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2012年3月

なばな  うめ  やっと  香り漂う 。 サクラはまだか

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阪神淡路大震災

一年目の一月十七日に際し

阪神淡路大震災

神戸に行った君へ

元気かい

あれから一年たったね  

そう、あの日から

研修の身の君が見たあの日から  

君の安否や 

仲間の安否をたずね

絶する災害に

いてもたってもいられずに 

千葉から神戸へかけつけた君。

あの日から

身体の芯の所でうずき

かたりかけてくるもの

それが君の中にある

ずうっとある。

確かにある。

悲しみの中で

寒さの中で

瓦礫の中で

励ましあう声が

嗚咽が

こびりついて離れない

再建の日々が始まって。

励ましあう声が

ありがとうって言い合う声が

声掛け合って笑う声が、

あの顔が、あのしぐさが

こびりついて離れない

あの日から

こえかけあったあの日から

やり方や

在り方や

生き方で

思いやりっていうやつを

仲間に 組合員に 子供に つれあいに

かけている君がいる

なんのてらいもなく 

まごころこめて

ここ千葉で  ちばコープで。

神戸にいたことで、神戸に行ったことで

君と家族の

君と仲間の

君と地域の

絆の大切さをいっそう体に刻み付けた君

それは生協の財産。幸せのみを目指す生協の宝

6千3百の御霊の前に

ぬかずこう 

被災地のかたにこうべをたれよう

感謝しよう。

送り出してくれた職場の仲間に

心を寄せよう

何よりもあの日に、その日につづく日々に

ひとり1人に向き合った君の献身と

その心を大切にしよう

そしてちばコープの僕らは、そんな君らを誇りに思う。

             一年目の朝

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ふくしま宣言、全世界へ

転送です。

ふくしま宣言、全世界へ 知事「再生エネ推進」

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 東京電力福島第1原発事故を受け、福島県の

佐藤雄平

(

さとう・ゆうへい

)

知事は11日、再生可能エネルギーを推進し、原子力に頼らず発展する社会を目指すとした「ふくしま宣言」を全世界に向けて発信した。県はホームページに英訳も併せて掲載する。

 この日、福島市で県主催の追悼式に続いて開かれた、震災と原発事故からの復興に向けたシンポジウムで発表した。

 宣言は「原子力を扱うことの難しさと正面から向き合ってきたか」などと自問自答した上で「二度とこのようなことが起きないよう、県内の原発を全て廃炉とすることを求めながら、再生可能エネルギーを推進する」としている。

 最後に「私たちは必ず、美しいふるさとふくしまを取り戻します。活力と笑顔あふれるふくしまを築いていきます。このふくしま復興の姿を世界へ、未来へと伝えます」と結

んでいる。

ふくしま宣言 誓いを全力で支えよう 0313日(火)

 「再生可能エネルギーを推進し、原子力に頼らずに、発展し続けていくことができる社会を目指します」

 福島県の佐藤雄平知事が、11日に発信した「ふくしま宣言」の一文である。あらためて脱原発の姿勢を鮮明にしている。

 科学技術の力を過大に評価していなかったか。原子力を扱うことの難しさと正面から向き合ってきたか。知事の自問は、私たち一人一人に向けられている。


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ありがとがす   

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瓦礫の中の気高さ    ありがとうの詩    悲境にあって

「ありがとう」が1番人々の肺腑をつくと河北新報社。11歳から84歳までの「ありがとう、の「詩」が

出版されました。   ¥1000円   ふきのとうに在庫有り。

「ありがとう」と言われる機会も「ありがとう」という機会も

乏しい日本近代社会。

そんな中で今福島の被災者たちは心から「ありがとう」をいっている。

有ることが難しいことをおたがいにしあっている・小さい子供も

84さいのおじいちゃんも。ふくしま出身の詩人が選らん「ありがとうの詩」

これを読みながら夜明けは陸奥からと思った。

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あきらめないまち  石巻 その力におれ達はなる,人間って いいな

あきらめないまち  石巻

その力におれ達はなる

石巻工業高校生。春の高校野球選抜大会宣誓

人間って いいな

私は昨春に3回石巻に兄の霊をたずねた。 ・石巻市は人口16万人だが死者・行方不明は最大の4000名近く。海岸・北上川沿いが殆ど壊滅。今でも石巻と聞いただけで足がすくむ。もがくようすも臨場感をもって地獄のような想像場面でくるくる出てくる。現地の被災者の心労・苦労は想像できない。

すくむのはそれだけではない。隣町の女川原発周囲のよーすがセットされて出てくるからだ。最近の友人の知らせによると「女川原発は危機一髪3・11は外部電源5本の内、地震発生後生き残ったのはたった1本、4月7日の大余震で生き残ったのもたった1本。しかも前回と今回では通じたのは別別、本当に危なかった。」

女川原発は 福島原発よりも震源地に近い。女川町は津波が40㎡を超えたと今月の調査。しかも40年使用の福島原発と同系の原発。福島原発後、3大紙はまるで見てきたように、「女川原発は安心できるのはなぜか」とうそっぽい大きな記事を載せ、東北電力は再開方針述べた。

冗談ではない。数10キロ先には仙台があり100万人口がひしめく。風光明媚な牡鹿半島/金華山には鹿が至近で放射線を浴び、仙台までの石巻線沿線(まだ復旧していない)には多数の死者がでたがでた南三陸町、東松島・多賀城市がある。

この地域には同窓生・親類が多い。千代田さんらがひとごとには思えない東北での人も多いと思う。

さて加齢はどうもいけない。わが町、わが国のような政治風土で、一人の老人が、気張ったところでどうなるものではない。一人悶々の世界に入りかねない。

ところが石巻工業高校生。春の高校野球選抜大会で

あきらめないまち  石巻  その力におれ達はなると  宣誓をきいた

そしてこうも言った。おれたち選手たちの間にもう壁はない。精いっぱい生きる事が私たちの使命。

それを聞いた後。房総の花を手向けに送った東北の犠牲者の家族から便りがとどきだした。

又 かっての知人 からメールや手紙が来た。辛酸をなめているのに被災者が主体となった書き方だ。私たちの支援も、支援先の立場に立って被災者を主役にできるように支援することが肝心だと思った。   あきらめないで何かできることがあるはず。被災者から学べる。

