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2011年6月

放射線  蛍の身になってかんえろよなー  蛍のお出まし

昨年書いたもの

メダカとホタル  四街道が誇る自然の遺産

                     

トンボとかえると小鳥に昆虫  みんな違ってみんないい

四街道に住んでよかったことは?   なんと言っても緑が豊かだからよ

  市民の10人中8~9人はそう答えます。東京から手軽なところにこんなに緑があるなんて     

何で緑がいいの?  やすらぎかな。目に優しいし。 ほっとするし。 すむのに持ってこい

ほかにも緑の恩恵はいっぱいあるよね!!  それは 水を蓄え命をはぐくむからだ。

     里地の豊かさは天下絶品。お米に野菜に果物も命。

     トンボとかえると小鳥に昆虫 そうそう蝉も。めだかや蛍は千葉でも有数

            子どもが育つのにいいところだね

そのめだかですが全国めだかシンポジューム四街道大会が8月8~9日文化センターで開かれるって言うんだ。   

そりゃーすごいめだかや蛍の生息は千葉でも有数だから四街道に白羽の矢が来たんですね。?   いやいやそれもあるがめだかや蛍の生息出来るような環境保全にに長年つとた市民の取り組みがあったからでしょうね

そして今年  6月29日

トンボとかえると小鳥に昆虫   みんな一緒に放射能

            何も悪いこといていないにね。

                

       ひたすら…今さえよければ…うちさえよければ・・・・・原子村

          

蛍の身になって考えろよなーTop_anatagaite

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3・11を期に日本の歴史は新たな転換点を迎えています..大江健三郎

大江健三郎の言霊に接して、来し方を自戒。

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3・11を期に日本の歴史は新たな転換点を迎えています

「日本の近代の歴史を、広島や長崎の原爆で亡くなった人、ビキニの水爆実験で被爆した人、そして原発事故の被害にあった人という三つのグループの視点から見る必要があると考えてきました。この人たちの境遇を通して日本の歴史を見つめると、悲劇は明確になります。そして今日、原子力発電所の危険は現実のものとなりました。刻一刻と状況が変わる中、事態の波及を抑えるために努力している作業員に対して敬意を表しますが、この事故がどのような形で収束を迎えようともその深刻さはあまりにも明白です。日本の歴史は新たな転換点を迎えています。いま一度、私たちは、原子力の被害にあい、苦難を生き抜く勇気を示してきた人たちの視点で、ものごとを見つめる必要があります。今回の震災から得られる教訓は、これを生き抜いた人たちが過ちを繰り返さないと決意するかどうかにかかっています。・・・・・」

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大震災の中で ほっとしたもの 常磐線 坂元駅  壊滅の中に 

 3,11以降、東北みちのくにいくこと3度 いくごとに事態が深刻になっていることを感じる。

でも仲間に会って、語り合えて、一緒に歩いて、一緒にみて、気の遠くなるような艱難の様子

をうかがっていても その中に「不幸を分かち合って生きる姿に」にうたれる。

16人の犠牲を追悼する合同慰霊祭に誘われてでた。

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なくなった16人一人ひとりに追悼の言魂が添えられていくのだが、

その日までの日々の様子が、まるでその人が前にいるかのように語りかける。

一緒に働いた仲間がどんなに大切だったか、その人ならではの感謝の気持ちが伝わってき

て涙を誘う。「貴方が大切にしてきたものを、大切にするために貴方の分まで、働きます。」

このとき私は「遺志を引き継ごうとする言霊ほど美しいものはない」、と思った。追悼の気持

ちがふかければ深いほど  この生協は地域から頼りになる存在へ茨の道を進軍するの

ではないか。葬儀委員長の専務の言葉にうそはなかった。

慰霊祭を終えた後 友人2人の案内で 仙台の海岸沿いから福島方面にむかった。

平地の津波震災地はこの世のものとは思えない。又、福島方面に向かうにつれ携帯してい

た放射能測定器のメモリが序序にあがっていく。

車は名取市ゆりあげから、友人のいる山下に向かった。常磐線坂本駅のそばを通った。

400軒ひしめいていた駅前にはもう何もない。見渡す限り空漠。荒涼。その中に生命の息吹S615_034 があった。

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みやぎ 地震 津波、女川原発地にたちて。その3 原発は本当に無傷なの

その3 女川原発は本当に無傷なの?

