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私の 原爆体験 ヒロシマそして今   再掲

私の 原爆体験 ヒロシマそして今  

                        藤川浩司(四街道在住)

 

世界で始めての原爆投下から63年が過ぎました。

 私は当時17歳、学徒動員で市内の軍需工場で朝鮮からの徴用工たちと一緒に働いていました。 8月6日の朝も8時からの仕事始めで待機中7時半ごろ警戒警報が鳴り8時ごろ解除になり、職場に戻ってまもなく「ドカーン」と大音響と共に鉄骨建築物の屋根や壁が吹き飛ばされました。

恐る恐る空を見上げると巨大な入道雲(キノコ雲)が空高く昇っていました。そのうちにその雲が真っ赤に染まって見えました。市内全域の火災に依るものだと思われました。 再爆撃もなさそうなので、工場外でみんなで情報交換をいたしました。誰からともなくみんなで「ガスタンクの爆発だろう」とか「太陽の爆発」とかまた「B29が落ちて爆発」などなど・・・

 これまでの新聞紙上やラジオによる爆撃の惨状の報道にもなかった新しい惨劇でした。暫くたった時に学校の担当教官から「新型爆撃により,

広島市

内は全滅の模様、工場勤務は中止とするので各自自宅に帰るように指示がありました。

工場から眺めた市内の建物は全壊・全焼・帰宅するにも道路は通行できず、川沿いに歩くよう指示がありました。自宅まで焼く2km弱です。川に沿って歩き始めましたが、市内に入った途端に男性・女性の区別もつかない、衣類は焼け皮膚も焼け爛れて皮がぶら下がっている姿、まさしく幽霊の行列と出会いました。

「水をくれ」水をくれ」「痛いよう、痛いよう」「病院へ連れて行ってくれ」「お医者さんを呼んでくれ」・・・・と「阿鼻叫喚」とはまさしくこの状況だと思いました。自分の頭の中は自宅にいる父、母、妹のことが心配で、助けを求める皆さんには「ごめんなさい」「ごめんなさい」と謝りながら自宅に戻りました。通常なら30分で帰りつく筈なのに、道のない道を歩いて約2時間でやっと自宅にたどり着きました。瓦礫の中から自宅を探すのは大変でしたが、幸いにも妹は倒れた家の下敷きになりながら自力で這い出ていました。父親も同様でしたが妹と二人で何とか引っ張り出しました。

「お母ちゃんがいない」 聞きましたら警戒警報が解除になったので洗濯物を持って2階に上がったとのことでした。慌てて付近を捜したところ、帰宅途中で出会った人々と同様の状態で吹き飛ばされていました。近所の病院も警察も学校も全壊、全滅で思案に呉れていましたら、軍人さんが数名見えて手伝うからここを出て知人宅に行くように指示されました。(後から知ったことですが、この軍人さんは佐倉連隊千葉出身の方でした。現在存命かどうかわかりません)。やむなく焼け残った戸板にぐったりした母親をのせて知人宅に運び、廊下で雨露をしのぎ介抱をいたしました。

翌朝35歳の若さで息を引き取りました。それから近くの川の土手に一人で穴を掘り、荼毘に付しました。どれほどの時間が経ったかわかりませんが、夕刻には遺骨を持って自宅に帰りました。

 当時父は町内会長をしておりましたので、町内から外へは出られませんでしたので、焼け残った材木、トタン等でバッラクを建て住むようになりました。救援物資の食料、飲料、衣類等を頂きました。被爆の翌日に叔母、従弟妹たちが近郊から“おにぎり”や“惣菜”を持って見舞いに来てくれたことは未だに嬉しく記憶に残っています。そのとき訪ねてくれた従弟が今日の四街道の催しについて趣意書を最初に広島平和祈念資料館への届けてくれたのも何かの因縁だと思います。彼は入市による被爆者手帳の申請をしましたが、彼の母親が申請をしていないこと、また何故今になっての申請の理由が不明とのことで却下されました。昨今「原爆症認定訴訟」の報道がなされていますが、政府は第二次世界大戦では原爆だけが救済の対象ではないとの認識だと思います。 私は昭和23年まで広島に住み、後は東京・埼玉・千葉と61年に亘り関東に住んでいます。

 私は77歳まで、頑なに被爆の話題は避けてまいりました。千葉県原爆被爆者友愛会に一昨年入会し、一昨年入会した千葉県原爆被爆者友愛会の人たちが、先立ちの被爆死者の無念と尊厳を思い、再び被爆者を作らせない、と核兵器廃絶を願い、核兵器の魔性に満ちた非人間的兵器を告発し続けている姿に接し、ヒロシマの原爆碑にあるように〔過ちは繰り返しません〕を、実現させるために、私もやっと心を開き素直な気持ちで当時の状況を話すようになりました。

 又、被爆当日、動員先から自宅への帰途、負傷者を見捨ててしまったエゴ、自分の家族が無傷であることだけを祈った羞恥、それがくいとなって自分の心に深く残り、その悔恨の念が定年後の地域ボランティアへと駆り立てて今日に至っています。

 

これからは残りの人生を体力の続くかぎり原爆を直接受けた私が、原爆の恐ろしさを後世に語り続け、平和な国であるように「核兵器廃絶平和都市宣言」をされた

四街道市

の実行委員の方々にお手伝いを約束いたします。

 「平和に暮らせる」を祈念して私の体験談を終わります。2008―12―21

S226_001

 

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