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2011年4月

追悼の輪が広がった

 お骨を乗せ大型トラック2台は陸前高田に向かった。当地には1600体のご遺体が残っているという・・・。お骨が陸前高田にかえり身元がわかるように願って

この日追悼に立ち会った千葉市民は 県社会福祉協議会 四街道福祉NPO法人ふきのとう〔陸前高田に介護士派遣支援〕、四街道平和と文化を守るアオギリの会 災害ボランテアア協議会、千葉県土建  ちばコープ、ルポルタージュ作家、などが手を合わせて見送りました。今回で千葉市斎場での荼毘は終わることになると追悼を組織されたM氏が閉めました。だ第1回目の荼毘には蕨佐倉市長が追悼されました。〔当日房総みんなみの里の花、みそら団地Aさんが育てた花、ふきのとうから参加された方々の思い思いの花束が手向けられた。

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東 日本 大震災 犠牲者  追悼     陸前高田          

Ss20_003_2 追悼  

20日 早朝 8時に 出会った事を語りたい。

場所は千葉市斎場。千葉市緑区平山町。

この日 36人の方が荼毘にふされた。陸前高田の震災犠牲者であった。

私は たまたま知りあいからの知らせでたち会わせていただいた。

         その日、朝の荼毘

火葬入り口回廊に横付けの大きな車2台が遠くに見えた。

その車からご遺体の御棺が一体 一体と降ろされ台車に載せられて廊下を横切り、私たちの視界から消えていく。ご遺体が廊下に見えるたびに10人に満たない人たちがご遺体にむかって手を合わせた。そこは立ち入り禁止の簡易柵の外側であった。ご遺体から60~70mもはなれていただろうか。花が3束手向けのために用意されていた。

荼毘に付された36人のお骨がおなじ台車で 再び車の中に安置された。終了を待って車2台が私たちの横をとおって視界から遠ざかっていった。後を岩手ナンバーの乗用車1台、目礼してすぎていった。そのとき斎場から離れたところには自発的に立ち会った10人の和尚さんの読経が静かに流れていた。 早く岩手にかえってなつかしい高田にめぐり合ってほしい、そんな思いで手を合わせた。御骨は400キロ以上離れた陸前高田にむかっていった

         それまでの普段の暮らし、培ってきた絆が

この間どのぐらいの時間が経過したことだろう。ご遺体が運ばれ視界から消えていくごとに思いが重なっていく。棺のご遺体は3月11日までいいおばあちゃんだったにちがいない。この棺は甘えん坊の男の子。次の棺にはおっかない親父さんかなー。この棺は漁師さん。家族との夕がいを楽しみに魚を取っていたかもしれない。

3月11日までは一人ひとりには当たり前の暮らしがあった。普段着姿のやんちゃな子供といいおじいちゃん。おじいちゃんには漁業の町を背負った履歴があったし、誇りもあったことだろう。

しかし「次の日この人たちは突然 流され、つぶされ、身元不明になっていった」。

今日の火葬を私に知らせてくれたMさんは帰り道 そうつぶやいた。私も同じ思いだった。今もこのご遺体の肉親友人は安否を求め、海岸や瓦礫の中を捜し求めているに違いない。つづけてMさんはいう。ご遺体の肉親の人たちは「このご遺体が、岩手を遠く離れ、これまで無縁だった千葉の地でこうしてお骨になったことすら知らないかもしれない・・・・」

あまりにも不条理、むごい。自分が生きてきた証を認めてもらうこともなく、500キロも離れた見知らぬ千葉で、  焼かれ  見送る人もなく 大型のトラックで運ばれていく。緊急のやむをえない事情は理解できる。しかし被災を受けなかった千葉の地で替わって追悼することは出来る。追悼に見えられたのは近隣の市長ではひとりだけだったという。わびしい。これでは浮かばれないではないか。