若いっていいな。人間っていいな

  

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生協には夢があった。 古来 先駆者たちは、協同の夢を掲げて戦ってきた。そして世界に、日本にひろがっていった。

未来は今すぐ実現が出来ない事を十分認識した上で、なおかつ「未来は必ずや我らのものである」という不動の立場を固めることが、地道な不屈の努力を生み出すのである」(福武

直  賀川豊彦に寄せて) 戦争にひた走る気息奄々の時代に「みらいは我らのものなり」といってのけ、生協人を鼓舞した賀川豊彦がいた。賀川は日本のみならず世界の協同組合の先駆者だった

千葉市民生協の創設時  故田仲善一も「夢をかたった」。私は夢見る夢でなく「日々の営みを糧に目覚めていく気づきの夢」に置き換えてみた。その時掲げた夢は叶っていっただろうか。

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あれから二〇年経た今日、翻って日本は途方もない混迷の時代を迎えている。金融崩壊は「精神のない構造改革。人間を粗末に操作する利益効率至上主義の管理やテクノロジー。実生活や現場から離れた管理。理念を棚上げにした精神のないリーダーシップ」のいきつく先だった。失われたものは大きすぎ格差の犠牲は傷口を広げ始めた。日本社会が人間を粗末に操作する利益効率至上主義の延長線上に進むなら、混迷はひどくなる一方であり出口のない不確実な未来があるのみであろう。いわゆる政治屋や子役人や専門家の目先の小手指では全く解決はしない。アメリカ流、小泉流資本主義をきっぱり否定し「人格性」を取り戻す協同の道以外に活路はあり得ない。いかに困難があろうとも人間性、人間味のある社会システムを取り戻し構築していく必要がある。

協同を価値とする社会構築の可能性のある時代を迎えた。人は皆温もりのある関係を求め始めている。そんななか協同組合がどんな構想力と知性を集め実践するのか、協同組合の歴史をかけた時代と認識したい。

Sdscf00031_2ところでさる2月27日連れ合いと

22年前の田中さんに会いに墓を訪ねた.水仙が好きだった が菜の花を 手向けた。

彼には夢があった。夢をうらずける名言があった、。総代会の席上「生協は大きくなるためにあるのではない。

生活と労働の中に喜びを広げていくためだ」と

彼とは希望は夢の中から創造される。そんなロマンをよっぴいて語り合ったものだ。働く喜び、生きる事の喜び

人間が好き、という人の輪を暮らし協同に中から創ること」   日本全体が金銭社会の組織病ーー「もっと病」の深い傷に陥りはじめたころだった。

「夢」の墓標にむかって手を合わせた。

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物言えない個人。 物言わせない社会・組織。   どちらが先か

うろ覚えだが昔の歌謡曲の歌詞に「男は一人でさけをのむ。…女は無口がいい」とかいう曲があったとか。

これが日本的情緒?なんだと。とんでもないとおもうけど,貴方は?どう思われますか 

これは酒が飲めない私の単なる??かもしれないが。おしゃべりしているときは大体みんな笑顔さ。

えらいさんや、監視している人がいれば、絶対おしゃべりはなりたたない。追従笑いぐらいかな。

おしゃべりのときは心・胸が開いている。なんといっても仲間だね。

コミニケーション、言えて・見えて・関われれば いい社会だろうね。日本国憲法これを保障しているのに物言えないとは。。

ところで話が変わるが11日 久しぶりにいい記事にであった。その1部を紹介することで上につなげたい。

3月11日 朝日新聞   仏教界の動き     科学者の世界も

原発事故の教訓  空気を読む沈黙繰り返すな

          編集委員 星浩

以下抜粋

全日本仏教会の脱原発宣言より

「『いのち』を脅かす政治への依存を減らし、原発に依存しない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指します。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければなりません」と明言している。

あの戦争のとき、宗教者が国家に順応して戦争に協力してきたことと、原発問題に口を閉ざす雰囲気が重なる。原発事故で故郷を離れざるをえない人々のことを思えば命の尊厳を唱える仏教者として原発は持ってはいけないものだ。生活のあり方を見直し、原発を人用としない社会を目指すべきだ。」として「地震発生から丸1年の11日午後2時46分に梵鐘をつくよう呼びかけている。

1方  ある科学者が警鐘していることを取り上げている

、一人ひとりは安全対策に問題があると思っていたが、自分が何

か言ってもどうしようもないと、みんなが空気を読みあっていた。空気を

読むことが日本社会で不可避であるとすれば、そのような社会は原子力のような

リスクの高い大型で複雑な技術を安全に運営する資格は無い」

世の中の空気を読んで口を閉ざす。その愚を繰り返してはならない

失われた20年を振り返ってみると

評価制度とそれによる選別・差別・懲罰を進めることで  物言えない様にしていく 。 上司や周りを気にして・もの

が言えなくなっていく。この失われた20年を振り返って見切ると。社会のメルトダウンの中で迎える少子高齢社会だったということが見えてくる。子どもを20μsVにおいても平気な政治社会。お母さんたちからおこりはじめた。

物言えないお父さんたちの指導者が登場してきた。あれっ私もお父さんだっけ。いや爺さん。でも逃げ切る

ことはできない。孫たちが見ている。

・・・・・・・その先にあるのは単なる沈滞だけではない。よーく考えたい。ヨーク考えようとおもう。。

男は一人でさけをのむ。…女は無口がいいと歌い合っていたほうがよかったかな。

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菅原文太   我らがスターに菅原文太に敬意   大石又七との対談

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対談を掲載した 「本の窓」という小学館の

小冊子の中の一文です。「第5福竜丸と原発はつながっている」という題です。
事実体験大スターの取り合わせ、わかりやすい。うってつけです。
菅原文太氏は実に個性のある面白い俳優ですね。やくざ映画の俳優という印象でばかり見ていた
同じ仙台生まれの同窓先輩ですが、「在野の直感、外野の直言」うってつけの方だということがわかりました。
大スターが切り込む原発対談です。ぶんたフアンでなくても多くの老若男女をうならせることうけあい。

