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2011年5月

南相馬市で見たもの、聞いたもの その2

この場所でご遺体が見つかったのだろうか。花が手向けられていた。

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原発事故により避難指示、屋内待機のため行方不明者捜索は421日からようやく

開始。20キロ以内は、捜索も大幅におくれ進まないという。

行方不明の家族が見つからないので・避難できない方も多くおられるという。

死者539人、怪我59人、行方不明226人。津波被害家屋5966棟。

四街道市よりやや少ない人口の都市わがまちにひきつけてみるとぞっとする。

水も空気も、食べ物も汚染、放射能の恐怖。強制退去の指示への不安。住み慣れ

たまちの景観、故郷の喪失の現実。

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南相馬訪問在宅介護センター

ヘルパーさんたちの自動車がならんでいる。

ヘルパーさんが押し、利用者さんが乗る車椅子が瓦礫の中に見えた。もしかして

ともに津波にさらわれたのでは。いやきっと逃げ延びているに違いない。でもテ

レビでは移転先で体の具合が良くなく認知症が嵩じ倒れていく方が多いという。

どうかヘルパーさん利用者さん共に元気でいてほし・・・・・・。26人が亡く

なったと後でしった。

遠くに見える海岸線。かつて311日までは緑の樹陰が連なる海岸だったことだ

ろうそして爽やかな風がわたるところだったことだろう。次の瞬間・・・・

あまりに

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も痛ましい。いたましすぎる。S19_040

津波がすべてをさらった屋内、訪問在宅介護センターの標識、瓦礫の中の車椅子、決して忘れまい。

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南相馬市で見たもの、聞いたもの。5月19日

南相馬市で見たもの、聞いたもの。519

そこは地震・津波・原発の巨大複合災害地だった

 南相馬市 人口72万人――福島第1原発から2030キロ圏内17,300世帯、20キロ圏内4,100世帯、30キロ圏外2000世帯。市はバスを用意して避難を“勧告”呼びかけたという。県内外164市町村に避難。うち福島県内30市町村に 6万人避難。町はゴーストタウンになった。

2ヶ月経過し、20キロ圏内を除いて、3万人が自宅に戻ってきており、避難しなかった1万人を加え現在4万人が市に在住している。避難中の3万人のうち11,431人が公的避難所624ケ所に避難生活中。(アオギリ世話人のFさんとかつて同じ職場だった方の奥さん、看護士さん、――の説明

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放射能なさらされたこいのぼり4匹

{以下写真と説明} アオギリ世話人のHさんの車と運転で400キロ。 四街道市を朝5時に出て11時半着。説明を受けた後 南相馬市北原地区、海岸から2キロ内陸地点、第1原発から2325キロの地域に案内され、私たちの目に焼きついた光景のいくつかです。

海岸から2キロまで津波が押し寄せた。

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圃場はまるで船の墓場。田んぼはいつよみがえるのか。

市内の田んぼは塩害、用水路破壊、また放射能で、全市あげて耕作中止を決定。いつ田んぼ

としてよみがえるのか見通しはまったくない。311日事故発生後2ケ月間も隠蔽されていた原子炉メルトダウンが昨日明るみに出た。あのときからすでにレベル7だったのだ。最悪。

永久に田んぼが甦らない最悪の事態だって予想される。そうならない様切に願う。レベル7のチェルノブイリの25年の経緯と今、を知る必要がある(添付検索を)。

    つづく

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 福島原発    0さん家族を襲ったもの

oさん家族を襲ったもの

双葉町は 福島原発(第5基 6基)から10キロ圏にある。駅前通りの上にかける大看板に「原子力明るい未来のエネルギー(上写真テレビより)」を掲げた町だ.

11日大震災後の津波で孫家族が家を流された。せまる津波を真後ろに見ながら逃げに逃げ9死1生をえた危機1発の孫家族を迎えていた。その翌々日の10時10分、まちの広報マイクは「すぐ避難」せよと。

Tさんはよもや帰られなくなると考えも及ばず、ジャンバーを引っ掛け

奥さんは、エプロン姿のまま。家族が乗る車は町指定の川俣町にむかった。途中枝

道から避難してくる町仲間と 互いに道をゆずりあい、普段は1時間の道に10時

間かかり川俣町へ。真っ暗闇の中家族は車で1夜をすごす。

その日から・・・・・・・。故郷、ヤギ、犬、7代のお墓、蔵、家屋、畑を奪わ

れ、馴染みの友人、子供たちの友達はばらばらに。牛は生殺し~~~そして四街道

のみなさんの暖かいご配慮。顔で笑って心でなく日々です。孫たちのこれから

が・・・

「原発安全神話の溶解」小出裕章  検索

         

◎(BCCにて送信)小出さんが、5月13日大阪の第七藝術劇場で講演しました。

(紹介文より)
小出氏は事故直後から、これまでの展開を科学的に見通し、警告を発していました。
その小出氏が、現在進行形で危機が拡大している福島第一原発の問題はもちろんのこと、
「原発」の過去、現在、未来について、わかりやすく語ります。
小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)『 原発「安全神話」溶融 』 小出裕章
 講演 55分  トークショー 63分 (118分)
    http://hiroakikoide.wordpress.com/2011/05/13/7gei-may13/ 

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科学の進歩がもたらした人間の不幸?ある被爆者の・・・・・紹介

以下はある懇意の被爆者からのものです。被爆による病魔で人生をずたずたにされながら  茨の冠を付け誠実に戦い生きてきたひとに.耳を傾けたい。

科学の進歩がもたらした人間の不幸? 

