所JFEスチール新日本製鐵住友金属工業日立金属

ウラン権益

海外ウラン資源開発出光興産住友商事丸紅三菱商事など

原子炉、タービン、ポンプなど

IHI川崎重工業など

発電機

三菱電機など

燃料

グローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン原子燃料工業三菱原子燃料

その他

イトーキ(特殊扉)、岡村製作所(特殊扉)、岡野バルブ製造(バルブ)、電気化学工業(硼素)、日本製鉄所(発電機や加圧器の部材)、オルガノ(水処理施設)、木村化工機(輸送機器)、イーグル工業(特殊バルブ)、新日本空調(空調)、助川電気工業(模擬燃料集合体)、東亜バルブエンジニアリング(バルブ)、アトックス(原発保守管理)など

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大江健三郎氏とルモンドとの対談を 再度紹介します。

初めに

   翻訳者から以下のメールが知人に届いています

・・・大江氏とルモンドとの間に行われた対談・・・この対談の要趣は昨年の「世界」5月号に掲載されましたが、全文を和訳すべきではないか、と思い、ルモンド紙編集部から正式に許可を得ましたので、ここにフランス語からの全文をお届けします。記事の題は「対談:ノーベル文学賞受賞者、日本の良心を代表する作家は死者の記憶を裏切ってはならないこと、人間の尊厳を尊ばなければならないことを訴えています。大江健三郎『われらは犠牲者たちに見つめられている』」でした。

このメールは私の恩人、友人、また日本人による反原発のネットワークを介して広く配布してもよい、との許可をルモンド紙から戴いています。皆さんを通してこのメール、添付が更に広く行き渡ることを希望します。

                         村岡崇光

「われわれは犠牲者たちに見つめられている」

『先生のご意見では、日本の現代史において今度の災害がもつ意義はどこにあるでしょうか?』

過去数日間、日本の新聞はこの災害のことしか書いていません.全くの偶然なのですが、私が地震の前日に書いたものが3月15日の日刊紙「朝日新聞」の夕刊に掲載されました.その記事の中で、私は私と同世代のまぐろ漁船の船員で太平洋のビキニ環礁で行われていた米合衆国による水爆実験に巻き込まれて放射線を浴びた人の一生に触れました.私がこの人と会った時、私は18歳でした.彼はその後の生涯を核兵器の抑止効果という神話の虚構とその神話を歌い上げる人たちの傲慢さとの戦いに捧げました.この漁夫のことをまさしく今回の地震前夜に私が回想したというのは虫の知らせだったのでしょうか?彼は原子力発電所に対しても戦い、それが内包する危険を指摘しました.

わたしは、もうかなり前から三つのグループの人たちに焦点を合わせながら日本現代史をあとづけてみたいという企画を温めてきました.その3グループとは広島、長崎原爆の死者たち、ビキニの放射能被爆者たち..先ほど申しました漁夫はその生存者の一人でした―そして核施設での爆発事故の犠牲者たちです.この死者たち、核エネルギーの犠牲者たちに視点をあわせながら日本現代史を考察して行くと、彼らが巻き込まれた悲劇の実態が何であったかが見えてきます.

今私たちは、原子力発電所の抱える危険が現実となったことを知っています.今回の災害の実態を把握しようという私たちの努力がどういう形で決着するにしても、このような事故を阻止するために人間として可能な限りの努力が傾けられていることに敬意を表するにやぶさかではありませんが、この災害が何を意味するかについては一切の疑義を挟む余地はありません.

日本の歴史は新しい段階を迎えた、ということであり、私たちは苦しみの中にあって大きな勇気を示してくださった男女、核エネルギーの犠牲者たちの眼差しをまたもや受けている、ということです.今回の災害からどういう結論を引き出すことができるかは、これから生き続けて行くことを許されている私たちが同じ過ちを繰り返してはならないという決意の固さにかかっています.

『今回の災害は、絶えず地震の危険に曝されている日本と核エネルギーの内包する危険という二つの現象を極めて劇的な仕方で同時に示しています.前者は歴史開闢以来日本が向き合って来ざるを得なかった現実であり、後者は地震や津波よりも厳しい被害をもたらす危険をはらんでいますが、それは究極的には人災です.日本は広島の悲劇から何を学んだのでしょうか?』

私たちが広島の悲劇から学ばなければならない最も大事なことはあのとき即死した男女、生き延びはしてもその後何年にもわたって心身両面の苦痛に耐えなければならなかった人々の人間としての尊厳です.私の著作の中のいくつかでこのことを明らかにしよう、としたつもりです.