仙台出身77歳、菅原文太さんの名言「脱原発の日独伊三国同盟を結ぶべきだ」

、 

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追悼no意味    その人になってみて 想像できるだろうか。再掲

犠牲者・被害者の身になって

東北3県で両親を失った子 240名、

東北3県で 母親、父親を失った子供の数1323人

子どもの犠牲者       542名

転校を強いられたこども 25、751

   昨年9月22現在・文科省発表の数字です。

    放射線の中の子供たち

子どもを失った親、親を失った子供状態やきもち、遺体を目撃して心に傷を負った子供たち。家族をばらばらにされた人たちの苦しみ。母親たちの悲しみ、高齢者の寂寥感、生きる不安、生活基盤を確立できない、心身疲弊の死を迎える人、 自殺に追い込まれた農民、故郷を追い出され家族をばらばらにされたひとたちの途方の心情。   そして安全だと騙されてきた東電、政府へのいかり。

私はその人の身になってみて、想像できるだろうか。

明日はわが身、愛する人に降りかかる可能性の高い日本

54基の原発   地震列島の上で共存できるかも含めて想像すること。

物言わぬ、ものいえぬ日本社会を許してはならない、と決意できるだろうか

昨夜子供家族と、石巻の映像を見、見てきた想いを伝え、実兄が女川原発に近い町で低体温でなくなり10日目に発見されたことを黙とうのあとでかたりあった。中学生の孫はリスク社会の中で生きる事を理解したようだ。たくましく生きてあれ、孫たちよ。楽しみとユーモアを持って苦難をはねとばせ、

弱い人たちに役に立つためにこそ勉強し成長せよ

   以上2012-3-11夜記す i以下昨年6月にかいた追悼記の再掲。

   

20日 早朝 8時に 出会った事を語りたい。

場所は千葉市斎場。千葉市緑区平山町。

この日 36人の方が荼毘にふされた。陸前高田の震災犠牲者であった。

私は たまたま知りあいからの知らせでたち会わせていただいた。

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         その日、朝の荼毘

火葬入り口回廊に横付けの大きな車2台が遠くに見えた

その車からご遺体の御棺が一体 一体と降ろされ台車に載せられて廊下を横切り、私たちの視界から消えていく。ご遺体が廊下に見えるたびに10人に満たない人たちがご遺体にむかって手を合わせた。そこは立ち入り禁止の簡易柵の外側であった。ご遺体から60~70mもはなれていただろうか。花が3束手向けのために用意されていた。Ss20_011

荼毘に付された36人のお骨がおなじ台車で 再び車の中に安置された。終了を待って車2台が私たちの横をとおって視界から遠ざかっていった。後を岩手ナンバーの乗用車1台、目礼してすぎていった。そのとき斎場から離れたところに自発的に立ち会った10人の和尚さんの読経が静かに流れていた。 早く岩手にかえってなつかしい高田にめぐり合ってほしい、そんな思いで手を合わせた。御骨は400キロ以上離れた陸前高田にむかっていった

        それまでの普段の暮らし、培ってきた絆が

この間どのぐらいの時間が経過したことだろう。ご遺体が運ばれ視界から消えていくごとに思いが重なっていく。棺のご遺体は3月11日までいいおバーちゃんだったにちがいない。この棺は甘えん坊の男の子。次の棺にはおっかない親父さんかな。この棺は漁師さん。家族との食事を楽しみに魚を取っていたかもしれない。

3月11日までは一人ひとりには当たり前の暮らしがあった。普段着姿のやんちゃな子供といいおじいちゃん。おじいちゃんには漁業の町を背負った履歴があった、りもあったことだろう。

しかし「次の日この人たちは突然 流され、つぶされ、身元不明になっていった」。

今日の火葬を私に知らせてくれたMさんは帰り道 そうつぶやいた。私も同じ思いだった。今もこのご遺体の肉親友人は安否を求め、海岸や瓦礫の中を捜し求めているに違いない。つづけてMさんはいう。ご遺体の肉親の人たちは「このご遺体が、岩手を遠く離れ、これまで無縁だった千葉の地でこうしてお骨になったことすら知らないかもしれない・・・・」

あまりにも不条理、むごい。自分が生きてきた証を認めてもらうこともなく、500キロも離れた見知らぬ千葉で、 600体が 焼かれ  見送る人もなく 大型のトラックで運ばれていく。緊急のやむをえない事情は理解できる。しかし千葉の地で追悼することは出来る。追悼に見えられたのは近隣の市長ではひとりだけだった。これでは浮かばれないではないか。

    福祉を貫くことが真の復興。Mさんが語ってくれた

私はMさんに話しかけた。「どうしてあなたが火葬追悼を取り仕切るようになったのか。わかるようなきがしてきた」。

自分からかって でたんだよ。~~~」「「せめて花だけでも手向けたかった」・・。

Mさんは神戸と 新潟長岡と 東北で 三度震災地で被災者救済に向き合った人だった。阪神淡路大地震のとき生協で店長を務め、当時神戸にあって千葉の房総から被災者に大量の花を贈ってもらったこと。お礼にと千葉にきて引きつづき生協の働き手になった。

定年後 経験を買われて全国各地に呼ばれて防災体験を語っている。四街道の自治会などにも呼ばれているという。今回も地震直後から3月末まで仙台に滞在し千葉に戻ったばかりだった。私は久しぶりで千葉市斎場で会うことになった。

この日の体験をとうして私は「大震災がもたらした災害」からの「復興は」

人々がどれだけ深く犠牲者を「追悼」できるかにかかわると思った。日本全体が悲劇を目の当たりにしている。被災地の様子は先日石巻の現地を訪ねたときに受けた悲劇の迫力。被災地のかたがたの艱難は想像に絶する。被災地、被災者ではない私のようなものでも1000分の1でも想像は出来る。想像できるのも人間ならばのこと。被災者や、支援体験者から聞くことで想像が膨らむのも人間なのだ。私はこれまで、このように「人間」に限りない信頼を置いてきたであろうか。

