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2012年1月

救急車ではこばれて

救急車で運ばれて

昨年来の体の変調が昂じて「めまい、嘔吐、悪寒、体の冷え」で動けなくなり近くの医師の手配で救急車で運ばれ救急病棟に4日間入院してしまいました。その後、家で休養しながら通院検査をしています。

原因は今のところ分かりませんが医師からは「寒くしないこと、1ケ月ぐらい静かにしていること」ということです。初めから頭は痛くなかったことMRI検査で異常がなかったことなどから、その間家でできることを楽しみ早く正常に戻りたいと思っています。しばらくの間予定されたことを失礼することをお許しください。申し訳ありません。

そこで自戒 

      不規則生活に気を付けたい。貴方は大丈夫だと思いますが、私を反面教師としてください 

今回のことで、気になるところがあります。当たり前のことですが体は関連試合で複雑にできているという実感でした。

ここ20年来 私につけられている病名で、今も治っていない、あるいは加齢とともに昂じ、また新たに加わったものは 椎間板ヘルニア・頸椎・脊椎管狭窄症・かるい糖尿病でした。

10年来、排尿に時間がかかっていたのですが、そのうえ昨12月に初めて膀胱炎になりました。今回見ていただいた秘尿内科によると確定はできないが原因は、椎間板ヘルニア・頸椎・脊椎管狭窄による神経系に関係があるらしい。だとすると壮年時からつづく不規則な生活・無茶・運動不足の自業自得かもしれません。後期高齢者仲間入りま近かになって排尿神経をつつき始めたのでしょうか。

貴方は自制されているとは思いますが、70歳前から一層注意した方がいいと思います。私はもう遅いとは思いますが自制に努めたいと思っています。

   自転車には気を付けよう。 自転車事故の後遺症との関連

約5年前の2月4日都内公園内で子供の自転車に後ろからぶつけられ、どんでん返して池側のコンクリート縁石に強く頭を打ちつけ膜下出血になったことがあります。幸い15分以内に脳外科に救急車で搬送され、検査しすぐ止血の処置があり事なきを得ました

脳は1年後のMRIで完治が確認されたが、事故の衝撃で内耳内の器官が影響を受け周りがぐるぐるまわる回転性眩暈に苦しめられました。その後専門医にかかり、ここ3年半は多少の耳鳴りを残し回転性眩暈はなくなりました。しかし今回のフワついた眩暈・嘔吐の原因に後遺症がないかどうか、内科の医師はその可能性も否定できないといっていたのでちかくに耳鼻科の診断がありで聞いてみたいと思っています。耳鳴り昂じています。

さて約5年前に自転車事故にあったことに関し,完治後に友人に知れるようになるにつれ、見舞いの電話やメールで自転車事故がみじかな人の中でたくさん起きており、関係者の中にも重篤な状態の方もいるという、その多さにびっくりしました。自転車事故は自動車事故より軽く見られているが、自転車事故にあう通行人・自転車利用者ともに頭が無防備のため危険が多いのではないか。

子供だからと言って安心は禁物。以来折りに触れて「自転車に気を付けよう」といっている。それにしても市内の道は危険極まる。危険な道路の改修が先だと思うがいかがでしょうか。私は今でも後ろから自転車の気配がすると途端にピクピクし恐怖心にかられます。いずれにせよ自転車には気を付けよう。老婆心ながら記しました。

附  振り返って

いうなれば支えあう地域社会の中にいたことの実感です

○車の中で倒れて30分くらい横になっていた私の車の停車位置」を連れあいに携帯電話で知らせてくれた道路整理の方。

○当日会うことになっていた友人が探してくれたこと。 

○様子を見て救急センターに連絡をつけ救急車をすぐ手配した医師と看護士さんたち

○道中ずっと容態を見てくれていた救急車の職員。何度も目をのぞき、脈拍や血圧をとり、嘔吐の始末をし、連絡を取り、車からベット担架を丁寧におろしてくれました。

○救急センター―の医師、看護士さんたち。それぞれに親切で丁寧。きびきびした連携ぶり、気分がよくなるにつれてありがたさが身に染みました。

やはり私は生かされましたみんなの親切さは本当に身にしみました。 仕事の人も仕事以上の仕事をしていました。私は定年生活10年目、地域で少しばかりのボランテアをしていますが私たちが、ボランテアとしてやっていることは   自発的な互恵的な提携強化の活動ではないのか。  目的と喜びはそこにあるのではないか。できることを楽しくやりたいと思っています。

