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追悼no意味    その人になってみて 想像できるだろうか。再掲

犠牲者・被害者の身になって

東北3県で両親を失った子 240名、

東北3県で 母親、父親を失った子供の数1323人

子どもの犠牲者       542名

転校を強いられたこども 25、751

   昨年9月22現在・文科省発表の数字です。

    放射線の中の子供たち

子どもを失った親、親を失った子供状態やきもち、遺体を目撃して心に傷を負った子供たち。家族をばらばらにされた人たちの苦しみ。母親たちの悲しみ、高齢者の寂寥感、生きる不安、生活基盤を確立できない、心身疲弊の死を迎える人、 自殺に追い込まれた農民、故郷を追い出され家族をばらばらにされたひとたちの途方の心情。   そして安全だと騙されてきた東電、政府へのいかり。

私はその人の身になってみて、想像できるだろうか。

明日はわが身、愛する人に降りかかる可能性の高い日本

54基の原発   地震列島の上で共存できるかも含めて想像すること。

物言わぬ、ものいえぬ日本社会を許してはならない、と決意できるだろうか

昨夜子供家族と、石巻の映像を見、見てきた想いを伝え、実兄が女川原発に近い町で低体温でなくなり10日目に発見されたことを黙とうのあとでかたりあった。中学生の孫はリスク社会の中で生きる事を理解したようだ。たくましく生きてあれ、孫たちよ。楽しみとユーモアを持って苦難をはねとばせ、

弱い人たちに役に立つためにこそ勉強し成長せよ

   以上2012-3-11夜記す i以下昨年6月にかいた追悼記の再掲。

   

20日 早朝 8時に 出会った事を語りたい。

場所は千葉市斎場。千葉市緑区平山町。

この日 36人の方が荼毘にふされた。陸前高田の震災犠牲者であった。

私は たまたま知りあいからの知らせでたち会わせていただいた。

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         その日、朝の荼毘

火葬入り口回廊に横付けの大きな車2台が遠くに見えた

その車からご遺体の御棺が一体 一体と降ろされ台車に載せられて廊下を横切り、私たちの視界から消えていく。ご遺体が廊下に見えるたびに10人に満たない人たちがご遺体にむかって手を合わせた。そこは立ち入り禁止の簡易柵の外側であった。ご遺体から60~70mもはなれていただろうか。花が3束手向けのために用意されていた。Ss20_011

荼毘に付された36人のお骨がおなじ台車で 再び車の中に安置された。終了を待って車2台が私たちの横をとおって視界から遠ざかっていった。後を岩手ナンバーの乗用車1台、目礼してすぎていった。そのとき斎場から離れたところに自発的に立ち会った10人の和尚さんの読経が静かに流れていた。 早く岩手にかえってなつかしい高田にめぐり合ってほしい、そんな思いで手を合わせた。御骨は400キロ以上離れた陸前高田にむかっていった

        それまでの普段の暮らし、培ってきた絆が

この間どのぐらいの時間が経過したことだろう。ご遺体が運ばれ視界から消えていくごとに思いが重なっていく。棺のご遺体は3月11日までいいおバーちゃんだったにちがいない。この棺は甘えん坊の男の子。次の棺にはおっかない親父さんかな。この棺は漁師さん。家族との食事を楽しみに魚を取っていたかもしれない。

3月11日までは一人ひとりには当たり前の暮らしがあった。普段着姿のやんちゃな子供といいおじいちゃん。おじいちゃんには漁業の町を背負った履歴があった、りもあったことだろう。

しかし「次の日この人たちは突然 流され、つぶされ、身元不明になっていった」。

今日の火葬を私に知らせてくれたMさんは帰り道 そうつぶやいた。私も同じ思いだった。今もこのご遺体の肉親友人は安否を求め、海岸や瓦礫の中を捜し求めているに違いない。つづけてMさんはいう。ご遺体の肉親の人たちは「このご遺体が、岩手を遠く離れ、これまで無縁だった千葉の地でこうしてお骨になったことすら知らないかもしれない・・・・」

あまりにも不条理、むごい。自分が生きてきた証を認めてもらうこともなく、500キロも離れた見知らぬ千葉で、 600体が 焼かれ  見送る人もなく 大型のトラックで運ばれていく。緊急のやむをえない事情は理解できる。しかし千葉の地で追悼することは出来る。追悼に見えられたのは近隣の市長ではひとりだけだった。これでは浮かばれないではないか。

