«   ギヤチェェンジ | トップページ | サハリンにて   ロシアと朝鮮の方との出会い »

我が家の猫の額の庭に先祖が被ばくハマユウの見事な花が咲いた。

Untitled

Photo

私に被爆ハマユウを分けてくれた

ルポルタージュ作家の友人西村一朗氏は   次のように記しています

爆心地から東へ約2kmの地点に、市街地を見下ろす高さ70mの小さな比治山がある。当時この一帯には、陸軍船舶砲兵団(通称は暁部隊)の一部の隊員1500名が駐屯し、木造や横穴の兵舎でくらしていた。その1人が兵長の尾島良平さんである。

神奈川の農家出身で隊員の食事を担当していた尾島さんは、ある日のこと食材の買出しにでかけたとき、広島市の西にある己斐(こい)町で農業を営む橋本一太さんから、めずらしいハマユウの株を譲り受けた。戦時下における食糧増産のため花の栽培を禁止された橋本さんは、誰かハマユウを育ててほしいと願っていた。兵舎の庭であれば誰も文句は言わないだろうと尾島さんは思い、比治山の暁部隊へと運び、日当たりの良い場所を選んで植え、水をあげたりしてその成長を楽しんでいた。なおこのハマユウは、日本で自生している花びらが細く裂けたものでなく、ユリのように花びらが円錐になったインド・ハマユウである。花も栽培していた橋本さんが、宮崎県で手に入れたとのことであった。

この比治山も原爆の直撃を受けた。買出しに出かける直前の尾島さんは、吹き飛ばされて気絶し、胸の骨を3本折った。しかし、偶然にも兵舎の反対側にいたため幸いなことに火傷はせず命に別状はなかった。それでも何人もの戦友が原爆で重症を負い、またはうめきつつ死んでいった。兵舎は跡形もなく崩れ、何本ものまわりの大木が折れ、葉をなくして立ち枯れのようになった沢山の木々が続き、その根元では羽根をなくした小鳥たちがピョンピョンとのた打ち回っていた。

戦争が終わり尾島さんは、医薬品や医師も足りない中で療養し、胸の骨折をやっとのことで治した。どうにか元気になったその年の11月に、線香を持って比治山を訪ね、崩れた兵舎の前で亡き戦友たちを偲びつつ手をしっかりと合わせた。ふと横を見ると、瓦礫の間から細長い緑の葉が出ていた。瞬間にハマユウとわかった。原爆でハマユウも焼き尽くされたものと尾島さんは思っていたが、新しい葉を必死に伸ばして生きていた。さっそく素手で瓦礫を取り除き、土の中からやっと球根を掘り出した尾島さんは、背中のリュックサックに入れて実家の鎌倉へと持ち帰った。

庭にハマユウを植えて水を与えると、だんだんと元気になっていく。やがて1mほどの高さの茎へ、被爆の前のように初夏には白い花を咲かせるようになった。同時に株の周囲に新しい芽がいくつも出てきて、数年たつと尾島さんの家の庭には、ハマユウが沢山咲くようになった。

あるとき尾島さんは、この被爆したハマユウを「破魔勇」と書いた。原爆にも負けないこのハマユウは、恐ろしい悪魔をも打ち破るほどの勇ましいパワーを持っていると賞賛したのである。そして純白の花を咲かせ甘い香りの被爆ハマユウを、核兵器の脅威がこの世からなくなるまで、反核・平和のシンボルとして世の中に広げようと決意した。

知り合いの被爆者が亡くなると、墓前に被爆ハマユウを持参して植えた。さらには広島の平和公園、神奈川県にある大船観音の被爆慰霊碑、ビキニの水爆実験による死の灰を浴びた第五福竜丸などの地にも運び、尾島さんは平和への願いを込めて黙々と植えてきた。

1979年に尾島さんが69歳で残念ながら亡くなった後は、長男の真次さんが被爆ハマユウをしっかり守り育ててきた。そうした尾島良平さんの手伝いをするため、1995年に設立した被爆ハマユウ・クラブが、反核・平和のため被爆ハマユウのさらなる普及に努めている。

なお同クラブは、被爆ハマユウを普及する任意の団体で会則や会費もない。各地に届けた被爆ハマユウの球根のまわりには、数年で複数の小さな球根ができてくる。そうして子どもや孫や曾孫の球根がさらに各地へと広がり、平和な社会づくりを考える1つのきっかけになることを願っている。