           追悼の意味

犠牲者を「追悼」する中で 犠牲者を自分に置き換え、或いは愛するものに置き換えてみることで支援は単なる復旧支援の作業を超え人道支援になっていくのではないか。

阪神淡路大地震のとき「被災地に生協あり」と全国に報道された。それは「被災地に福祉あり」に近かった。パンや水の生活必需品がすべての被災者に、そして不幸な犠牲者のために何百の棺も用意され安置の場所となった。仮説住宅の土地も提供した。人道的な支援が地域社会の共感を呼び人々は再び生協を支えた。

これより先、人道支援が長期に出来る企業,行政、NPO、個人こそ よりよくいきる活路を開いていくと思う。 被災地での判断は「命」にとって「いいか」「悪いか」しかないと彼は言い切った。支援するにも、書類や手続きを要求する行政。異常事態なのに臨機応変の行動を許さない官僚組織の垣根。働くものの感受性を見殺す組織病。その弊害が目立ってみえた期間であったのだが、にもかかわらず「状況を認識する」ことで人は変わっていくことが出来ると確信した。それは追悼の機会をいただいたことにもよる。かつて阪神淡路大地震直後の4日間 私は被災地を歩き、おびただしい犠牲者の存在を知った。追悼の小さな花が手向けられていた。M氏のいまをつき動かしているのは阪神淡路震災時の追悼の深さではなかろうか。

26日 7時30から 千葉市斎場で 犠牲者の荼毘追悼がおこなわれるという。房総から寄せられた花を持って参列しようと思う。

昨年   自発的に参加したV。

1周年を迎え読み返してみた

追悼   

20日 早朝 8時に 出会った事を語りたい。

場所は千葉市斎場。千葉市緑区平山町。

この日 36人の方が荼毘にふされた。陸前高田の震災犠牲者であった。

私は たまたま知りあいからの知らせでたち会わせていただいた。

         その日、朝の荼毘

火葬入り口回廊に横付けの大きな車2台が遠くに見えた。

その車からご遺体の御棺が一体 一体と降ろされ台車に載せられて廊下を横切り、私たちの視界から消えていく。ご遺体が廊下に見えるたびに10人に満たない人たちがご遺体にむかって手を合わせた。そこは立ち入り禁止の簡易柵の外側であった。ご遺体から60~70mもはなれていただろうか。花が3束手向けのために用意されていた。

荼毘に付された36人のお骨がおなじ台車で 再び車の中に安置された。終了を待って車2台が私たちの横をとおって視界から遠ざかっていった。後を岩手ナンバーの乗用車1台、目礼してすぎていった。そのとき斎場から離れたところに自発的に立ち会った10人の和尚さんの読経が静かに流れていた。 早く岩手にかえってなつかしい高田にめぐり合ってほしい、そんな思いで手を合わせた。御骨は400キロ以上離れた陸前高田にむかっていった

         それまでの普段の暮らし、培ってきた絆が

この間どのぐらいの時間が経過したことだろう。ご遺体が運ばれ視界から消えていくごとに思いが重なっていく。棺のご遺体は3月11日までいいおバーちゃんだったにちがいない。この棺は甘えん坊の男の子。次の棺にはおっかない親父さんかな。この棺は漁師さん。家族との食事を楽しみに魚を取っていたかもしれない。

3月11日までは一人ひとりには当たり前の暮らしがあった。普段着姿のやんちゃな子供といいおじいちゃん。おじいちゃんには漁業の町を背負った履歴があった、誇りもあったことだろう。 

しかし「次の日この人たちは突然 流され、つぶされ、身元不明になっていった」。

今日の火葬を私に知らせてくれたMさんは帰り道 そうつぶやいた。私も同じ思いだった。今もこのご遺体の肉親友人は安否を求め、海岸や瓦礫の中を捜し求めているに違いない。つづけてMさんはいう。ご遺体の肉親の人たちは「このご遺体が、岩手を遠く離れ、これまで無縁だった千葉の地でこうしてお骨になったことすら知らないかもしれない・・・・」

あまりにも不条理、むごい。自分が生きてきた証を認めてもらうこともなく、500キロも離れた見知らぬ千葉で、 600体が 焼かれ  見送る人もなく 大型のトラックで運ばれていく。緊急のやむをえない事情は理解できる。しかし千葉の地で追悼することは出来る。追悼に見えられたのは近隣の市長ではひとりだけだった。これでは浮かばれないではないか。 

    福祉を貫くことが真の復興。Mさんが語ってくれた

私はMさんに話しかけた。「どうしてあなたが火葬追悼を取り仕切るようになったのか。わかるようなきがしてきた」。

自分からかってでたんだよ。~~~」「「せめて花だけでも手向けたかった」・・。

Mさんは神戸と 新潟長岡と 東北で 三度震災地で被災者救済に向き合った人だった。阪神淡路大地震のとき生協で店長を務め、当時神戸にあって千葉の房総から被災者に大量の花を贈ってもらったこと。お礼にと千葉にきて引きつづき生協の働き手になった。

定年後 経験を買われて全国各地に呼ばれて防災体験を語っている。四街道の自治会などにも呼ばれているという。今回も地震直後から3月末まで仙台に滞在し千葉に戻ったばかりだった。私は久しぶりで千葉市斎場で会うことになった。

この日の体験をとうして私は「大震災がもたらした災害」からの「復興は」

人々がどれだけ深く犠牲者を「追悼」できるかにかかわると思った。日本全体が悲劇を目の当たりにしている。被災地の様子は先日石巻の現地を訪ねたときに受けた悲劇の迫力。被災地のかたがたの艱難は想像に絶する。被災地、被災者ではない私のようなものでも1000分の1でも想像は出来る。想像できるのも人間ならばのこと。被災者や、支援体験者から聞くことで想像が膨らむのも人間なのだ。私はこれまで、このように「人間」に限りない信頼を置いてきたであろうか。

           追悼の意味

犠牲者を「追悼」する中で 犠牲者を自分に置き換え、或いは愛するものに置き換えてみることで支援は単なる復旧支援の作業を超え人道支援になっていくのではないか。

阪神淡路大地震のとき「被災地に生協あり」と全国に報道された。それは「被災地に福祉あり」に近かった。パンや水の生活必需品がすべての被災者に、そして不幸な犠牲者のために何百の棺も用意され安置の場所となった。仮説住宅の土地も提供した。人道的な支援が地域社会の共感を呼び人々は再び生協を支えた。