    福祉を貫くことが真の復興。Mさんが語ってくれた

私はMさんに話しかけた。「どうしてあなたが火葬追悼を取り仕切るようになったのか。わかるようなきがしてきた」。

自分からかって でたんだよ。~~~」「「せめて花だけでも手向けたかった」・・。

Mさんは神戸と 新潟長岡と 東北で 三度震災地で被災者救済に向き合った人だった。阪神淡路大地震のとき生協で店長を務め、当時神戸にあって千葉の房総から被災者に大量の花を贈ってもらったこと。お礼にと千葉にきて引きつづき生協の働き手になった。

定年後 経験を買われて全国各地に呼ばれて防災体験を語っている。四街道の自治会などにも呼ばれているという。今回も地震直後から3月末まで仙台に滞在し千葉に戻ったばかりだった。私は久しぶりで千葉市斎場で会うことになった。

この日の体験をとうして私は「大震災がもたらした災害」からの「復興は」

人々がどれだけ深く犠牲者を「追悼」できるかにかかわると思った。日本全体が悲劇を目の当たりにしている。被災地の様子は先日石巻の現地を訪ねたときに受けた悲劇の迫力。被災地のかたがたの艱難は想像に絶する。被災地、被災者ではない私のようなものでも1000分の1でも想像は出来る。想像できるのも人間ならばのこと。被災者や、支援体験者から聞くことで想像が膨らむのも人間なのだ。私はこれまで、このように「人間」に限りない信頼を置いてきたであろうか。

           追悼の意味

犠牲者を「追悼」する中で 犠牲者を自分に置き換え、或いは愛するものに置き換えてみることで支援は単なる復旧支援の作業を超え人道支援になっていくのではないか。

阪神淡路大地震のとき「被災地に生協あり」と全国に報道された。それは「被災地に福祉あり」に近かった。パンや水の生活必需品がすべての被災者に、そして不幸な犠牲者のために何百の棺も用意され安置の場所となった。仮説住宅の土地も提供した。人道的な支援が地域社会の共感を呼び人々は再び生協を支えた。

これより先、人道支援が長期に出来る企業,行政、NPO、個人こそ よりよくいきる活路を開いていくと思う。 被災地での判断は「命」にとって「いいか」「悪いか」しかないと彼は言い切った。支援するにも、書類や手続きを要求する行政。異常事態なのに臨機応変の行動を許さない官僚組織の垣根。働くものの感受性を見殺す組織病。その弊害が目立ってみえた期間であったのだが、にもかかわらず「状況を認識する」ことで人は変わっていくことが出来ると確信した。それは追悼の機会をいただいたことにもよる。かつて阪神淡路大地震直後の4日間 私は被災地を歩き、おびただしい犠牲者の存在を知った。追悼の小さな花が手向けられていた。M氏のいまをつき動かしているのは阪神淡路震災時の追悼の深さではなかろうか。

26日 7時30から 千葉市斎場で 犠牲者の荼毘追悼がおこなわれるという。房総から寄せられた花を持って参列しようと思う。

昨年   自発的に参加したV。

1周年を迎え読み返してみた

追悼   

20日 早朝 8時に 出会った事を語りたい。

場所は千葉市斎場。千葉市緑区平山町。

この日 36人の方が荼毘にふされた。陸前高田の震災犠牲者であった。

私は たまたま知りあいからの知らせでたち会わせていただいた。

         その日、朝の荼毘

火葬入り口回廊に横付けの大きな車2台が遠くに見えた。

その車からご遺体の御棺が一体 一体と降ろされ台車に載せられて廊下を横切り、私たちの視界から消えていく。ご遺体が廊下に見えるたびに10人に満たない人たちがご遺体にむかって手を合わせた。そこは立ち入り禁止の簡易柵の外側であった。ご遺体から60~70mもはなれていただろうか。花が3束手向けのために用意されていた。

荼毘に付された36人のお骨がおなじ台車で 再び車の中に安置された。終了を待って車2台が私たちの横をとおって視界から遠ざかっていった。後を岩手ナンバーの乗用車1台、目礼してすぎていった。そのとき斎場から離れたところに自発的に立ち会った10人の和尚さんの読経が静かに流れていた。 早く岩手にかえってなつかしい高田にめぐり合ってほしい、そんな思いで手を合わせた。御骨は400キロ以上離れた陸前高田にむかっていった