最近では2009年9月に私は、韓国の被爆者を訪ねて被爆ハマユウ8本を寄贈してきた。3度目になる今回も、「韓国の広島」と称されるハプチョンを訪ね、原爆福祉会館の庭に被爆ハマユウを館長さんたちと一緒に植えて、被爆された方たちと親しく交流もした。そのとき会った韓国原爆被害者協会ハプチョン支部の沈(シム)支部長の話によれば、3万坪という壮大な世界平和公園の構想があるとのことであった。そこでは「広島や長崎や沖縄のように、悲惨さを表面的な形や死者の数などで表現するだけでなく、なぜ原爆を使うことになったのかとか、戦争の原因をも明らかにしたい」と言っていたので感激した。「世界平和公園ができれば、そこにも被爆ハマユウをぜひ寄贈します」と約束して別れた。ますます楽しみが広がる。

  現在

公的な場所としては、下記の国内や国外に被爆ハマユウは広がっている。なお国内の①から④までに尾島さん親子や賛同者が、それ以外は被爆ハマユウ・クラブとして私が運んで植えさせてもらってきた。

国内

    広島平和記念公園:広島平和記念資料館東館のすぐ前の花壇

    東京都上野公園内の東照宮境内:広島と長崎の原爆の火を灯すモニュメントの横

    神奈川県の大船観音境内:被爆の慰霊碑の近く

    東京都立第五福竜丸展示館:水爆の恐ろしさを刻み込んだ第五福竜丸展示館の横

    東京大空襲・戦災資料センター:空襲で焼け野原となった地に建つセンター

    沖縄伊江島の「命宝(ぬちどうたから)の家」:反戦平和の資料館

    福岡県星野村の故山本達雄さん宅:広島から原爆の火を運び燃やし続けた方。

    埼玉県さいたまコープ南浦和プラザ:平和委員会

    長崎県ララコープ:平和委員会

    埼玉県 原爆の図丸木美術館の庭

    広島 YMCA2号館前の花壇

    広島 被爆ピアノを所有している矢川光則さんの工房

    東京マイコープ 平和委員会

    コープこうべ協同学園

    福岡県 エフコープ

    沖縄辺野古基地反対テント

海外

    韓国:原爆被害者協会本部と他の6つの支部、奉仕団体太陽(テヤン)会本部と各支部、ナヌムの家、ナザレ園

    台湾:台北市の2.28公園

    マーシャル諸島:被爆者団体ARUB

    スリランカ:津波の被災地にあるゴール市の小学校、マータラ市のお寺にある仮設住宅

    ベトナム:ハノイ市の医療生協

    ネパール:カトマンズ郊外の貧しい小学校

  これから   中略

日本で被爆した人は、現在世界の20カ国にも分散している。そこで当面は以下の国に届けるために、関係する方たちと協議をしたいと考えている。

    ブラジル:約300名の被爆者がいる。

    アメリカ合州国:約200名の被爆者がいる。

    カンボジア:地雷によって子どもを含めた死傷者が今も続いている。

 生命力の強い被爆ハマユウは、肥料をあげる必要もなく、太陽と雨水があれば育てることができる。その美しい花に触れ、ぜひ戦争や核兵器の悲惨さを知り、同時になぜ戦争がおき、もしくは核兵器を使用する原因にまで思いをめぐらして欲しい。戦争の根本を断ち切らなければ、いずれ形を変えて新たな惨禍が襲ってくることは、日本を含め世界中の歴史が示している。

ともあれ私はこれからも、平和・反核を志す各地の団体などに被爆ハマユウを届けるつもりである。

ハマユウは  

浜木綿とも書くヒガンバナ科の常緑多年草で、日本では関東以西の暖地の海岸に自生している。初夏に咲く花は、白とピンクの2種類がある。日本に自生するハマユウは、花びらが細く裂け、和歌では重なりや乱れる男女の心などの形容に用いた。別名ハマオモト(浜万年青)とも言うが、被爆ハマユウは日本のものとは別の種類のインド・ハマユウである。

|

«   ギヤチェェンジ | トップページ | サハリンにて   ロシアと朝鮮の方との出会い »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: :

«   ギヤチェェンジ | トップページ | サハリンにて   ロシアと朝鮮の方との出会い »