    福祉を貫くことが真の復興。Mさんが語ってくれた

私はMさんに話しかけた。「どうしてあなたが火葬追悼を取り仕切るようになったのか。わかるようなきがしてきた」。

自分からかってでたんだよ。~~~」「「せめて花だけでも手向けたかった・・。

Mさんは神戸と 新潟長岡と 東北で 三度震災地で被災者救済に向き合った人だった。阪神淡路大地震のとき生協の店長を務め、当時神戸にあって千葉の房総から被災者に大量の花を贈ってもらったこと、そのお礼にと千葉にきて引きつづき生協の働き手になった。

定年後 経験を買われて全国各地に呼ばれて防災体験をかたっている。千葉の各市や四街道の自治会などにもよばれているという。今回も地震直後から3月末まで仙台に滞在し千葉に戻ったばかりだった。私は久しぶりで千葉市斎場で会うことになった。

この日の体験をとうして私は「大震災がもたらした災害」からの「真の復興は」人々がどれだけ深く犠牲者を「追悼」できるかにかかわると思った。日本全体が悲劇を目の当たりにしている。被災地の様子は先日石巻の現地を訪ねたときに受けた悲劇の迫力。被災地のかたがたの艱難は想像に絶する。被災地、被災者ではない私のようなものでも1000分の1でも想像は出来る。想像できるのも人間ならでばのこと。被災者や、支援体験者から聞くことで想像が膨らむ。

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           追悼の意味

犠牲者を「追悼」する中で 犠牲者を自分に置き換え、或いは愛するものに置き換えてみることで支援は単なる復旧支援の作業を超え人道支援になっていくのではないか。

阪神淡路大地震のとき「被災地に生協あり」と全国に報道された。それは「被災地に福祉あり」に近かった。パンや水の生活必需品がすべての被災者に、そして不幸な犠牲者のために何百の棺も用意され安置の場所となった。仮説住宅の土地も提供した。人道的な支援が地域社会の共感を呼び人々は再び生協を支えた。

これより先、人道支援が長期に出来る企業,行政、NPO、個人こそ よりよくいきる活路を開いていくと思う。 被災地での判断は「命」にとって「いいか」「悪いか」しかないと彼は言い切った。支援するにも、書類や手続きを要求する行政。異常事態なのに臨機応変の行動を許さない官庁組織の垣根。働くものの感受性を見殺す組織病。その弊害が目立ってみえた期間であったのだが、にもかかわらず「状況を認識する」ことで人は変わっていくことが出来ると確信した。それは追悼の機会をいただいたことにもよる。かって阪神淡路大地震直後の4日間 私は被災地を歩きおびただしい犠牲者の存在を知った。たくさんの追悼の小さな花が随所で手向けられていた。M氏のいまをつき動かしているのは阪神淡路震災時の追悼の深さではなかろうか。

26日 8時から 千葉市斎場で 犠牲者の荼毘追悼がおこなわれるという。房総から寄せられた花を持って参列しようと思う。

附1  福島原発が人災として浮かび上がり チェルノブイリと同じレヴェル7の世界最悪のレベルになった。この日 バンギブン国連事務総長は 国連事務総長はとして初めてチェルノブイリの地に立ち「世界は悲劇から学ばなければならない」と主張しロシヤと日本に情報の透明性を求めた。

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春の晴れ しみじみのどか、 

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追悼 二人称の死

追悼 二人称の死

この世で二人称の死ほどつらいものは無い。

この春 どんないに多くの”貴方”が奪われたことか。東北の太平洋ぞい200キロにわたる海岸では人々の生死は紙一重だった。おばあちゃんと孫が、子供と母親が、夫と妻が、先生と子供が、兄弟姉妹が、お友達同士が、隣近所同士が 仕事仲間が、一瞬で生死を分けた。

