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2010年3月

春っていろんな色がある.でもむかしに比べて少なくなった。

<春っていっぱいの色ある.でもむかしに比べて少なくなった。

僕 「春はなんかウキウキするよなー。花があるからかなー」 「そう、まず雪わり草が咲いて、椿、そして梅が咲き、こぶしについで木蓮、水仙、さらに桜が咲く。そうそうその前には菜の花が咲くわ。春っていっぱいの色あるね S20103_21_010_2 僕 「樹木S20103_21_003_3の春の葉っぱの緑もいい。淡い色から変化していくのがいいなあー。でもね、田んぼや畑はどうだろう。君が育ったころはどうだった」

「田んぼには蓮華、畑には大麦、小麦、ソラマメ。春になるとジャガイモやサツマイモの植え付け。とうもろこしやインゲンの種まき。いつも野菜や麦などで青々をしていた」

僕 「今はちがうナー。田んぼは枯れた雑草だらけになってしまった。蓮華なんて見たこともない。畑に大麦、小麦もないし、春一番ではもうもう砂塵が舞い上がる」

「私は花粉症にかかって、目がかゆく、くしゃみが出て、肌がかさかさ・・・イライラ。昔はこんなことなかったのに」 僕 「菜はな黄色。蓮華の紅。麦の緑といった春の彩りは昔のこととなってしまった。めだかの学校もない。コンクリート張りの小川?ではね」 「どうしてそうなってしまったのか。わびしい気持ち」

僕 「それははっきりしている。アメリカに過度に譲歩し依存して輸出主導型の経済を作ってしまったからさ。農産物の輸入が際限なく続き、日本の農業を壊してしまった。結果、自然破壊の急速な展開。止め処もない乱開発。土地投機、土地急騰、ついにバブルははじけ、荒れ果てた国土が残ってしまった。戦後の歴史は 国敗れて山河あり  から 財界富んで山河なし」

「どうしたらいいのかね。孫たちがかわいそうだわ。先だって田んぼを描いた絵が両総用水協同組合から表彰されたといっていたが、あの田んぼも無くなるかしらね」

僕「失ったものは大きかった。里山、里地の荒廃、といった目に見える変化だけじゃなく、一方で浪費と拝金思想がはびこってしまった。モラルと一緒にゴミのポイ捨て。ゴミだらけになっている。命と自然を取り戻すことに本気になれるかどうか。政治の改革のために私たち国民の意識が変襟以外にない意外にないのだが」

「生活の豊かさって何でしょうね。ゆがんだ豊かさは病的だね。根本から変える。期待は孫たちに託してね」「でも今私らは、楽しいよね。朝市でおいしい野菜が手に入るし、貴方はゴミ拾って豊な気分になれるし、近くの人から花の苗をもらったり、狭い庭は今花盛りだし・・・贅沢はしなくても結構豊な気分だし」

僕「70才にして開眼か。粗食で育った僕らには、なんでも食べ物がおいしいし、あの色とりどりの田畑は思い出せるし・・・他人の庭先の花を見て散歩もできるし、年金生活でも結構毛だらけ・・・だ」

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梅林  1500本の梅  横芝の坂田城址梅林  見事

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梅林  1500本の梅  横芝の坂田城址梅林 2月末から 3月上旬見事

   千葉県で最大の梅林を観てきました。

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このところ ちょっと疲れた。少し休みたい。でも横になるよりは花をみるほうがいい。それ

は今が旬の梅が一番だ。

の香りを胸いっぱい吸たい。梅がいっぱいあるところがいい。出来たらはじめてのとこ

ろにきたい。くにないかなー。

インターネットをのぞく。あった。あった。横芝の坂田城址跡に巨木が1500本とあった。1

間でいけそうだ。でも半信半疑で出かけた。土曜日でしかも昨日と打って変わって上天気。車がこむかなーと覚悟したが、でも実際は車は田園をのなかをすいすい走る。強風で敬遠されたのだろう。あっという間に横芝。坂田公園に車を置いて向かいい側の丘陵の上までえっさこら上る。上がると、各梅農家の手入れ行き届いた端正な樹齢の梅林そこかしこに。   