原爆の火を浴びた日本人は核エネルギーのことを生産性というような点から考えてはいけなかったのです、広島の悲劇的体験の中に経済成長のためのレシピーを求めてはならなかったのです.地震、津波、またその他の天災の場合と同じように、広島の体験を人類の歴史のなかにしかと刻むべきなのです.これは人間自身が作り出した災害ですから、天災よりは遥かに劇的な災害です.人間の命の尊さを無視し、原子力発電所を操り、かつてと同じ誤りを繰り返す、ということはすでに他界された広島、長崎の犠牲者たちに対する最悪の裏切り行為に他なりません.

先に言及しましたビキニのマグロ漁船の乗り組み員は原子力発電所廃絶を要求してやみませんでした.現代日本の最大の思想家のひとりである加藤周一(1919.2008)は原爆と、人間が抑制できなくなってしまった原子力発電所のことに触れながら、今を去る1000年以上前に書かれた清少納言の「枕草子」の一節を引用しています.著者は、遥か遠くにあるように見えて、同時に極めて身近なことについて語っています.核の悲劇は想定外の、遥か彼方の可能性にしか思えないかもしれませんが、しかし絶えず私たちの近くにあるのです.が日本政府に明確な政策決定を要求しています.日本が決定を先送りできた贅沢な時代は最早過去のものとなりました.

『敗戦から60年、日本はあの時誓った決意、つまり憲法に謳われた平和主義、武

力放棄、非核三原則を忘れたかに見えます.今回の災害は批判的な良心の覚醒を促す、とお考えになりますか?』

敗戦時、私は10歳でした.一年後、新憲法が公布され、時を同じくして教育基本法が制定され、憲法の基本線が子供でも理解できるような形で書かれていました.敗戦に続く10年間、武力に訴えることを放棄するという一項をも含む平和憲法、さらに非核三原則(核兵器をもたず、つくらず、持ち込ませず)が戦後日本の基本的理念をほんとうに表現したものであろうか、ということを絶えず自らに問い続けました.当時青年であった私がこの点について何らかの疑いを抱いていたら、当然のこととして大人たちはこの問いを自らに対して発していなければならなかったはずです.

現実には、日本はなし崩し的に再軍備し、米国との秘密協定によって核兵器が日本

列島に持ち込まれ、公式にお墨付きをもらっていた非核三原則は事実上空文句となりました.だからといって戦後世代の理想が放棄された、ということにはなりません.日本人は戦争中の苦しみ、原爆のことをなおも記憶にとどめていました.私たちを見つめていた死者たちは私たちが上記のような理想を尊重し続けることを要求しました.広島、長崎の犠牲者の記憶は政治の現実を楯にとって核兵器の有害性を過小評価することを許しませんでした.私たちはそのような現実主義には反対します.と同時に事実上の再軍備、米国との軍事協定を許容したのです.ここに今日の日本の曖昧さがすべからくさらけ出されています.

年が経つにつれて、平和憲法、再軍備、米国との軍事協定の混在から生まれるところのこの曖昧さはいよいよ強固なものにならざるを得ませんでした.敗戦時の平和主義の誓いに私たちは実質的な内容を織り込まなかったからです.アメリカの核抑止力の有効性を信頼しきった日本人は、アメリカの核の傘の下に安住する日本の態度の曖昧さをその外交政策の基軸にまで押し上げたのです.アメリカの核抑止力に対する安心感は超党派的な性格を帯びることとなり、2010年8月、広島被爆者追悼のとき、ときの民主党総理鳩山由紀夫が、米国代表が核兵器の危険性を指摘したにも拘らず取った態度に明白でありました.

福島原発事故を通して日本人が広島、長崎の犠牲者たちの気持ちを汲み取り、核の

危険を再認識するようになることを願わざるを得ません.われわれはこの危険を再び新たに体験したのであり、核兵器を所有する大国が唱えるところのその抑止力の有効性という神話を永遠に葬りたいものです.

『先生は1994年のノーベル文学賞受賞講演に「曖昧な国日本から来た私」という題を付けられましたが、「曖昧な日本」という表現は今でも妥当するでしょうか?』

私があのとき指摘した日本の曖昧さは現在日本で起こっていることによっていよいよはっきりしてきました.現時点において、その曖昧な日本が固守すべき価値観は完全な行き詰まり状態に陥っています.曖昧さの反対は明確さです.