女川原発門入り口で、敷地内はだめのサインでUターン。すぐ海岸下に急勾配の降りる道があり、降りることにした。NHKの車が通ったので、そのあとをおってたどってみた。そこは原発から1キロ以内とみた。。

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海岸下へ車で降り初めて最初に出会ったのは。

S6811_219 屋根の上に車、民宿か。さらに降りると海辺。原発の建物が見える。

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壊れた車を避けて写真を撮るとそこは静かな入り江。白い建物・・・あれが

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180度回れ右して後ろを見ると

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横に動いて前の海をとる

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巧みな?撮り方で海を採るとそこは静かな入り江だった。

鳴砂の名所と標識にあった。

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しかし海岸沿いに後ろ方面に少し下がるとそこに見たものは

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私には女川原発が 無傷だったとはどうしても思えない。

福島のようにならなかったのは神のご加護ですか。

家に帰りインターネットで調べると過去に何度も故障があったという。

今回も1時電源が切れたときいた。福島原発とどう違うのか。

国と東北電力に情報を公開し、説明責任をもとめたい。

ここは100万都市仙台が近い。おびただしい震災での屍に死の灰の化粧の危機はなかったのですか。

ここは私の故郷です。おいやめいがたくさんいます。私を育んでくれたところです。

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みやぎ 地震 津波、女川原発地。その2 亀裂 山崩れ 瓦礫の 中に見たもの

女川原発への道路。いたるところ亀裂、山崩れ、片側通行。

石巻から、女川にはいり廃墟と化しした中心街に降り立ち めぐっ

ていると電柱に原子力PRセンターまで9キロという標識にであっ

た。時間は4時を回わっている。明日の葬祭に間に合うように帰れ

ばいいと思いいけるところまで行くことにした。たまたま工事して

いた人に聞くと30分もあればいけるよということであった。

自由にいけるようだ。

約9キロの道筋で見たものをそのまま載せるする。

S6811_180 女川から牡鹿半島へ

S6811_186  亀裂  そして亀裂

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第6小学校の門標、右側に見え自動車を止めた。子供たちはどこに逃げた?

S6811_202崩れた右路肩

S6811_204 標識に女川原発への矢印

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S6811_208   続く

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みやぎ 地震 津波、女川原発地にたちて。その1 そこは警告の地だった

兄の100日供養で石巻を再びたずねた。津波が命を奪った家、8日間コンクリーットの上に袋ずめで600遺体とともに安置されていた青果市場、義姉が避難していた学校をおとずれた。あれからもう3ヶ月遺体はーーご遺体の照会は特徴を記したものだけになっていたがーー身内を待っていた。小学校体育館の避難所にはまだ204人。避難所は統合され、避難者はこの避難所はまわされてくる。だからいつも満杯だとか。

「やっと夫がわかったとき、よろこんだのよ。私ニコニコ顔だったの」。 松島まで開通の仙石線の車中で隣合わせたご婦人が夫のご遺体とやっと対面したときの様子を同行の連れ合いにかたっていた。

「ニコニコ顔」という言葉にわたしは胸を突かれた。「避難所生活も3月になると特に男の方は怒りっぽくなっていくという。私はどんなことにも、どんな時にも「ありがとう」といっている。「亡き夫が私にそんな気持ちにさせてくれる」彼女は亡き夫に生かされていた。松島から連結バスで石巻に向かっていった。

私は松島で1泊してなじんだ地、たとえば被災の牡蠣の養殖地などによった後、南松島をとおり、石巻に向かった。おいの車で通る途中のすべてが被災地なのだ。幼ないころ通った海水浴場は見る影もない。その状況のパノラマ風展開に釘づけのまま石巻に入る。石巻の浸水地と人々の営み〔店など)にたちより、なき兄にかかわる場所をめぐった後、残る2時間を使って女川に行くことにした。以下写真で示したい。