これより先、人道支援が長期に出来る企業,行政、NPO、個人こそ よりよくいきる活路を開いていくと思う。 被災地での判断は「命」にとって「いいか」「悪いか」しかないと彼は言い切った。支援するにも、書類や手続きを要求する行政。異常事態なのに臨機応変の行動を許さない官僚組織の垣根。働くものの感受性を見殺す組織病。その弊害が目立ってみえた期間であったのだが、にもかかわらず「状況を認識する」ことで人は変わっていくことが出来ると確信した。それは追悼の機会をいただいたことにもよる。かつて阪神淡路大地震直後の4日間 私は被災地を歩き、おびただしい犠牲者の存在を知った。追悼の小さな花が手向けられていた。M氏のいまをつき動かしているのは阪神淡路震災時の追悼の深さではなかろうか。

26日 7時30から 千葉市斎場で 犠牲者の荼毘追悼がおこなわれるという。房総から寄せられた花を持って参列しようと思う。

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 へんさち        偏差値ではないよ 変さちだよ

へんだな

偏差値ならぬ変さち(人間的常識値から遠く近くない値)

どうみても10段法で変だなと思う値に-50を加算する74歳ぼけ老人が下すへんだな値の近似値になる

人間の常識のあり方、方向などのずれている度合の値。といってもいい

事例S2022kazoku2_150

 市議選が1週間続いた。身体の調子が優れず家にいたが、この狭い街(8万人口)に27人が立候補。来るわ、来るわ。すべてが連呼。選挙法では連呼以外認めてないのかな。

 「○○○でございます。」「最後のお願いに参りました」「どうぞ助けてください」「後一歩です」「○○の家内でございます」「この街から出ています」「がんばります」殆んどは連呼。朝の8時から夜の・時まで。27人が入れ替わり立ち代り・・・。耳鳴りとめまいの病気だから言うのではない。何か気の利いたことをいえないのかなー。「助けてください」

私の家族収入源を守るのを助けてください、ときいてしまったが、説明がほしい。。

 広報とチラシをみてみた。全く面白くない。地方自治は市民が出したお金をどう使うか。それをめぐっての争いと思っていたが。殆んどないか無視。一体自治体って、市民って、何なのか。争点がみえない。そんなせっきょってあるのだろうか。

4 議員条例を作った経験も実例もないと聞いた。能力がないにか。関心がもともとないのかわからない。なのにあんなに必死に連呼。何か利得があるのだろうか。それもわからない

5 子育て日本1.うらずけはなにか。単なるスローガンか。理念なき進軍は敗退する。

   道路を福祉道路と強弁した議員もいたなー。

6 ま 90%猛烈に反対があっても24分の1以上入れてくれればいいわけだ。争点が見えないのもむべなるかな。

7  市民の意見をよく聞きます。行政とのはしわたしします。これだけは有権者として実行したい。そうしないと私の偏差値,いや変さ痴はあがるだろうから。

聞く価値はないよとは同じ住民にいわれてしまったが。。

それにしてもこのまちにおられる古老。寂寥感の人たち。病弱の子供たち。仕事がない青年たち。危険な道路。放射能まみれの各地の姿。障碍者施設で働く人たちの労働、耐震構造のない施設。自然の破壊。文化施設の貧困・弱者保護の稀薄、無駄な支出。これは地方自治の政治問題・・・・・、か ってたまたまイタリーの自治体をたづねたとき「最近芝居を見てなくてね」とぼやかれた。答えは週に1回も見ていないということだった。私は年?回。 歌って。踊って。恋をして、飲んで (暇なときに働く・・これは冗談]  ブータンならずともどちらが幸せ。

身近に関心を向けるとわが町だって捨てたものではない。S2022kazoku2_110

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3月11日午後2時46分 この機会にそれぞれに追悼し 近くの人(家族や友人)と話し合いませんか 

3月11日午後2時46分  
この機会にそれぞれに追悼し 近くの人(家族や友人)と話し合いませんか。

   東北を忘れないためです。継続を力にするためです
   そして自分の身を守り、仲間と生協と明日を考えるためです。


実は・・・
 福島第2原発が 第1・第2原子炉のように水素爆発が起きる可能性が大きかったといいます。なかったのは単なる偶然だったにすぎない、と昨日現地責任者が明らかにしました。(朝日新聞は昨日全面使って報道)。高濃度の放射線は
4000万人がかぶり 避難必要地域は首都圏にひろがっていたという。

・・・新聞より・・・その時、国の保安委員、県の職員は現地を撤退し 東電は菅首相に撤退を求ていた。人がいなくなれば2号機だけでなく5,6号機からも使用済み燃料放射線が首都圏にもまき散らされる恐れがあった。
わたしは昨3月から人を介し海外報道に接して危機を危惧していた。しかし「ただちに影響はない」とか「事象のレベルである、」とか「チェルノブイリで煽るな」式の地域内外言動と行政の「安全お墨付き・コンプライアンス?)に取り囲まれ、暗澹たる思いであった。 次々に出されてくる重大事実に私は戦慄を覚えている。

 この機会に大事な人と話したり、祈ったり、子供と話したり、手を合わせたり、東北の友達に電話したり・・・・といろいろ思いを巡らしています。あなたもいろいろお考えのことでしょう。考えてみました。何せ日本の歴史が変り、あるいは変えるべき日なんだから。

 人類歴史の終わりのはじまり(日本の金融機関のトップをしていた高校の友人の年賀から)にならないように、それぞれに「継続する命のこと」を意識しながら みんなでおりにふれて意見を交換したいものです。身近なところでおしゃべりしませんか。私も人生の終わりの始まり‘(後期高齢者直前)に入った。子供や孫の世代は以下の理由で原子力関係の大災害に直面するだろう。せいぜい「それは想定外だった」と言い逃れできない余生を仲間と送りたいと思っています。

 ある方から「・・・本当に大変な世の中になったもので、こうした総合的な視点からあらゆる物事を見直す必要がありますね。今回の震災からそれを皆が気付かないと、亡くなった約2万人がうかばれません。
 その点で各自のできることから発信するのは大切だと私も思います。ただし、相手の理解することが大前提で、そのために多くの方が苦労しています。と