1994年に私が曖昧な日本について語った頃は、私の祖国は選択や明確な政策決定をまだ引き延ばすことのできる、つまり曖昧さの中に安住するという贅沢を享受できるありがたい時代でした.日本は、決済日の指定されていないこういう状態が他の国々からも受け入れてもらえるものと考えていました.それがために、自らの歴史を認めることもせず、今日の世界における責任をとることもしませんでした.

政治の面におけるこの不明確さを許容出来ると考え、経済分野においても同じ姿勢を取り、最終的にどこへ行き着くかが分からなくてもかまわないような政策を採用し、その結果が90年代初頭のバブル経済の破綻ということになったのです.

今や日本は態度決定を迫られています.中国からも、アジアの他地域に対して責任をとるようにプレッシャーがかかっています.日本列島の中で米軍の基地が最も集中している沖縄の住民たちも彼らの領域に駐留している米軍の存在に関して日本政府が明確な方針を打ち出すことを期待しています.米軍基地としての沖縄というこの状況は日本人のみならず、米国人にとっても最早受け入れがたいものです.いまこそこの基地の役割を明確に規定し直すべき時です.選択に融通性をもたせておくことは最早許されません.沖縄戦の犠牲者たちが日本政府に明確な政策決定を要求しています.日本が決定を先送りできた贅沢な時代は最早過去のものとなりました.

『先生の作品の一つである「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」という題にど

う答えるべきか、と問われたら、いまどういう回答をなさいますか?』

私があの作品を書いた時、私は、世間でいうところの成熟した年齢に達していました.現在の私は人生の第三段階に入っており、「最後の小説」を執筆中です.もし私が現在のこの狂気をうまく生き延びることができたら、その作品はダンテの「神曲」の中の地獄篇の最後の一節の引用をもって書き出すつもりです.そこには「それから、われわれは外に出て星を眺めよう」というようなことが書いてあります.

ルモンド紙東京特派員:

PHILIPPE PONS

訳:村岡崇光

オランダ、ライデン大学名誉教授

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ある牧師のメールから  被災地で、「分けると増えるってほんとだなぁ」

「分けると増えるってほんとだなぁ」

ある牧師のメールから

・・・・・帰りの車のなかでぼんやり考えていたのは、「分けると増えるってほんとだなぁ」ということでした。あちらでは本当にカセットコンロのガスボンベが貴重です。10倍以上の価値があるといっても過言ではありません。その価値とは「値段」ではなく、ガスボンベ1本あることが「希望」であり「喜び」なのです。被災していない家にある三本のボンベはそのままではたんなる三本ですが、そのうち一本でもわけると、「希望」や「喜び」が、困難の中にある人たちの中に、そして私たちの中に、確かに生まれるのです。・・・

(阪神大震災時   茂原で分けていただいた天然ガス用ガスガマ50台を仲間たちが手分けして担いで新幹線で運び 神戸市内の公園でテント生活の被災者に分けたときのことが思い出され、なるほどと思った。寒い中ホカホカのご飯が作られた。ガスガマは多くの人からのカンパだった。単なるお金ではありえなかった

N牧師さんが救援に入った陸奥仙台は私の故郷。被災を受けた多くの友人・親戚・知り合いの顔を浮かべながら読みました。ありがとうございました。)

その4 団地と 里山(山梨)の木々  朝の散歩

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里山賛歌  その3  この花あの花  ・この樹皮 

Sdsc00069 ヤドリギ 

  里山賛歌  その3  この花あの花  ・この樹肌

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その2   里山散歩  45分 田んぼに花に落花生、新鮮

Sdsc00132    里山散歩 その2  45分 田んぼに花に落花生、新鮮野菜・遠くの光景  すべてよし

Sdsc00126 おいしそうSdsc00143

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をたれて・・・

Sdsc00137 腰痛い人の園芸。

Sdsc00131 右方向へ成田への特急列車

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     ラジオ体操2年目  朝散歩その1 好 里山里地

 Sdsc00110 朝散歩その1 好 里山里地

ポスター2枚  左私も入っているホタル愛好会 右連れに頼まれ作ったポスター

Sdsc00077 2006年 自治会役員時 公園リニューアル推進委員の第4幼稚公園にてラジオ体操 15人~

Sdsc00085 6時45分頃  里地へおしゃべり散歩

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故郷 があって私が在る 3年前に書いたものから

故郷 があって私が在る  (3年前に書いたもの)