女川の町は壊滅状態といってよい。女川原発から直線で7キロ。

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S6811_168 S6811_158

S6811_175    S6811_176

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しーんとした静寂の町。ここにいた人たちは一体どこにいったのか。

町の中心街だというのに住民の姿はまったくみあたらない。工事のヒトが2^3散見されるだけ。ほこりに包まれた見わたす限り壊滅、全滅のまち。人気のない空漠の町。言葉では形容のしようがないが異様な・・・。

にぎわったであろうマリンランどは瓦礫も流されていた。高台に病院がみえる。コンクリートの3階建てのビルが底をあらわにひっくり返っている。3階建ての建物がひん曲がった鉄柱だけ残して後は何もない。

 残った柱に女川原発PRセンターの方向が提示されていた。そうだここは原発地だったのだ。誘われるように両側瓦礫の道をいくと 女川原発PRセンターまでの距離が9キロと記されていた。時間がなかったがつい誘われて道沿いに車を走らせた。道路工事の方が30分も走ればいけると教えてくれた。さてそれから見たものは・・・・

  

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故郷仙台へ再び。

再掲

友人の皆さん。

不幸があなたを襲っていないことを祈ります。

今あげて支援、救済の行動のときです。

同時に今進行中の巨大な不幸を未来の破綻につながないように、根底からわが身を見直し、新しい未来選択へ仲間と歩みたい。

GDP第1の近代化がいかにもろいものであったか、集中効率化システムが被災拡大の原因に転化し、日常生活で、便利だったものが不便になり。原発安全神話が崩れていく様子をこぞって目の当たりにしています。東海沖地震、房総沖地震、首都圏直下型地震がいつ起きても不思議でない期間射程のなかに入りました。(これから30年間の発生確率87%)今月73歳になったわが身ですが。成長神話を壊さないかぎ負の遺産は継承され次世代が苦しむことになる・ 

 

明日再び仙台へ。

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枯葉ジジーの観た光、初夏・花・ 緑

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S66_112 これがいい。

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 ああ もう初夏なんだ   樹 から 気 をもらって気持ち穏やかに

朝の散歩  7時   おしゃべり散歩

嗚呼もう夏なんだ 3月12日からあっという間に・・・

生き物の気配

樹から気力をいただいて

深呼吸   気に抱かれれ 手を当て

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木からでた気     気持ち 与三郎

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神社  清浄なただずまいS_052

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南相馬市で見たもの、聞いたもの その3

南相馬市で見たもの、聞いたもの    その3

南相馬市学校給食センターにて・・・「まあーうれしい」と飛び出してきた職員

避難者の多くは故郷、南相馬に戻ってきている。2ケ月におよぶ避難所生活の限界。親切にされればされるほど申し訳なさが募る知人や親戚への気持ち・故郷を思う子供の気持ちを汲んで・・・等などから。

当然子供も一緒だ。4つの小学校が、1つの体育館(前川原体育館)で8クラスにわかれパーテーション-で仕切って授業がはじまった。音楽の授業は響くから無理、体育は屋内規制だから他の体育館へ。

育ち盛りの子供たちへの給食は?先生職員たちが受け持った。

必要数は2750食。食材、人手の不足。ご飯は週3回(米は支援物資から、週2回のパンは地元から)13日から汁物とおかずが付いて少し改善。・・・・・・・・・「まあ、うれしい」と笑顔で飛び出してきた背景がここにあった。その場面は8人の目と心にしっかり焼きついた。

問題は必要数が1日、2,750食だということ。わずかな1回だけの支援では全く解決しない。市の関係者の苦労は並ではない。この町は大震災、放射能、の艱難の真っ只中にあるのだ。

原発地域の子供たちを見捨てないで!!・・・国民的課題。・明日はわが身の問題です・

国や県は、そして東電も責任を取り、早く、1日も早く、具体的対策を!!私たちの四街道市と市民は、福島の原発被災地域に出来ることはないのだろうか。少なくても、知ることはできる。善意を伝えることは出来る。先生職員が「まあーうれしい」と飛び出して来たシーンが教えてくれた。行ってよかった

福島近くのサービスステーションにて

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