<参考提案意見>


―― 原発はいらない。原発は危ない。原発をすぐやめさせよう
 
              そのため手をつなごう。情報を交換しよう。一緒に無理なく何かをやろう。

すんでいるまちに避難された数人から福島原発過酷事故の体験をきいてみました・・・その1部

私には(  )がいます。カッコ内に( )母親、妻、夫、父・、娘、息子、おじいちゃん、ひいおばあちゃん、孫、おとなりの年寄り、大切な隣近所のお友達いっぱい、兄・弟・姉・妹、ひいおじいちゃん、代々のお墓。代々次いで来た家屋。庭、手塩にかけた農場・用水路は破壊され、海水は上がり、放射能に汚染され,家畜トペットは死んだ。

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トラクター、数々の農機具、思い出の宝物、本。自動車、バイク、木々、ペット、楽器、・・・・まちには公園、遊び場、なじみの街々、のみや、お店、各地の友達、地域のおどり・文化、先生や恩師、行きつけの医者、郵便局。音楽やおどりのサークル・原発地に近い娘夫妻は船を流され家を失い仕事仲間を亡くした、孫は友達と離され 港は放射線にまみれ、壊滅に・・。彼彼女はわが町になじもうとけなげで強い。散歩しながら福島をかったってくれた。 わたしの身に置き換えてみだ。涙を禁じえなかった。

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福島第1原発事故はつながりのすべてを奪いました、家族や隣近所、田畑をばらばらにし・なじんできたふるさと文化を破壊しました、そして安全だと信じ込まされ、事故発生
後も「ただちに影響はない」とされた。原発事故付近で、放射能を浴びました。まだふるさとに帰るめどがなく、途方に暮れています。補償も成立していない。町の人に放射能が蓄積され苦しい病魔が襲いかからないよう願うばかりだ、と

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愛する人、私とすべての仲間を助けてください
私は怖くなりました一緒に考えすこしでも行動しませんか。

1 明日にでも首都圏直下型地震や東海3連続地震が起こる可能性があります。多くの地震学者が警告しています。福島原発の地下にも活断層があったという)今日の新聞)(地震大国 注1)

   大地震によって液状化対策のない東京湾岸沿いに5000のガソリン大タンクがあり、連続した大爆発の可能性は大きいとテレビで法政大教授は画を使いながら説明していました。ぐるり湾岸1滞は何日も続く大火災。湾は千葉、東京.神奈川県の東京湾全体にかかわります。  地震による 首都圏4000万人の大混雑、交通遮断、 各地域の家屋崩壊、広域の大火災の各地での多発、帰宅難民の避難場所。余震 

広域・狭隘道路の壊滅、それによる圧死(神戸の災害死者の約6000人以上の死者の92%は道路に倒れた家屋、家財による圧死でした。  私は地震発生1週間後4日歩き続けて歌詞も道路も壊滅の現地のひどさを確認、その後も仮設住宅などたびたび支援に訪ねました)


                         余談  ある地震の国のある自治体のはなし

市は多くの市議の賛同を得て平成27年まで高架・波乗り道路800㎡37億円をかけ「防災道路」を作るという。そんな馬鹿な。災害は当市、わが町だけに起きるのですか。災害は千葉をこえ広域におきます。

しかも新設道路は、行き止まりです。団地を分断しバス停、小学校、郵便局、自治会館、お店など、子どもとお年寄りが通る生活道路を分断して市内では初めての60キロスピード道路が通る。T字路で道は2方面に分かれるが道が狭く九十九折なので当然みそらの中の外周道路にトラックが入ることが予想されます。

排ガス・騒音、歩行横断の危険性と高齢者が多い団地の静寂が侵されます。第二の開発予定地は道がありません。ここに100億円をつかい千葉らしさをもっとも残す文化・神社・自然景観を破壊すことになります。その計画設計もなく何十年先までかかる。

何にも市民にいいことがありません。いったいこの工事で誰が得をするのでしょうか。

またここは市道ですから建設費は市民ひとりひとりが負担することになります。金がないので借金しかありません。借金も市予算の場合 収入に計上されるのでいつまでも黒字と計上して多くの市民の目をだましてしまいかねません。約50年前に決めたことを1度も見直すことなく進めてはばからないものです。市民の意見を聞き誠実に調べ説明する議員はいないのでしょうか。 

そんなお金があるなら

巨額な金は地震対策で命を守るために使うべきです。液状化,家屋崩壊の中で 食べ物、飲み物、寝るところ・体の不自由な人の安全保証。見捨てられる人たち。 各県各市を超える広域災害。上下水道、ガス、電気・通信など生活ライフラインの長期破壊。・避難所・飲料水・煮炊きできる施設・(実例多数)に。・放射線にも備えたい・・・

加えて、福島原発100万キロワットを超える東海原発の過酷事故発生の可能性、首都圏の大人口への高線量の放射能の飛翔・・・{注2 どうするのだと・・東海町長論文朝日新聞}

福島原発事故を知ってしまった私たちは、もはや子供や孫に「あれは想定外のことだった」とか「悪い政治家がいてね、仕方がなかったことだよ」などといいのがれはとてもできません。

私は首都圏の原発にノータッチ・無関心ではおれなくなりました。また活断層の上に原発がたくさんあることや、ヨーロッパの2000倍の地震国で活動期に入っていることを地震学者は警告しています。

それでも原発の開発、原発の輸出、兵器の輸出をつづけるのか、こえをあげませんか。53基と13原子実験炉。6か所村、もんじゅの原発地域に近く住んでいる方、あるいは知っている方。また沖縄、横須賀、チェルノブイリ、マーシャル諸島、スリーマイル、をはじめ外国の研究発表を知っている方.教えあうシステムをつくりませんか。