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Photo_4 来年もまたくるぞー。

Photo_5 農家の人との会話も魅力 百聞は一見にしかず。百見は1香にしかず。

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ビキニデーに参加して  マーシャル、ロングラップ島からこられた島民

会場を埋め尽くす全体会や分散会

28日 と1日のビキニデーには全国から多くの方が集まり会場を埋め尽くす全体会や分散会が行われました。私は3分間ですが求められて全体会で発言しました。 以下私が出会った心に残る発言をメモから幾つか拾ってランダムに紹介しましょう。 S201039_084_2

(マーシャル、ロングラップ島からこられた島民)

1954.3.11、島の上に、ヤシの実や、バンの樹の上や、野菜の上や水の上に雪が降った。

しばらくしてみんな枯れていった。子供たちは雪のようにして遊んだ。口でなめもし

た。水も飲んだ。空気も吸った。2日後に避難命令が出され島を離れた。米軍基地に

収容された。マーシャル諸島の島民の多くは置き去りにされた。聞いてさえもらえな

かった。多くの人が苦しんで死んでいった。――――日本で闘っている人たちを知

り、こうして会うことができて日本(の運動は)は私たちの希望となった。ビキニデ

ーの集いそのものが島民を励ますものになっています。ひとり残らず帰ったら伝えま

す。

(注マーシャル島で被爆した島民は爆心地(クレーター、直径2キロ 深さ80メートルの穴

が一瞬にして出来た)から福竜丸とほぼ同じ160キロ離れたところで被爆した。被爆範

囲は600km以上、何と広島で落ちた水爆が千葉県民の頭上に死の灰を降らせたと同じ

ことである。1体こんな兵器をどこでつかうのだろうか。核抑止論者や核武装論者に聞

きたい。1~2“発で日本は全滅,死の灰は 偏西風に乗ってアメリカ本土も襲うこと

だろう。1958年までの12年間に67回もの核実験がマーシャル諸島で繰り返され

た。放射能は当時まだ生まれていなかった子供にも奇形児、白血病、などをもたらし続けた。食べ物もうばった。

ところで島民への災害保障はない。だまされたと気づいた島民たちは裁判に訴えてい

る。

アメリカ人はマーシャル島で被爆の事実を殆んど知らないという知らされて

もいない。

広島、長崎のビキニの被爆体験国の私たち日本人も殆んど知らない。

 彼女の父はロングラップ島の議員だった。日本に来て”助けてください”と訴えた。こ

の声を聞いて運動に加わった日本人もこの会場に来ていた。)

コメント

この国に 言論の自由  報道の自由 

 知る権利 がありさえすれば こんなむごいことを人はとは許すはずはない 。 戦勝国の悲劇  アメリカ

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 続き    私が出会った心に残る発言  ビキニデーにて

続き

私が出会った心に残る発言  ビキニデーにて

28日 と1日のビキニデーには全国から多くの方が集まり全体会や分散会が行われました。私は3分

ですが全体会で発言しました。 以下私が出会った心に残る発言をメモから幾つか拾います。 

         

