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2008年6月

誰でもよかった

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絶望的な事件は今後多発

誰でもよかった  この時代のキーワード

秋葉原の事件報道に接して

Y「いつ巻き込まれるかもしれないねー」

私「恐ろしく物騒で不安な社会だね。犯人は殺す相手は誰でもよかった。つい先日、駅のプラットホームにつき落とした犯人も誰でもよかったと言っている」

私「誰でもよかったは時代のキーワードになったね。どうしてこんなふうになるのか、どう思う?」

Y「自分に関心を向けてほしい願望じゃないの。誰も自分に関心を向けてくれないからだと思う」

厳罰対処と言うけれど

私「そうには違いない。けどどうして孤立感が。そして絶望していくのか。甘えるな、とか家庭の責任とか自己責任とか厳罰対処とはよく言われるが」

Y「それでは解決しないよね」

私「全く。犯人は  派遣労働者でいつ首きられるか保証はなかった。ビクビクしていたのではないか。小さいときは勝ち組になるように勉強し進学校にはいった。しかし勝ち組になれなかった。落ちこぼれた」

Y「そんな子いっぱいいるよ」

絶望的な事件は今後多発  命の大切さを

私「そこが問題だとおう。今や青年の半数は派遣労働者。弱者に冷たい労働環境が変わらないと、絶望的な事件は今後多発していくのではないか」

Y「○○ちゃん(孫子)の将来心配ね。どうすればいいのか。命の大切さを体でしるような育て方が大事と言うけれど」

私「僕は幼いとき親の死に目にあいひどく悲しかった。こわい親父だったが。死ぬ間際に  もうだめかもしれない、子供たちを頼んだよ、と言ってお袋の手を握って息を引き取った。これを聴いてから親父は僕らのために生きてがんばっていたと知った。悲しむことで命の大切さを知った」

Y「それだけでいいよね。一緒に生きている事がわかるような」

私「そうか、そうだよね。親子だけでなく隣近所の仲間やおっちゃんや先生や 学校の友達 、仕事の仲間 みんな一緒。他人と一緒だからこそ自分がある。  70才にしての心からの実感です」

Y「身近なところでですね」

私「人を物体や名無しの数でしかみない日本社会がいとも簡単に殺す、相手は誰でもよかったの背景や根っこがあると思えてならないのです」

もっと病

大人も子供も身近なところでの自然な助け合い分け合いが一番、これが文化にならないと。とか何とか言っちゃいましたが、殺すのは誰でもよかったと言う多くの事件を知ってまじめにそう思いました。他人よりももっと早く  もっと多く  もっと大きくというミーイズムがあおられ、格差差別がつづく限り犯罪はもっと多くなるのではないか。

   ここらでこぞってしわわせ観を転換し  何が幸福か  身近な地域、暮らしの息吹く居場所作で力をあわせたいものです。

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被爆者を世の光に

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5月6月   被爆者31人が遺影を持って厚労省前に座り

こんだ。

大阪、仙台の高等裁判所が 被爆者認定の国のやり方は

おかしいとした判決を下した。もうくには上告をやめてと。

被爆者の窮状にもうシランプリしないでと言う世論が盛り上

がった。各政党も「重く受け止める」国会に足を運ぶ被爆者

にこたえた。S20086_080_2

自民党も民主党も  各野党も「s20086_093.jpg」をダウンロード

前向きだった。「s20086_118.jpg」をダウンロード

しかし雨の日も座り込みはつづいた

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厚労省が2つの高裁判決の上告は断念したが たの裁判は続行し基準を変えないと

の立場を表明したからです。13回の裁判も 国側が敗北したのに、各政党も見直しを求

めているのに、おかしい限りです。

平和は  政争も 思想も  宗派を超えた問題です。命が失われれば  対立も競争も

出来なくなるからです。このあまりにも自明のことがみんなで平和を求める根本です・

放射能被害の残酷さ  おぞましさを  身を挺して訴え る被爆者。

対するに放射能の被害を狭く小さくみる政府の63年間の施策。この誤りは すべての判決が明らかにしました。千葉地裁のA原告の最終陳述と原告だが  今度被爆認定され

Bさんの文を次にせます。

  

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続きの写真

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上48年前の学生。デモに出ないものはひとりもいなかった。

