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常識 本当の常識、

常識には二つある

先日の私のブログは、ルーズソックスから始まって話を広げてしまった。

広げたついでに自分に言い聞かせるために「常識」について考えたてみた。

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1つはその時代に社会通念上「常識」と見られてきたものだ。これをAとしよう

「男女7歳にして席を同じうせず」とか「妻は夫から三歩さがって」とかは戦前のいわゆる常識。女性に選挙権のなかった時代の話だが当時の人々を自明なこととして縛り付けていた。戦後はサラリーマンが多くなるにつれ「男は仕事、女は家庭」という役割分担がいっそう強まった。別に「男は家庭、女は仕事」でもいいのだが、男女の賃金格差が大きいのでそれを許さない。多くの企業では「男は仕事、女は家庭」は自明とし、その逆はそれこそ異端、非常識視してきた。しかし男性の報酬で1家を養えだけ保障せず、且つ企業はやすい賃金で雇えるパート労働に期待し女性は、保育園など子供教育の社会基盤のない中でフルタイムの仕事は出来ず、常識、非常識ない交ぜのすがたになった。それが社会の現実になっている。もちろん性的差別は憲法上は否定された。現実に合わないから憲法を変えようと堂々という改憲論者はよもやいないとは思うが。かくいう私も仕事にかまけ家では殆んど連れ合いに頼りきって来た。

もう1つの常識は、時代を超えた「何か」である。・・・これをBとしよう。

夫妻のむつまじい姿は誰にもほほえましい。

男も女も家事と仕事、双方こなして支えあう。これは人間的だ。愛情とか子育てとか利害損得抜きの人間的営みである。人間的な営みから疎外された多くの男性たち。上下関係、横の競争にさらされ続けて数十年。協同を目的にした仕事で幾分緩和されてきたが私も男の端くれ不幸である。一方他人に役立つ社会労働に従事し得ない女性。仕事を通して自分を生かせない多くの女性たちも不幸だ。学歴も意識も能力も飛躍的に高まっているだけに能力を生かせない。躁鬱男女が増えるのもゆえのないことではない。。

こうした現実の背景のもとで以下のような場面にであった。いびつな意識状態。印象に残る。

その一 かつてタイのバンコクのチュララコーン大学の社会学の先生が 会合を終えた後日本人観光客がたむろするところに私たちを誘った。広い遊郭街へタクシーで向かった。そこで目に入るのは口にすることもはばかるおぞましい「光景」だった。なぜ彼は私たちを連れて行ったのか。その意味はすぐわかった。日本人はタイの知識人には尊敬されなくなっていた。

その二、最近あるところで赤線をなくしたことが日本の若者をダメにしたと、飲みあって語りあう紳士たちに出会った。男の“甲斐性”とかいって外国での”買春”、を自慢しあっていた。行状がわかればきっと家族から尊敬を失うだろうに。

その三 かって 所用で東南アジアを廻ったとき、たまたまホテルで隣り合わせた 企業マンはこの国の官僚は”買収”しやすいよといったのには驚いた。賃金は1万円以下だという。買収しやすい。ウエイターを怒鳴りつけている日本人もいた。

その四 地域の福祉にかかわる人たちに聞いた話。傍目から見ればあんなに大変なのに、どうして介護の仕事をしているの?と聞くと、自分の妻や自分の母の介護で世話になったから、今度は私が助ける番だと。・・・彼や彼女は高齢者や障害を持つ人に心からやさしい振舞いの笑顔であった。恩を受けた人にお返しするのではなく知らない人に恩送りをしている。これには誰しも感謝をこめ人間的な共感が起きることだろう。

四で示したものこそが未来につながる現実であるといっていいのではないか。幸せは、しのぎを削って手に入れようとする単なる物やお金ではなく、人と人との関係が生み出す創造的な何かに違いない

食べ物も。子育ても。仕事も。音楽も看護も人と人との関係をはぐくむ。必ず笑顔がある。ちょっと考えてもすべてが命そのもの、命の輝き、命の尊厳につながっていることに気づく。

日本の社会は今閉塞感が漂っているという。不思議なことに近代文明が進めばすすむほど地域社会の親密な支えあいも喪失し続けている。近代化が進めばすすもほど、人々の貧富の格差は広がり排除が広がっている。貧困係数(ジニ係数)が先進国中1番高いのが文明近代国アメリカであり、次いで日本なのが何よりもその証拠であろう。中国も開発近代化が勢いを持って進みはじめた。札びらを持った中国人が日本各地に見えるようになった。開発独裁のエジプト。チェニジュヤでは貧富の差がひどく民衆の反撃が始まり混迷が各国に連鎖し始めている。

経済成長がすべてを癒すという日本の常識はいまや虚妄に終わろうとしている。そんな時代はもうこない来ない。成長よ再び。50年先10お年先のためにお金を使えとうまいことを言って、これまでの路線にしがみつく権力を持つ政治家にしばらく混乱させられるだろうが、、「人間らしさ」をどこまでも{希求}するひとびととともに

ここらで発想を替え

『人間常識への発酵を見て取る眼こそ、進歩の眼であり、モラルの眼であり、文学の眼である」(哲学者 戸坂潤  科学的精神の探求 1936年刊)という立場に立ちたい。それが幸せの道(福祉経済)に止揚されるという研究がある。勉強したい。

私が生まれる2年前、国を挙げて戦争に向かってひた走る時代にすでに時代を見透したひとがいた。彼は戦前獄中で弾圧され敗戦7日前に45歳でなくなった。哲学者「戸坂潤」。50年ぶりに思い起こした名であった。Photo

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コメント

日本の実力者は、問題解決の能力はないが、事態を台無しにする力は持っている。
これはちょうど、我が国の神様のようなものか。
自己の意思は示すことはないが、その祟りは恐ろしい。
だから、民は閉塞感に襲われることになる。
耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでいる。

総理大臣もくるくると変わる。
雉も鳴かずば打たれまい。
個人選びが、個人の意思選びになっていない。
日本人の個人には意思がなく、この国にも意思がない。

意思はなくても恣意がある。
だから、個人の恣意を警戒しなくてはならない。
個人主義は、利己主義 (恣意主義) と間違えられることが多い。
だから、当然、自由のはき違えも起こる。

意思のあるところに方法はある。(Where there’s a will, there’s a way).
意思がなければ、解決方法もない。
問題解決の能力はないが、事態を台無しにする力は持っている。
無為無策でいれば、閉塞感に襲われる。

腹案はあるが成案がない。
成案のある人たちが集まって話し合いをすれば議論になる。
成案のない人たちが集まって、議論をすれば喧嘩になる。
成案・意思には筋があるが、腹案・恣意には文章がなく筋がない。
が、そこで恣意の摺合せをすれば談合になる。
談合を行えば、話の筋を考えることなく決定を行うことが可能になる。

理想があり、それに対する成案を用意しなければ、現実を動かすことに対する人々の協力を得ることも難しい。それは、意思決定に支障が生ずるからである。
そして、無力感にさいなまれることになる。
ここにおいて、人々は耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶことになる。

投稿: noga | 2011年2月 8日 (火) 10時58分

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