         それまでの普段の暮らし、培ってきた絆が

この間どのぐらいの時間が経過したことだろう。ご遺体が運ばれ視界から消えていくごとに思いが重なっていく。棺のご遺体は3月11日までいいおバーちゃんだったにちがいない。この棺は甘えん坊の男の子。次の棺にはおっかない親父さんかな。この棺は漁師さん。家族との食事を楽しみに魚を取っていたかもしれない。

3月11日までは一人ひとりには当たり前の暮らしがあった。普段着姿のやんちゃな子供といいおじいちゃん。おじいちゃんには漁業の町を背負った履歴があった、誇りもあったことだろう。 

しかし「次の日この人たちは突然 流され、つぶされ、身元不明になっていった」。

今日の火葬を私に知らせてくれたMさんは帰り道 そうつぶやいた。私も同じ思いだった。今もこのご遺体の肉親友人は安否を求め、海岸や瓦礫の中を捜し求めているに違いない。つづけてMさんはいう。ご遺体の肉親の人たちは「このご遺体が、岩手を遠く離れ、これまで無縁だった千葉の地でこうしてお骨になったことすら知らないかもしれない・・・・」

あまりにも不条理、むごい。自分が生きてきた証を認めてもらうこともなく、500キロも離れた見知らぬ千葉で、 600体が 焼かれ  見送る人もなく 大型のトラックで運ばれていく。緊急のやむをえない事情は理解できる。しかし千葉の地で追悼することは出来る。追悼に見えられたのは近隣の市長ではひとりだけだった。これでは浮かばれないではないか。 

    福祉を貫くことが真の復興。Mさんが語ってくれた

私はMさんに話しかけた。「どうしてあなたが火葬追悼を取り仕切るようになったのか。わかるようなきがしてきた」。

自分からかってでたんだよ。~~~」「「せめて花だけでも手向けたかった」・・。

Mさんは神戸と 新潟長岡と 東北で 三度震災地で被災者救済に向き合った人だった。阪神淡路大地震のとき生協で店長を務め、当時神戸にあって千葉の房総から被災者に大量の花を贈ってもらったこと。お礼にと千葉にきて引きつづき生協の働き手になった。

定年後 経験を買われて全国各地に呼ばれて防災体験を語っている。四街道の自治会などにも呼ばれているという。今回も地震直後から3月末まで仙台に滞在し千葉に戻ったばかりだった。私は久しぶりで千葉市斎場で会うことになった。

この日の体験をとうして私は「大震災がもたらした災害」からの「復興は」

人々がどれだけ深く犠牲者を「追悼」できるかにかかわると思った。日本全体が悲劇を目の当たりにしている。被災地の様子は先日石巻の現地を訪ねたときに受けた悲劇の迫力。被災地のかたがたの艱難は想像に絶する。被災地、被災者ではない私のようなものでも1000分の1でも想像は出来る。想像できるのも人間ならばのこと。被災者や、支援体験者から聞くことで想像が膨らむのも人間なのだ。私はこれまで、このように「人間」に限りない信頼を置いてきたであろうか。

           追悼の意味

犠牲者を「追悼」する中で 犠牲者を自分に置き換え、或いは愛するものに置き換えてみることで支援は単なる復旧支援の作業を超え人道支援になっていくのではないか。

阪神淡路大地震のとき「被災地に生協あり」と全国に報道された。それは「被災地に福祉あり」に近かった。パンや水の生活必需品がすべての被災者に、そして不幸な犠牲者のために何百の棺も用意され安置の場所となった。仮説住宅の土地も提供した。人道的な支援が地域社会の共感を呼び人々は再び生協を支えた。

これより先、人道支援が長期に出来る企業,行政、NPO、個人こそ よりよくいきる活路を開いていくと思う。 被災地での判断は「命」にとって「いいか」「悪いか」しかないと彼は言い切った。支援するにも、書類や手続きを要求する行政。異常事態なのに臨機応変の行動を許さない官僚組織の垣根。働くものの感受性を見殺す組織病。その弊害が目立ってみえた期間であったのだが、にもかかわらず「状況を認識する」ことで人は変わっていくことが出来ると確信した。それは追悼の機会をいただいたことにもよる。かつて阪神淡路大地震直後の4日間 私は被災地を歩き、おびただしい犠牲者の存在を知った。追悼の小さな花が手向けられていた。M氏のいまをつき動かしているのは阪神淡路震災時の追悼の深さではなかろうか。

26日 7時30から 千葉市斎場で 犠牲者の荼毘追悼がおこなわれるという。房総から寄せられた花を持って参列しようと思う。

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