        

 若き学究徒マリー・キューリーは、1898年ウランやトリウムなどの原石から発せられる蛍光放射現象について、radius(ラテン語・放射)からradioactivity(放射能)と名付けて、夫のピエールと放射線の研究に生涯を捧げました。

 後にラジウムやボロニュムなど放射性元素を発見してノーベル賞を2度も受賞しました。

 晩年、彼女は放射線に侵され、指が曲がったまま、眼が見えなくなったのでした、1934年彼女は再生不良性貧血(白血病)で亡くなりなしたが、その時「暴いてはいけない自然を暴いてしまった神の崇りなのかしら?」と、嘆き洩らしたそうです。

 福島の原発事故に怯える今の日本の現状を見て、思い出させる「開けてはいけないパンドラの箱」を開けたキューリーの今際の嘆きの言葉です。

 現在の進歩した科学の恩恵の中で生きる自分ですが、66年間に原爆の惨劇を生き延びた被爆者として、また一人の信仰者として、常に、放射能兵器の反人間性にのみ眼を奪われてきたように思う。

 核兵器廃絶への執念を原発問題で持たずに、潤沢に電気を使い、その発電の現場で何が起こっているのかを考えたことがあったろうか?否です。

 核物質が発生させる「放射線」の恐怖を知る人間として、不明を恥じる思いです。

 決して、推進者たちの言う「安全神話」を鵜呑みに信じていなかった人間として、現場で生まれているであろう「被爆者達」へ目を向けていなかったのであろうか、と。

 今回の事故で見受けられる発言「今、直ちに健康障害が生まれるのものではない」とか「想定を超える震災であった」などは、人間の自然・神への不遜の言葉でしかない!

 人間が自然・神へ今少し謙虚であったなら、科学の進歩による解明されたデーターに対して、恐れを抱き対応をして来たであろう、と思うのです。

 科学の進歩は、本来、決して不幸ではなく恩恵の筈であり、人間を豊かにするものでありましょう。

 それには常に、人間を超えたものに対して、謙虚に恐れを抱く存在であるべきだ、と教えられた思いです。

 ましてや被爆者ならば、放射線物質の常に発する放射線が如何に人間を蝕むものであるかを知っている。

 自分の体に発症した内部被曝の現象を、原子爆弾と言う兵器にばかり捉えられながら語ってはいないだろうか?兵器と違い熱線・爆風はなくも、放射線の影響についての害悪は、全ての核物質に共通して存在、と本気で語ってきただろうか?

 特に、成長期にある人たちへの放射線影響を知らせ、核物質の使用には危険と隣り合わせの実態を知り、その使用は将来までも考えるが不可欠である、と。

 嘆きの日々を送る晩年を悲しみ祈る思い

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仙台  仙台弁  せんでー弁

仙台弁

3,11を境に仙台弁が面に出てきた。

仙台弁では「恥ずかしい」ことを「おしょすい」とか「おしょすいこった」(このイントネーションが私にはえにいえない響きがある)とか言って裏に隠れていたものだ。

ところが大震災から日がたつにつれ、「悲惨」さの中にあって耐えに耐え、ひたすら家族と隣人を支えあっていた「ががさん(母、妻の意味)」たちがテレビ画面に堂々と出て仙台弁で語るようになった。そのたびに何かほっとする。

彼女らは「俺(おら)やんだ」(嫌いだの意)といってもう隠れない。福島原発に抗議する女性たちのあの「強さ」も見た。福島べんもいい。

私は兄の命を奪った石巻の現地光景を思い出すたびに足がすくむ。しかし、海岸沿いの「ざいご」(田舎の意)の人たちは、毎日足がすくむ環境の中にあって「こええ」(疲れた)とか言っておられず、「ていご」(おたがいに)におどけ(冗談の意)たりしながら必死にこらえ「かしぇえでいる(働いている)。「ひすて」(1日中、昼夜を問わずの意)戦っているのだ。

私たちは〔日本は〕みちのくの{がか}たちから学ばなくてはならない

それにしても「ぜいご」(田舎)で被災を受けた子供たちの様子、私には「もぞこく」て(不憫で)しょうがないのだが、時に見せるあの笑顔は日本中を励ましている。私も励まされる。

来週仲間と共にまたみちのくを訪ねようと思う。仙台のことを私が育ったころは(せんでー)とよんでいた。

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