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2012年4月

チューリップ 佐倉   快晴   あでやか

佐倉の病院の帰り、チュウリップ祭りに久しぶりに行ってみた。その規模・はなやぎ・あでやかさ・人々のはづんだおつあべいり・いい顔・我が家のチュウリップもいま盛りだが、趣は別

まずはご覧を。映りが悪いのは写真機のせい。としておこう

S4_018 おっとこれは我が家。ちゅにっぷの語源はチュウリバ(ターバン)だそうだ、。マホメット教徒が頭にまく気品のあるターバンに似ているからという。と本に出てい

た。

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写真を撮っていただけませんか、というっ流暢な日本語の鑑賞者にであった。聞くと千葉大などに留学している学生達、

ベトタムのハノイ・フエ・ホーチミン市など・かって私が仕事で行ったところだ・しばし話に花が咲いた。佐倉の祭りは国際化?。

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私の 原爆体験 ヒロシマそして今   再掲

私の 原爆体験 ヒロシマそして今  

                        藤川浩司(四街道在住)

 

世界で始めての原爆投下から63年が過ぎました。

 私は当時17歳、学徒動員で市内の軍需工場で朝鮮からの徴用工たちと一緒に働いていました。 8月6日の朝も8時からの仕事始めで待機中7時半ごろ警戒警報が鳴り8時ごろ解除になり、職場に戻ってまもなく「ドカーン」と大音響と共に鉄骨建築物の屋根や壁が吹き飛ばされました。

恐る恐る空を見上げると巨大な入道雲(キノコ雲)が空高く昇っていました。そのうちにその雲が真っ赤に染まって見えました。市内全域の火災に依るものだと思われました。 再爆撃もなさそうなので、工場外でみんなで情報交換をいたしました。誰からともなくみんなで「ガスタンクの爆発だろう」とか「太陽の爆発」とかまた「B29が落ちて爆発」などなど・・・

 これまでの新聞紙上やラジオによる爆撃の惨状の報道にもなかった新しい惨劇でした。暫くたった時に学校の担当教官から「新型爆撃により,

広島市

内は全滅の模様、工場勤務は中止とするので各自自宅に帰るように指示がありました。

工場から眺めた市内の建物は全壊・全焼・帰宅するにも道路は通行できず、川沿いに歩くよう指示がありました。自宅まで焼く2km弱です。川に沿って歩き始めましたが、市内に入った途端に男性・女性の区別もつかない、衣類は焼け皮膚も焼け爛れて皮がぶら下がっている姿、まさしく幽霊の行列と出会いました。

「水をくれ」水をくれ」「痛いよう、痛いよう」「病院へ連れて行ってくれ」「お医者さんを呼んでくれ」・・・・と「阿鼻叫喚」とはまさしくこの状況だと思いました。自分の頭の中は自宅にいる父、母、妹のことが心配で、助けを求める皆さんには「ごめんなさい」「ごめんなさい」と謝りながら自宅に戻りました。通常なら30分で帰りつく筈なのに、道のない道を歩いて約2時間でやっと自宅にたどり着きました。瓦礫の中から自宅を探すのは大変でしたが、幸いにも妹は倒れた家の下敷きになりながら自力で這い出ていました。父親も同様でしたが妹と二人で何とか引っ張り出しました。

「お母ちゃんがいない」 聞きましたら警戒警報が解除になったので洗濯物を持って2階に上がったとのことでした。慌てて付近を捜したところ、帰宅途中で出会った人々と同様の状態で吹き飛ばされていました。近所の病院も警察も学校も全壊、全滅で思案に呉れていましたら、軍人さんが数名見えて手伝うからここを出て知人宅に行くように指示されました。(後から知ったことですが、この軍人さんは佐倉連隊千葉出身の方でした。現在存命かどうかわかりません)。やむなく焼け残った戸板にぐったりした母親をのせて知人宅に運び、廊下で雨露をしのぎ介抱をいたしました。

翌朝35歳の若さで息を引き取りました。それから近くの川の土手に一人で穴を掘り、荼毘に付しました。どれほどの時間が経ったかわかりませんが、夕刻には遺骨を持って自宅に帰りました。

 当時父は町内会長をしておりましたので、町内から外へは出られませんでしたので、焼け残った材木、トタン等でバッラクを建て住むようになりました。救援物資の食料、飲料、衣類等を頂きました。被爆の翌日に叔母、従弟妹たちが近郊から“おにぎり”や“惣菜”を持って見舞いに来てくれたことは未だに嬉しく記憶に残っています。そのとき訪ねてくれた従弟が今日の四街道の催しについて趣意書を最初に広島平和祈念資料館への届けてくれたのも何かの因縁だと思います。彼は入市による被爆者手帳の申請をしましたが、彼の母親が申請をしていないこと、また何故今になっての申請の理由が不明とのことで却下されました。昨今「原爆症認定訴訟」の報道がなされていますが、政府は第二次世界大戦では原爆だけが救済の対象ではないとの認識だと思います。 私は昭和23年まで広島に住み、後は東京・埼玉・千葉と61年に亘り関東に住んでいます。