3週間後、私は海岸近くの瓦礫の中に立った。ここで、まさにここで、子供の名を叫びながら波に流されていった親、しっかり赤ちゃんを抱いて消えていった親子、妻と夫が引き裂かれていったであろうこの地。想像をはるかにこえ、人間の言葉では表現できない。。どんなに無念だっただろうか。どんなに悔しかっただろうか。もしかして最後に許されるその想いすら奪ってしまったのではないか。

  生死をつなぐもの

ある人が

波に押し流されながら木にしがみついて助かった。孫を探し回った。孫の誕生のとき記念に植えおいた梅ノ木が瓦礫の下に生きていた。今や梅ノ木が“孫”になった。大事に育てたい。生きるはりができた。孫が彼女を生かした。テレビがそう伝えた。

     お母さんとおばあちゃんが生きていたときしたこと、私にしてくれたことを忘れないで生きたい。

     これからつらいことがあっても、ふるさとのために前向きに生きたい。私は(亡くなった)家族も好きだった釜石をだいじにしたい。

     僕は全てを失った。でも、もっとつらい人もたくさんいることをこの避難所で知った。その人たちのために力になりたい。〔高校生〕

尊い死は生きる者たちへ、生きる意味を、生きるはりをあたえていることがわかる。

亡くなった人々をねんごろに追悼していくことが自分の生きる糧となる。息を吸うことを絶たれ 悲劇に巻き込まれた「あなた」はこの時5万人を超えた。そしてふえつづけている。あなたの悲劇に涙をからした人々は その何十、何百倍、何千倍に上るであろう。あなたへの追悼が深まるとき 見知らぬ人たちも親しい「あなた」と見えてくるようになる。

みちのくにゆかりがあった故井上ひさしが「受けた恩」の見知らぬ人への恩送りこそが21世紀の希望と看破し、自分の生き方でそれを示し、この世を去った。今それが名もない無数の貴方たちで始まろうとしている。人々のぬくもりで。人災の根をたちきる長い旅路に。

手元に高校の新1年生が、大学の新1年生と、新1年生同士で写った写真がある。写真をまえに何万の人たちに黙祷をささげたい。

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たまには、癒しの曲を

たまには、癒しの曲を。(CMですが・・・)

《森の木琴》  最高!!!!
    http://www.youtube.com/watch?v=C_CDLBTJD4M&sns=em

《上を向いて歩こう》《見上げてごらん夜の星を》  これもいい!
    http://www.suntory.co.jp/enjoy/movie/d_s/880953901001.html

             本土の友人へ、私へ 、 沖縄の友人から。きずかいがうれしい。

どこでも春だよ  桜だよ。  みんな光を向いてるよ、生きてるよ。久しぶりそろって散歩

みせたかったなー。今見ないともったいない。

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この地域は 昔からの田園光景、まちらしさを残すかづ少ない地域のひとつ 現代の桃源郷。ここにも開発の手が。人間っておろかだなー。よってたかって「成長」の既得権益集団のいのままに任せたことが震災を人災に変えた。自然に畏敬をもたずに制御できるとするおごり。原発事故チェルノブイリと並ぶ最悪のレベルに2段階格上げされた日に。この世界は未来の生き物からの預かり物なのに。

      

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石巻・東北関東地震・・・・4月3・4・5日

私の体験  2

(石巻・東北関東地震・・・・4月3・4・5日)

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4日・・・粉塵がまう瓦礫の一角に「支援ありがとう」の張り紙がひらひらしていた。5人を乗せた車は石巻バイパスを通りしばらく津波のつめ跡を両側にみながら北上川にさしかかった。石巻大橋から見る両岸沿い、津波が遡上して総なめにしたであろう爪痕のシーンが目の前にひろがった。・・・体がこわばった。車は目的地にむけてやや長いトンネルをくぐった。トンネルを抜け海岸方面に向い左手におれて住宅地はいった。 嗚呼。なんたる惨状。地獄としか表現できない。避難したのではないかと一縷の期待していたスーパーに残がいをかき分けてたどり着く。目の前には無残な姿形のスーパー。周り1面の惨状が異様な静寂の中に目の前にあるのだ〔写真添付〕。彼の住まいの4階建てのアパートが見える。通行止めのか細いロープが行く手をさえぎる。ここは312日阿鼻きゅうかんの渦巻いた場であった。