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追悼の意味 再び

追悼の意味  再び

犠牲者を「追悼」する中で 犠牲者を自分に置き換え、或いは愛するものに置き換えてみることで支援は単なる復旧支援の作業を超え人道支援になっていくのではないか。

阪神淡路大地震のとき「被災地に生協あり」と全国に報道された。それは「被災地に福祉あり」に近かった。パンや水の生活必需品がすべての被災者に、そして不幸な犠牲者のために何百の棺も用意され安置の場所となった。仮設住宅の土地も提供した。人道的な支援が地域社会の共感を呼び人々は再び生協を支えた。

これより先、人道支援が長期に出来る企業,行政、NPO、個人こそ よりよくいきる活路を開いていくと思う。 被災地での判断は「命」にとって「いいか」「悪いか」しかないとM氏は言い切った。支援するにも、書類や手続きを要求する行政。異常事態なのに臨機応変の行動を許さない官僚組織の垣根。働くものの感受性を見殺す組織病。その弊害が目立ってみえた期間であったのだが、にもかかわらず「状況を認識する」ことで人は変わっていくことが出来ると確信した。それは追悼の機会をいただいたことにもよる。かつて阪神淡路大地震直後の4日間 私は被災地を歩き、おびただしい犠牲者の存在を知った。追悼の小さな花が手向けられていた。

以下   Eさんノメールより

祈るだけでいい「永六輔の土曜ワイド」

目が不自由なEさんメールから  永六輔の土曜ワイドにちなんで

(・・・東日本大震災の後、「自分は何をすべきなのか?」      「自分に何が出来るのか?」……このことに苛まされました。「被災地に行かなければ、被災地を見なければ真実は語れない」」……そういう論調が拷問のように感じられました。
そんな時。毎週土曜日8:30~13:00TBSラジオで放映している『永六輔の土曜ワイド』の永さんに救われました。「祈るだけでいい」……私のように身体的制限・家族的拘束がある者にとって、被災地へ直接伺うのはムリです。・・・・参加者にカンパ募るのが関の山です。カンパは永さんが阪神淡路大震災をきっかけに立ち上げた『ゆめ風基金』に支援金といして振り込みました。・・・)

Eさんは語る

年末年始と高橋さんの思いの丈を伺い、改めて考えさせられました。

私の思いのたけの新年のあいさつはこうです

以下Eさんらにあてた私のメールです。


・・・・新年のあいさつメールで寄せられた写真そして詩に感心しています、そのいくつかに私の気持ちを託しておくります。添付写真   ○東京は深大寺の南天の写真が友人から寄せらました。  南天は難を転ずるの意で古来愛でられてきました。希望という名の実です。 生家の庭にもあったなー。おめでたい時につかった。。そうだいまのいえにもある。難転を願って生きる人たちのために実をつけているナンテン    ○福島大学で教師を務めた50年前の学友から「早春賦」をいただきました。 おすそ分けします。世界文学に3がつ掲載予定のものだそうです。言いようのない感銘を受けています。   ○埼玉の先輩からは日の出の光景。   今年数え歳で後期高齢者の仲間入り、人生の終わりの始まり。曙光を目指して仲間と楽しく老いたいものです。   ○千葉からは千葉に飛来して羽を休めている白鳥(npoの仲間から、)四街道のサギ(メダカの会の方から   その付近を散歩、実際にこの目でかくにん)私からは  協同っていい。今さえよければ。今さえしのげば。うちさえよければ。あとは野となれ山となれ。のマネー優先競争社会の風潮の中で被災地に見る協   同。日本の活路は  ここから学んでいくことにあるのでは。福島を忘れたときに破局が来る。分ければ増える心こそ……そのために祈ろうと.人の痛みを悼むことができる人らしさを取り戻すために…祈る。(宗教信仰ではないが、祈る。Eさんありがとう。Nさんナンテンの写真ありがとう)

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北国から   みちのくから  便り

いつもメールをありがとうございます。

毎回読んでいますが、なかなか返信できずすみません。

先日の、子どもたちが原発のことで政府要請している

動画は、涙なくしてはみられませんでした。

職場で声をだして泣きたくなりました。

私も、もっともっとがんばらなくては・・と決意しました。

これから本格的な冬が始まります。

仮設住宅の周りは、岩手の場合何にもない雪の中です。

通常でも寂しいのに、もし一人でいたらどんなにか

寂しい数ヶ月になるのかと思うと・・・。

でも、高橋さんのように忘れずに考えてくれて、足を運んで

くれようとしている人がいることは救いです。

私も、引き続き支援の運動を組み立てていきます。

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協同ってやっぱりいい 

昨年はお互いに大変でした。あなたはいかがでしたか。

何せ日本列島の3分の1が3重の災害にあい、人災の放射線は関東を超えて全国へ、世界へ広がりまだまだ収まる気配はありません。どんなに多くの同胞が身内や知人友人に襲いかかった不幸に涙したことか。