 私は77歳まで、頑なに被爆の話題は避けてまいりました。千葉県原爆被爆者友愛会に一昨年入会し、一昨年入会した千葉県原爆被爆者友愛会の人たちが、先立ちの被爆死者の無念と尊厳を思い、再び被爆者を作らせない、と核兵器廃絶を願い、核兵器の魔性に満ちた非人間的兵器を告発し続けている姿に接し、ヒロシマの原爆碑にあるように〔過ちは繰り返しません〕を、実現させるために、私もやっと心を開き素直な気持ちで当時の状況を話すようになりました。

 又、被爆当日、動員先から自宅への帰途、負傷者を見捨ててしまったエゴ、自分の家族が無傷であることだけを祈った羞恥、それがくいとなって自分の心に深く残り、その悔恨の念が定年後の地域ボランティアへと駆り立てて今日に至っています。

 

これからは残りの人生を体力の続くかぎり原爆を直接受けた私が、原爆の恐ろしさを後世に語り続け、平和な国であるように「核兵器廃絶平和都市宣言」をされた

四街道市

の実行委員の方々にお手伝いを約束いたします。

 「平和に暮らせる」を祈念して私の体験談を終わります。2008―12―21

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大正うまれは何故元気?

S2011_7_102日  

 5人の仕事などの先輩に 見舞い、と安否の確認のため連絡を取った。

〇85歳の高橋さん。栃木

   元気ですか?(40代から55まで仕事を一緒したが、その時はやや病弱だった。)。

 いやーますます元気だ。

秘訣は?・・・・・

          食欲あるしかぜもひかなくなった。それに毎日散歩は欠かさない

他には・・・・・・

          本がなくては生きられない。5冊を並行して読んでいる

          歴史ものだ

今読んでいる著者は・・・・・・・

          大岡昇平の戦記物           えーと、ぇーと。文学史  ウーン・・加藤周一だ

レーテ戦記 ミンダナオそれに文学史とは、すごいなー。仲間とよく旅行していたね。・・・・

         10人の北海道での仲間とずっとしてきたが最近は3~4人に減った。、

〇82歳の伊藤さん

    元気の秘訣は・・・・

                 寝ることと散歩だ。 仲間とおしゃべり。でんわくれよ。

〇83歳の兄   糖尿

       2日に1回。6000歩のさんぽ、夕食の食材の買い物。歩けばよく寝むれる。自治会の役員世話役

〇 84歳の先輩   狭心症  一人暮らし

        食うのが制限、酒飲めずで。5キロ痩せた。体が軽くなって丁度いい

        プールに週2回、一人生活は結構雑用が多く、いそがしいがしい。これがいい。

        60歳。70歳。80歳前後は頭が正常でも体がついていかない。このアンバランスがあって病気する。

      体が変化する時だ。これを乗り切れるかどうかだよ。

僕の講評・・・・。最近僕と同年齢の友達がたて続けて5人なくなった、。大学の先生2人、医者1人、仕事が同じだった友人2人、すべて同学年。

なのに80台は皆元気とはこれいかに、

妻の叔父は92さい。   みんな若い時苦難を乗り越えてきた人たちばかりだ。大正生まれは強いのは適度な苦労といい伴侶のせいかもしれないなー。

おれの場合はどうだろう?  いい伴侶といい孫とお喋りのばはある。でもね不規則、寝不足が足を引っ張るかもしれない、連れにとって僕がいい伴侶でないことがどう響くかもある、自戒転換。

    もうすぐ12時。12時前に寝ることからスタートしようカ。

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春になってきた。   花が目に染みる

芥川龍之介が晩年  といっても若いのだが  電車の中から外を見て、すべてが真っ赤にみえ、5感をゆすぶっ

たのは確か尋常を超えた作家らしい精神状態が砥ぎ澄まされがされていたのだと思うが  私の場は加齢にと

もない単にきれいだと思うだけにすぎない。でもキレさに特に心がゆすられるのはやっぱり年寄りの特徴かもし

れない。

若い時きれいなものに心を寄せていなかったのでもう少しこの世に未練を持って、もうしばらく厄介をおかけするこ

とになるかも知れない。でもこればっかりは自然の摂理。  

 さて屁理屈はこれくらいにして  友人や私が撮った写真をごらんあれ。

S20103_21_046 昨年とったもの。我が家のからほど近いYsk yskという人の作品。俺は孫からほしい。彼の方が大胆だ

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人災政治にナンテン、、なんちゃって。      原発再開初めにありきで、民意をものともせぬ480社の原子村に白い花を見せてもだめだろうな。 ペットやもとより、家畜・おこめ・たけのこ。根菜類、お野菜、魚、など日本産は食べないのだろうか。虫取りが好きな孫もいるだろうに。福島過酷事故がなぜ起きたのか解明をしないで、とにかく再稼働。チェルノブイリでは樹木も花だって被害にあっている。。