   

育ったところに行ってきた。病院で病に臥す人としぜんに幼いときの話になった。(注)。生家の隣の人の消息やまわりの町名や街並みの話がでてきた。町名では城下町仙台に特有な定禅寺 花京院通り 鉄砲町 二十人町 車通り 遣水町 空掘町 新寺小路に寺小路 霊橋と評定河原 などなど次々に出てきた。久しく忘れていた様々なシーンが浮かび上がってきた。全てがなつかしい名前であった。色々な仲間と遊び行きかいしたところだった。

しかしそれらの地名は数十年後の今では殆どなくなり、「番号町名」になってしまった。町並みもすでに変わり果てた。何か大事なものをうしなったような気分に襲われた。

このような感慨は誰にもあることであろう。年寄の単なる感傷でないことを意識させたのは「題名 ニ人称の死 浅見洋著」の書物だった。 人は誰だって親しい人、愛する人の死に遭遇するほどつらいものはない。それは、生前にその人と〝私〟いいかえれば〝あなた〟と〝わたし〟の親しい関係、対話があってのことだ。でも見知らぬひとのそれはどうだろうか、なんとなく他人事となってしまう。著者は人間の尊厳への思索を「二人称の死」へのむきあいから始まったとして鈴木大拙を解説する。

そこで私は「人」を「ふるさと」におきかえてみた。

私の故郷など他人にとっては何の変哲もないただの地域であろう。が私にとってはかけがえないものでとにかく懐かしい。私は故郷を出てから45年。青、壮年期はたまにしか省みる事はなかった。私と同世代の多くの人たち(つまり経済の高度成長時を経験した世代)も故郷をたまにしか省みなかったのではないか。「故郷」に含意される意味を疎んじまった。結果として人間が手段化し生活が目的にはならない面白味のない日本社会作りに加担してしまったともいえる。今社会から様々な社会的病理現象 格差 排除社会の事実をつきつけられている。 私はその背景に「ふるさと」と「景観」を喪失させた列島[開発]があると思えてならない。よるべき心のふるさとを奪い浮遊させてしまっている。生活から心を取ったら荒廃がまっている。そんな中先行き不安から強い政治権力を望む風潮すらみられる。

故郷・自然 街並み 景観  そして近隣 の人々  何よりも子供たち との「親しい関係」を作ることを阻む長時間労働 雇用形態を根本的に変えること抜きに活路はみいだせないであろう。 まず私自身のこれまでの立居振る舞いも問われることになる。周りとの親しい関係 「 貴方がいて私がいる」に加えて「故郷」も 「地元の自然」も  「近所」のひとも 「医者」も 「福祉」もみんな「二人称の関係―あなた的関係」になるようにすることであろう。そうかんがえると 先達が沢山おられることにきずく。自分の持ち場で、脚下ではじめているひとたちである。

さて5年前ひょんなことで自転車事故に遭ってしまったるくる、めまいから数ヶ月ぶりにやっと解放された。命拾いをした。鈴木大拙の言葉に「息を吸うのも快楽なり」がある。ベッドにいたときも感じた。息を吸う時の気持ち良さにはたまらないものがある。 前掲の本(

ニ人称の死 浅見洋著)で呼吸は大変な意味を持つ言葉だと知った。人生の「肯定も肯定」,大肯定を意味している。なるほど「息を吸い、息を吐くことは私を取り巻く環境と共生していることを端的に示しているという。その意味で私も生物的生命なのである。環境倫理としても重要視されるテーマであろう。同時に呼吸は「再生」そのものであり、社会(歴史的社会)を場として生きる創造的な「つくりつくられていく」個である、ともいう。こう理解すると歴史的社会の中で、生のリレーランナーとして、喜びを持っての「使命」に生きることができるということになる。「昔があって今がある」「未来があって今がある」〝いま〟〝ここ〟に生きる意味もうかびあがってくるというもの。歴史的社会的生命観においてはじめて成立する考え方なのだ。私の読みが浅いとしても素直に理解できたのは事故に遭ったおかげかもしれない。でも自転車事故にはきをつけよう。

(後記注 この文を記した1年後その人は3・11の大震災で津波にのまれ10日後遺体で発見された。兄であった。陸奥のなじんだところはしんぎんしていた・亡兄とは改めて対話したくてはならないだろう)

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