2 生涯100ミリシーベルト摂取基準、4月から発効。食べ物、給食、生産物、生き物を守ろう。食べ物測定器を4各地で直ちに設置させよう


100ミリsv基準値はヒロシマ内部被ばくを認めなかった米軍の広島原爆の疫学調査から採用した代物と言われています。1対どんな根拠で設定したのか、基準は世論に押され厳しくなったと言われます。
食べ物測定器を市に設置させよう。1台300万円ていどです。市は高架道路建設1㎡500万円の3・3・1(波乗り道路)の37億円土木予算を27年まで計上しています。だがその前にやるべきことがいっぱいあるはずです。利権か市民の人の命か。(37億円と300万円――1230対1)の選択の問題です。土建行政自治体1230分の1の子育て日本一の名称は不当表示。生産者とかぞく。子供のためにも放射線検査は不可欠です。予算がないという理由では済まされません。


3 廃棄物、焼却灰、汚泥など核廃棄物、放射線物質を含んだものの測定、

最終処分地など公開し市民も協力したい。半減期30年のセシュウムは粘度に吸着する性質があります。体に入ってしまうと体中から悪さをし病魔が人々を長期に苦しめます。(広島の被爆者が後年33万人が苦しみたおれていった)。

私の測定ではこの町にセシュウムは広範にあると思います、結局印旛沼か海に行くと思われます。それがどうなるか、水産学者や広島、チェルノブイリを研究している方の知見を知りたい。

県北の最終処分場に行ったとき最終処分の引取り基準は100ベクレルだったのが昨5月から80倍の8000ベクレルに引き上げられていました。根拠は何も説明されませんでした。基準値をあげたり、あげたり、不信はますます募るばかりです。

いったいこの国は何をしてきたのか、金儲けにつながることが主軸だった。1000兆円の国債。金融危機が危惧されている。さて最終処分地の周りは飲料水源地の看板がたてられていた。1週間前、処分場の水漏れが報道されていた。ここの処分場ではなさそうだが セシュウムは地下に漏れ出した可能性もあろう、県もマスコミは追及しないのも不思議だ。

4 今の時代、人や自分の命、そして子孫を守るためには、守るべき意欲が必要とする時代ではないでしょうか。

今の時代いろんな方と折り合いをつけて仕事をしていくのは避けられません、しかしまちのひとにいい顔してしまい意見も言えず、投票をたのまれた政治家に一切任せ、社会的な問題にかかわらず、市民団体関係者すらも行政の顔色をきにし、議員は行政のチェック機能を放棄し、すりよっていく。議員条例を作った経験もまったくない議員。
こんな中では原発の安全神話が完全に壊れたにもかかわらず、原発の延命を進める野田政権を許す結果になっている。命よりも経済成長神話を信奉するお父さんたちは「閉経後のババーは社会的に有害である」と公然と言ってのけた都知事を高率で当選させた。
福祉や教育を抑え小さな政府(軍事費5兆円)のハシズムの可能性もある。しかしまだ一分だ。私たちはできうる限り事実、真実を知りたい。

結論  足元でのつながりから協同を。
横のコミケニションこそこれからの信頼のキ-ワード、(イカリバキョウデー)
    横とは 普段の生活暮らし、命の輝き、子供。文化。人権。若者、福祉。
その中に実感されるのが ぬくもりであり これこそが人をつなぎ協同に発展。
命に価値観をすえて原発に本気で立ち向かう 。 ぬちどぅーーたから

取り上げるテーマ 
1放射線。内部被ばく。 食べ物測定システム
2原発地の労働体験。福島への支援。広島と福島。
3沖縄   軍と放射線
4原発地の現状。外国。チェルノブイリ。マーシャル。ドイツ。ほか
5具体的な各組織の協同の物語の過去 協同組織のありよう将来。
6きかせたい曲
7紹介したい本。しばい。写真。電波 

 あなたが人に知らせたいブログ、インターネットをよせあい。気付きの機会。私にとっては目覚めの機会を、集め、提供した方の了解のもと知らせ合う

 詳細はみんなの意見を聞いた上で相談という形できめる。できる人からできることで始めていく。  ご意見を求めてから起案にはいります。Dsc05210  

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枯れ葉じじー   のごまめの歯ぎしり

枯葉爺ー   原発いらないと叫ぶのは

みんな死んでほしくないからだよ   わかい君こそだ

私が死ななかったのはね  

たまたま1945-7-1 B29が機首を0,001度手振れしたからかな。仙台空襲では家の前からやけあとだた。

それにナパーム弾が近くに落ちたのに死ななかったのは母と一緒に逃げた方向がよかったのかな

私が74才まで生きられたのは、たまたま広島に生まれなかったこともある。

まごA  たまたま?、偶然に生きたってことかよ。そんなのないよ

いやいや私が死ななかったのは  その陰にこんなこともあったんだ

    ひもじくて、空襲で熱くて地べたにへたバッタ僕が死ななかったのは、

    おじさんが 抱っこしてトラックに載せてくれたからだよ。ほんとだよ。

    氷砂糖を口に入れてくれたんた。そのおじさんか空襲の朝、田舎から迎えに来てくれた親父の弟。どっかの校長さんだった。ご真影を粗末にしたって首になったいわくつきのニコニコおじさんだった。

私が生がされたのはね   その陰にこんなことがあったんだよ。

じいちゃん泣いてるの

いや水玉がまぶたから出たいだけさ

指さきもも、くるぶしも、腕も頭も、みぎ足も全身やけどのなのに生きられたのは きちがいの女がいたからだってさ、この間兄がいってたよ。

子供抱いて着物も、髪も乱して きちがいのようにわめいて、裸足で岩本外科病院まで走たっんだってさ。その女はキオキという名前でね、明治の女学校出だってさ。そんなのぼくはしるかい。でもね

いつもしゃがんで手を温めてくれた。カーちゃんという名まえだった。ぬくもりが今でも手の中に残っている。やけどの手の跡はひび割れていつも血がにじんで出てたよ。戦争中は薬がなかったのかな

。その兄も2011-3・11津波で死んでしまった。 石巻の日赤病院で大腸がんンの手術して、退院して休んでたんだ。にげられなくてね。いつか石巻にいこうね。

僕を生きたもう一つのこと話そうか

僕のとーちゃんは8歳の時息をひきとったンだ。僕はとなりのへやの隅に隠れてなきじゃくった。つくえをたたいてさ。

息を引き取るとき子供たちを頼むよってカ-チャンの手を取ったんだって。

長兄は東京、次兄は学校はねてから夜警に、僕だって働いたさ。中学校。高校学校に行く途中。あるいは学校が終わってから  自転車の荷台に樽を積んで、仙台中のクリーニング店や表具店で使う糊 (コンデンス) を量り売りして走った。