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上の写真は大学の先輩が送ってくれた。  赤もいいね。送ってくれた先輩は私だけかも知らないが口は悪いが・・しかしきずかいがうれしい。

でも花を楽しんでいるだけかもしれない・・バカボン流に言えばそれでいいのだ。もう80も近い。おたしゃでと願う。

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芳醇なボタンはもうすぐ庭先におでますことになっている。

早く昨年来のからだを直して 福島や仙台に花を持っていきたい。

先月74歳を迎えた。お金を神様にし名誉と権力に執着して

ひとびとを苦しめた様子をよく見てきたい。そして

近いうちに訪れる閻魔様の報告したい。原発政治を許した私もおとがめを受けることになるが。

これからの生き方によっては減いっぽうも期待したいが・・・でもやはりあまいか。

また

その中で耐えに耐え生き抜いている同胞から話を聞いて、若い人たちに伝え

今生きるおおくの3世代でともに頑張りたい。

秋はみんなで花見にいこうではないか。先日福島の富岡から避難されたご夫妻とこころから花見を楽しんだ。

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おしゃべり考   3

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自分に言い聞かせるためこれまで2回、今度は3回目の「ありがとう考」です

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有ることが難しいことをしていただいた。だからありがとう。有難う。

これは東京学芸大学で国語学を講じた宮越さんから教えていただいた。

日本語の含蓄はすごい。彼は学生にひどく厳しいが人気がある。それは日本語に含まれる含意をすなおに実践してきたからだろう。でありがとうは今では、軽い挨拶にかわってしまった。氏に言わせると「すみません」「ごめんなさい」が今や主流になった。

震災後今はやりの「絆」はいい言葉だとは思うが、なんか嘘っぽい。政治家が連発するか

らかなー。「絆」の前に「ありがとう」の内容がないので空々しくひびく。被災者の絆は感動を呼ぶ。

声掛け、   あいさつ   結び付き

挨拶   おしゃべり   語り合い (学び合い)

お金を神様にした企業社会、お父さん社会は 声掛け、あいさつ は営業用

。  

 「おしゃべり」について、あれは女子供のすることだ、無駄なことと同義。

男がおしゃべりすると馬鹿にされる。働き手にうつ病がふえるはずである。

結局21世紀は「おしゃべり」を省いて{結び付きを求める社会になってしまった。…この際結び付きとはいっても組織効率でありジャッジしたい人が表に出てきて差配し暗くなる。

これが企業・お役所だけでなく、市民活動・地域活動まで浸食しはじめた気がしてきた。私もこれに侵され始めたので、加齢もあり、もうそろそろ地域活動からお暇したいと思っている。

しかし待てよ、人はあい手がいなければ「おしゃべり」できない。一人ぽっちで生きる事は出来ない遺伝子を持っている動物なのだ。やっぱり自分からおしゃべりできるように

声掛け、   あいさつ   結び付き

挨拶   おしゃべり   語り合い (学び合い)

の法則に従って日本社会の文化に楽しく参加する以外ないようだ。生きたところであと何年もつか。生きている間はイキイキしたい。

と思って書くのをやめようとしたら

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「ありがとう」と題する 4月11日付東京新聞筆洗  が目にとまった。、ああなんて無駄な時間を割いたか、言いたいことはちゃんとここにあるではないか。

「言葉を覚えて一番うれしいのは、直接相手に『ありがとう』といえるようになったことです」。脳性まひなどの病気を抱え、十三歳の時の気管切開を機に筆談を身につけた仙台在住の大越桂さん(23)は、詩集『花の冠』にそう書いている。

 小さな小さな種だって

 君と一緒に育てれば

 大きな大きな花になる

この詩集にあるのが「ありがとうの行き先」という詩がある。

 ありがとうの行き先は

 ありがとうガ旅をして

 必ずここにもどるとき

 みんなと一緒の

 幸せがある

 ありがとうに

 ありがとう

感謝の気持ちはめぐりめぐってもどってくるような気がする。

すごい詩人がいるものだ、やっぱり人間ていいな。

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全号よりづずく   うれしい と 楽しい  と笑い

       続き   うれしい と 楽しい  と笑い

うれしい と 楽しい  と笑い   どう違いますか?