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こどもを流された親・親を失った子供・孫を探す祖母・低学年児童の下校後に地震が起こり児童数十人を失った小学校。

その小学校が避難所になり、ここにたどり着きあるいは救出された人たちがいる。彼の妻はここで8日間ぬれた着物のまま、補聴器もなくし、夫をなくしおそらく狂乱状態ですごし、やっと1分間だけ許された電話で同じアパートに住んでいた避難者から 福島に住む彼の娘に伝えていただき、東京、千葉、仙台と径由し もう一人の娘夫妻に伝えられ、二人は入市可能な道をたどり 避難所で顔面紫色になっている彼女の母親に出会ったという。

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(以下伝え聞き)娘のところで過ごした3日目地震時の様子を語り始めた。地震後に住民全体に声がかかりアパートの多くが外に出たという。彼は76歳がん手術後の人工肛門をつけた病人だった。歩けなかった。途中で戻って階上に逃げようとした。戻ったとたんに津波が襲った。部屋の中で天井すれすれまで浮き上がり津波が引いた後 家財を掻き分けて階上に向かった。彼は妻の背中を押して上り始めた。が階段最後のところで尽き果てた。それが最後だった。階上の人は彼を一緒に家の中に引き入れてくれた。一晩この家で過ごした。余震と真っ暗闇。そのときその方の小学校6年生の子供が帰らなかったという。失っていた。

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彼女が避難所に救出されてから彼の遺体は救助に入った人が運んだのか、10日後青果市場敷地の 袋に包んだままの600体といわれる身元不明遺体置き場で袋に入っていた。探し回ったすえむすめ夫妻が偶然に見つけた。手続きや検視抜きにはもちだせない。身元不明者の土葬が始まろうとしていた。許可を取り3日後やっと宮城県山側の市外の町にはこぶ。フランを防ぐドライアイスがない、棺がない。しかし田舎のリレーで安置所が見つかり、隣町の火葬場が引き受けてくれた。私を乗せた車は安置所に向かい 出がけにTさんが私に届けてくれた花を棺に入れた。唯一の花だった。霊柩車を手配し火葬場にむかいだびに付した。仙台の彼がの父母が眠るお寺に安置し 和尚の行為で五経を済ませ80を超える彼の姉に付き添って東京へ、千葉に遅く着いた。場面が浮かぶたびに震えが出る。

希望

しかし被災地の被災者の中学生が避難所「おじいちゃん私に何でも言ってください、なんでもしますからテレビ)」と声をかけている様子がふたたび浮かんでくる。子供たちは希望です。僕も何でもしますから。

東京駅からバスが開通しやっと席が取れた。リックで乗り込みました。もちろん手ぶらでは気が引け、連れ合いは クレヨン14個、靴下32足、にぎにぎ懐中電灯20個。聞きつけたFさんから、綾取り毛糸。塗り絵、折り紙の軽いもの。 私はくず湯20個通院ついでに薬局で仕入れ  アオギリの辻マサンから絵2点とはな束。同行の80歳の姉からは仙台味の煮付け大なべ。

これらすべてが涙を持ってよろこばれました。

 アオギリの辻マサンから絵2点  物語を添付します。

  • すべては臨機応変できることでながーく。私の場合 日本社会の存続が揺るぎはじめているなかで子供が希望であり最大の財産ですから、子供の成長のため守る行動をしたい・S345_044

昨日仙台から電話あり。私の通った海水浴場のビル。キャンプを張った宮戸島。自転車で仲間といった矢本に小学校は全滅に近い、何でもよい支援がほしいと。支援が及んでない地域東松島町。仲間と一緒にそれぞれの我が家が支援物資を集め持ち寄って送ることはできないものか。検討したい。

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