1か月に100貫は売ったんだよ。手はかじかむし風は重いし、ひっくり返ったこともあった。上に馬車馬の胴がみえたっけ。ゆきみちだった。

でも楽しかった。稼ぐのはたのしかった。洗濯の仕事場に入ると、僕らより小さい小僧さんが氷のような水に手を入れてアメリカ兵の服を洗っていたなー。

カーちゃんは大きな風呂敷で しんせきからわけてもらった麩と自分の着物を包んで食べ物と交換のため町の中売り歩いたんだって。僕を生かしてくれたのはカーちゃんかな、やっぱり

カーチャン。

45年前初めて(君の)ばーちゃんの生家にいった。葬儀でいっぱい人が集まっていた。僕は職場から葬儀に列席したのだが、母は僕がやす子のいい人だと知っていたのか、目が少しふ自由だったのか、僕の前に来て失礼にも上から下までジロジロ覗くんだ。そのぎこちなさときたら。娘を思う親の気持ちがぎこちなさの中に見え隠れしてさ、

みごと合格して結婚し君のお父さんが出来た、死道につく病床の中で君を見る様子が去来するなー。じっとみてたよ。アーやっぱりおかさんを生きれのはカ-チャン-のせいか・それから2人はアーしてこーして-たくさんのまごころに触れて死なずに生き延びてきたわけさ。

私の心を生かしてくれた人たち

とーちゃんが死んで一人で家にいたときの寂寥感。わかるかい。、そんな時兄は本を買ってきてくれた。心に太陽をもて。唇に歌を持て。それから毎月、西遊記とか。猿飛佐助とか、ビルマの竪琴。長じてぎけいから三銃志、ゲーテ(ファウストなど)、ニイチェ、スタインベック、

大学に入ってから、原爆の子、トルストイ、ロマンローラン、レーニン。マルクス各種社会科学系の本、共同組合系の本をあさった。しかし私の心を生かしてくれたのは学生仲間だった。また先生だった、、表情、しぐさ、声色、笑顔、ジェッスチア,五感対話にかなうものはないんだ。

「ふきのとう」(ふくしNPO)に利用者さんを迎えに行くと、草花に「のどが渇いたかー」といって水を挙げていたものだ。90さいだよ

、、、、、私の心を生かしてくれた友人先輩については次の機会に話そう。

以上から言えることはね。私は私ではない私だ、私は私ならぬ私、。清水博という人に聞いていたが最近とみにそう思っている。

私の体と心には実にたくさんの方がたの まごころや手数がかかっている、兄弟家族、隣近所、先生、友人親友、目には見えない食べ物を作ってくれている方、本の著者、おばあちゃん、・音楽・・・・

だから私の命はわたしのものであって私のものではない。  これは覚えていてね。さきに述べたように

○私が死に直面したものは、、、、全部暴力でなんだ。戦争然り。原発過酷事故然り。飯館村4かいいtったがに理不尽な殺傷であるのだ。そこには犠牲者がいて必ずそれで儲けるものがいる。

野菜を毎月運んでいる南相馬では泣き寝入り自殺においこまれるものがいる

。○それに比べ私を生かしてくれたのは、愛情、であり、思いやりであり人間的な怒りがだ。東北大震災復興はケアとして展開されている。足元の共同。共同実践のない協同は単なる作業だ。ま きみには難ずかしくなるから次にしようか

(地域のおじちゃんおばちゃん、悪童たち、小中高行の先生、学び舎 職場の友人先輩、、心を死なせなかったたくさんの本たちのことは後篇にまわそう。)  みんな私の心と体を作ってえらーいなかまなんだ。君だって君の命であって君の命でない、君は君ならぬ君なんだ・・・・・・さっぱりわからないよ。まっいいか。

 

やす子の

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芽 目覚め 目覚める夢   希望    3月2日我が家の芽たち

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S2012haname_016 さくらそうがたのしみだ。

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芽とめとまなざしし   その4

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仕事の会の休憩中の会の席を外して周りのお菓子屋さんと人形店をのぞいて歩いた。

私が出かけたISTCという組織は青年は再び戦争で銃を取るまいと  ヨーロッパを中心に学生と青年がおたがいに知り合う。。そのために安い運賃で行き来しよう。とはじまった。ニシヨーロッパ、アメリカ、おーすとらりや、南アフリカ。後に東欧圏10か国が加わった。会は毎年開かれていた。本部はすいすチュウーリッヒにあった。スウエーデンのパルメ首相やイギリスで著名な議員を排、出したとか。私はまったくといってよいほど語学がままならなかったが、会が、終わるころは言葉がわかるような(錯覚)気がしてきて仲よしになった。酒の席になった時には一目散に逃げたが。

彼らは親切だった。会議後アイルランドのダブリン、やオックスホード大学に案内もしてくれて、そのご日本の大学生協で始めた学生共済のじっさいをおしえてくれた。蛇におじえないお菓子好きの貧乏青年の猪突猛進が帰国後はじまった。あれから40年100万人以上の学生が恩恵にあずかったが。日本の学生職員がまじめだったからであろう。いまではイギリスよりもおおいのではないか

さて再び戦争で銃を取るまいと という点ではわたしも人後の落ちなかったがお菓子屋まわりの貧相な私は、世界平和の旗手にはなれなかった・、

しかし彼らに絶対できないことをする事が出来た。四街道にわたしすむことができたことだ。ほとんんどばかげた言い方だが。この地では原発反対の声を聴くことがない。ヨロッパ各地では広範な学生の運動は原発阻止にたちあがっているという。

日本の学生は、1部を除いて知らぬが仏。争点を隠しごまかす社会への批判力を奪ったのはだれか。わたしにも責任のいっぱんはあろう。   四街道の春の芽吹きのすばらしさも知らないだろうなー。いずれ近いうちにみじゅから足元を据える社会日本社会について書きたいと思っている

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芽と目とまなざし   その2

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芽と目と目(子供へのまなざし)   その1

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