一方為政者は欧米の2千倍の地震発生列島のこの日本で原発にへばりつき、世界には武器と原発を輸出しようとしています。文字通り死の商人。今さえよければ。今さえしのげば。うちさえよければ。あとは野となれ山となれではないか。

被災地でない3分の2の国土にも危機がボデーブロウのように効きはじめ、日増しに激痛を伴って不透明のまま今年を迎えました…。

私は孫子に大丈夫だ、安心しろと言えないじじーです。昨年100万人口仙台市に近い女川原発付近の被災をこの目で見てからというもの危機感は募るばかりです。数え年では後期高齢者の仲間入り、人生終わりの始まりです。私の人生の終わりの始まりが「歴史の終わりの始まり」とパラレルになる可能性はないのか。杞憂でしょうか。解はないのだろうか

私は人の何十倍、何百倍の艱難を味わった被災者や現地の人に耳を傾けることから始めるべきだと思いました。12月に 3つの詩に出会いました。

一つは当市に避難してこられたTさんの     福島慕情 直接聞く

二つは福島で教鞭をとってきた年来の友人からの    早春賦 の詩 

三つは 評論家佐高信が取材した        ここ孫子に残す町   雑誌で読む

 いずれ添付しますので読んでいただければ幸いです。私には言霊のようでした。生きる意味「解」といえば大げさに聞こえますが、元気をもらいました。

また12月25日直接出会った場面があります。

   協同ってやっぱりいいと思いました。

S125_001

千葉県飯岡町漁協近くの旭市の被災者仮設住宅200世帯への週1回の炊き出し支援に誘われたときの光景です

被災とその後の艱難さは想像を超えますが、当日の被災者の笑顔が何よりでした。支援者は元の私の職場の仲間が40人でした。職員の子供たちもそろっての支援ぶりもいい感じ。写真のように今回は豚汁・おもち・ミカンに・マスクでした

私は豚汁鍋を持った被災者と立ち話しました。

  私 「この仮設住宅に住んで半年以上ですね、大変ですねー。そんな中何かよかったことは?」と水を向けると

  被災者Aさん 「 何せ  なんでも分け合うようになったこと。おしんこも2切れ、3切れで、ミカンも1個づつ分け合い. この人はねとなりの方を指さしてこの辺の漁師さんが持ってきてくれるイワシをつるみにしてみんなに分けるの、これがおいしいんだから」

  被災者Bさん 「みんな前のプライドを捨てて 友達になれた。私はつみれを作り、Cさんはという風にそれぞれ持ち味出し合ってよ。一生の友達になった」

  私       「隣近所、付き合いも乏しいのが都会ですが、うらやましいなー。皆さん飯岡漁港の近くで津波にあったんですよね、 もともと 付き合いがあったのですよね」

 被災者 「それが、それぞれ1軒屋でね。変なプライドがあったしね。みかん一つずつ分けるなんてなかった。それがなくなって仲良くなって・・・・・・」

     「 そうですか、いい話聞いちゃった。ところで支援の人たちはどうですか?」

  被災者 「みんな親切でね。今日もこうして声をかけてくれるし。・・・・・」、

協同っていいかもネ  

 人間はみな人の痛みを感じとって行動に移せる素晴らしい存在かもしれません。東北・福島頑張れではなく,耐えながら助け合っている被災者から学んでいく。添付した詩3篇はそれをかったった詩です。この流れが大道になっていくにつれて希望が生まれるのではないか。協同の出番だとおもいました。枯れ葉じじーは依然ごまめの歯ぎしりですが。時代の波動を感じて2012年を迎えました。

福島慕情    千葉に避難された方が12月18日当市の 核兵器廃絶平和と文化の集いで福島体験を30分語り語り、最後に東北にちなんだ歌謡曲の替え歌で心境を語り、700余のの聴衆の涙を誘った。

双葉へ戻りたい

 あの街へ

福島平野に雪が降る

昔双葉で

 暮すと言った

幼馴染はどうしてる

ああ帰りたい帰れない

想い届けよイヤーイー

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