ヒントひとりではわらえない。みんなで歌うと楽しい

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左上は楽しそうに歌うぞう列車    下の写真は福島原発から21キロの海岸。4つのこいのぼりを見てほしい。あの放射線が流れ込んでいるひ・・・・。周りは人一人もいない、動くものはない。農家の家は津波でがらんどう。以下対比でみてほしい。政府の収束宣言のウソは明白だ

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南相馬の子供たちを思いながら、仮設に住む肩を温めたいから

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四街道の人は優しい。しかし四街道も可なり汚染されている。   未ばくしゃになってきている。計数管を持って調査しているが 行政とは1けた違う数値だ各地で出て打いる、福島のことは我が身のことと思えるかどうか

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うれしい と 楽しい  と笑い

うれしい と 楽しい  と笑い   どう違いますか?

ヒントひとりではわらえない。

   

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ケヤキにて在りし日のmさん       我が家で談笑

ケヤキにて                            飯岡仮設にて             

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やっぱり仲間がいれば楽しいし、世代のつながりがの場がればどんな厳しい中でも笑えある:らしい。   続く

東北が受けた人災福島事故派もう私たちは未曝しゃ。に立っている。せめて子供を。74歳をとうとう過ぎてしまったが。新たなつながりが生まれた。体調が回復気味な名で陸奥に行きたいと思っている

3・11の大災害。加齢の中で  生きる意味は楽しさと、笑いが肝心要。なんちゃって言っているが

 

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ありがとう考 2

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ありがとう考 2

ありがとうの詩 歌集・楽曲集

3,11大震災復興支援企画

発行   河北新報社  定価1000円

022-214-3811

被災地に生協あり

   阪神淡路震災の時「被災地に生協あり」が報道され語られた時、どんなに全国の生協は我がことのように励まされ、誇りにおもたったことか。「生協をやる意味」と「生協で働く意味」をこの一言が示していた。コープ神戸の役職員・全国からはせ参じたボランティアは心からあふれ出る「ありがとう」を自然に使っていた。

時移りバブルがはじけた後は、成長をもう1度とばかり、お金が神様になり。もっと大きく。もっと効率を、もっと早く、といった「もっと病」はグローバリズムの名のもとに、蔓延していった。もっと病は上位下達の縦の弊害と人間関係を断ち切り、結果1000兆円の借金、世界で冠たる格差社会・貧富社会・非正規の奴隷的な労働、働く意味の喪失、が目の前で展開されることになった。優勝劣敗のとげとげしい社会不安は後を絶たない。

挙句の果てに近代化のつけの最たる「福島原発過酷事故」は現未来を脅かしている。わが町で福島の小学校3年生の子供をばい菌扱いにする姿を見て愕然とした。

1番大きな変化はこの間「ありがとう」の言葉がなくなりつつあることだ。

親子の間でもそうだが、ス-パーマーケットで観察するとよくわかる。あいさつ代わりの「すみません」「ごめんなさい」は聞くが店員が客に、客が店員に

「ありがとう」をいう機会も言われる機会も強度に減っている。地域社会でも感じる。

農産物や海の恵みに対して、或いは食事の背後にあるたくさんの手数に対して「感謝し、いただきます」という関係が乏しくなり、家族のだんらんが少なくなったからではないか。安けりゃ何でもいい、生産地と流通、消費。廃棄の関係創造で成立してきた協同組合から内容のある「ありがとう」が消えたとき

協同組合のは歴史的使命はどうなるのだろうか・・・・・しかし東北大震災の中で示した各生協の戦いは  一人一人に沿って事柄と言葉を交わしながら進めているという。西村君の本で知った。私はふるさとが仙台の10回ほど東北に行ったが、うなずけるものがあった。次のような詩に心情を寄せ足元で「ありがとう」に示す協同がある限り困難を乗り切っていくのではないか。ほとんど生協の現状に疎くなったものとして期待を述べたい。

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ありがとがす    岩手県一関市  62

だらだらの汗、日焼けした顔

泥まみれの作業服

おめえ様とすれちがう時

おらは目頭が熱くなるちゃ

宿舎にもどって行くおめえ様の背中に向かい

おらは心の中で最敬礼するのしゃ

おめえ様は仕事だからと実に格好いい

おめえ様にも緑豊な故里があり

心やさしい家族が待っているべ

ほんでも、もうちょっとだけ

おらに力を貸してけねが

おらも精一杯努力すっから

必ず夜の次には朝がきて

泣いたあとには笑うときがくるちゃ

この前テレビでどこかのばあちゃんが

ありがとがすと何回も頭を下げていたのしゃ

おらも同じだ

ありがとがす ありがとがす ありがとがす

おらも精一杯努力すっから

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