紙芝居を作った身延山高校 佐治さん。

北は礼文島から沖縄の波照間まで250回 幼稚園児から98歳のおばあちゃんまで

 私は小学校6年のとき「禎子」の話を聞きました。私は身延山高校で青少年赤十字ボランティア活動をしている

中で、たくさんの子供に禎子さんの平和の祈りを伝えたいと思い、紙芝居を作り、保育園園児から98歳のおばあ

ちゃんまで、北は礼文島から沖縄の波照間まで250回、紙芝居をしてきました。広島の平和公園では聞こうが聞か

れまいが11年間やってきました。中国やテニアン・サイバー島にも行こうと思います。

アメリカはイラクから撤退しない。アフガンからもしない。私はオバマ大頭領に正義の心をよみがえらせたい。

だからニューヨークに行きます

 私たちは戦争を知らないからこそ、今を生きるものとして、被爆者の心を受け止めて伝える責任があると思い

ます。折鶴の心を持って殺人兵器に立ち向かいます

一人の命を尊重することほど、すばらしいことはありません。お互いに思いやりを認め合うことを「折鶴」にこ

めて訴えていこうと思います。(会場全体を包む拍手が続いた。私は必死にメモを取ったが途中欠けています。

多くのひとたちに聞かせたいと思いました。。)

大石又七さん

(昨12月四街道で講演されたときと同じ感じでした。)の全体会でのうったえ

 (広島県の1000倍の威力を持つ)水爆実験による放射線を頭の上に、毛の中に降り注いだ。放射能は骨に蓄積

していった。・・・保障はなく、保険もおりず、ただ差別だけ残った。多くの被爆諸氏は沈黙することが唯一の

選択になった。私も焼津を離れ、わが子の死産のショック、がん手術もしたが、しかし、沈黙を強いられ苦悶の

中で一人欠け、二人欠け、三人欠けていく中で無駄死にさせてはならないという内側からの声に押されて明らか

にした。調べるうちに私をはじめ被爆者に言われていることがうそであることがわかった。本は4冊になった。も

うまっぴら、再びあってはならない。戦争さえなかったら原爆投下はなかった。戦争につながるものはなくそ

う。世界への災害救助隊に変える。全世界に貢献し日本が尊敬される道はこれだと思う。

(来日しているNPT ニューヨーク行動の全体責任者のジョセフ、ガーソンさんは大石又七の功績をたたえて

いました。四街道で40冊売れた大石さんの本は英訳されていました20103_001

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ビキニデーで焼津にいってきました

久保山さんの遺言 原爆の犠牲者は私を最後にしてほしい・

初めて焼津市でのビキニデーに行ってきました。

久保山さんの墓を見下ろすところに

原爆の犠牲者は私を最後にしてほしい・・・という久保山愛吉さんの遺言が記された看板が掲げてありまし

た。 その下で1954-ビキニ被爆者の墓前祭がもたれました。

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みんな久保山さんの遺言の執行者になろう。」 

 

 続く焼香、献花の中 墓前祭の読経や 誓いの言葉を聞きながら私は「原爆の犠牲者は私を最後にしてほしい」と苦悶の中で息を引き取った 久保山愛吉さんの遺言の執行者たちを廻りに見ていました。1100人が参列していました。

ここはヒロシマ、ナガサキについで56年前核廃絶を求める声が全世界に広がっていった発信地でした。私はやっとここにたどり着いた気持ちで身が引きしまる思いでした。

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墓前祭はあらゆる宗派を超えて活動している日本宗教者平和協議会が主催していました。各界か

らの誓の言葉がつづきます。80歳の被爆者のドイツ文学者の小西悟さんは「来る日も来る日も

最後まで私は核兵器廃絶をいい続けます。人類を恐怖から救うにはこの言葉しかない。私はあと

少しの命です。若い人の申し上げる。バトンを渡します」と。焼津市長の清水泰氏は「平和市長

会議のメンバーとしてニューヨークでの5月の再検討会議に参加します。第5福竜丸の母港であ

る焼津市は核兵器による被爆の恐ろしさを訴えつづける責務であり~~核兵器のない平和な社会

の実現に向け全市民が1体となってより強く全世界にうったえなければならない」とメッセージ

をよせました。   したの写真は久保山さんの眠るところです。遠方に見える平和な海

平和な海を願って眠っています。横須賀にはいる原子力空母に原爆をつんでいることがかくされ

てきました。Untitledppp

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