S200866_145_3   魯迅の脾

S200866_138_2 200866_046 陸軍病院跡   200866_047 入院していたところ  爆撃の跡地

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今のうちに「いっぱい食べておけ」「遊んでおけ」

「故郷は遠きにありて思うもの」といわれる。しかし私に限って言えば故郷を離れて50年弱、本当に故郷を思ったのかどうか怪しい。たまに抱く懐かしさ以上は出なかったのではないか。わたしの前後15(~20)年の年代はヨーロッパの100年に匹敵するスピードで都市に集中した。故郷の農業や地方経済が壊され職がなく東京とその周辺(大阪や名古屋とその周辺  次いで北海道の札幌、九州の福岡、東北の仙台といった風に)に人口が集中した。次の世代もそれにつづいている。こうしてお百姓さんは私の高校時代の40%から数%の高齢農業従事者に減ってしまった。その付けは世界的食料危機の中でいびつな日本に顕在化していく事になる。

今のうちに「いっぱい食べておけ、早晩食えなくなるぞ」と語りかけてきたのは著名な経済学者大内力先生であった。5~6年前のさるパーティーの席上であった。事態はもっと深刻のようだ。今や野菜までも4割が輸入、その中にはくだんの中華餃子も含まれている。

飢餓の国からも金に飽かせて食料を運び当地に格差をもたらしている現実はどう見ても品格ある国とはいえない。食糧や石油確保のための生命線を守るためまたぞろ軍事力強化をしたい為政者も危険である。

みちのくの田畑は抜けぬようにきれいだった。これを耕し続ける苦労は並のものではない。営農を続けるように世を挙げて支える道が未来を守る唯一の道であろう。久しぶりのみちのくに足を運んで考えたことであった。

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実にふるさととは仲間との「遊び場」だった

   泣きたくなるようなきれいな山川木々 自然まちなみ景観  人の温さ ふるさと景観の喪失は 単なるわびしさをこえる。幼い頃なじんだ友達や町並み、道 木々緑の風景は その後の人生のあり方になにがしかの糧になっているようである。世の中ではこれを原風景と言うらしい。

病床の兄とも 同行したよたよた歩きの姉や兄 休暇をとってアッシー君を引き受けた甥や姪たちとおしゃべりで改めて気づいたことであった。水浴びした川(今は遊泳禁止)でのこと 空襲に遭って逃げまどったときのこと、疎開先のこと、学生時代デモに参加した事(学生は当時一人残らず参加したものだが)が隣近所や親族に伝わり周りからたしなめる視線にあったときのこと、等々このときの会話は一冊の本にも出来る分量があった。

アッシー君をわずらわせて郊外にも出てみた。泣きたくなるようなきれいな山川自然まちなみの片鱗が目にはいった。あそこでああしてこうして遊んだ事、その中には必ずと言って良いほど仲間がいた。

道中の一泊は学生時代の友人たちとであった。当時を種にして今のことの語らいとなった。同時代を生きてきたもの共通項―理不尽への怒りや少数の弱いものへの共感―で思わず肩を抱き握手したりだった。その立場で学究や実践の半生を送って来た仲間もおおい。(  写真)

ふるさとは  「命の輝き」をつないでいることを否応なく示してくれた。一方ふるさとの喪失は人々を「土の景観」から離し「浮遊状態」に否応なくおいこむようである。10年前6500人の命を一瞬にして飲み込んだ阪神淡路震災の現地を幾度となく訪ねた。家や町並みが破壊され仮説住宅にうつった人たちわけても老人たちは地震のショックとなじんだ景色や人々から切り離されて浮遊状態になり徘徊し中には死に至るひともいた。新設の公営住宅にはいって続いたと聞いた。

この時以来  日本に起きる諸問題(社会病理)の根っこにふるさと喪失があると思うようになった。この国では富国を掲げた華やかな近代化の陰で地域から離れた生活がつづいてきた。遠距離通勤で地域は寐倉にかわり子供は鍵っ子ないし事実上{母子家庭}となってひさしい。子供たちは身近な地域の自然)の中で遊ぶことで人間に育っていくという。(脳の研究者からきいたことがある。その意味で我が家の近くに鳴く虫はー子供たちの永遠の友達―と言って鳴く虫を大切に育て子供たちを引き込んでいる人がいる。素晴らしいと思う)。

しかし事態は一層逆に進んでいる。子供たちは地域の友達から切り裂かれたところの進学校を目指し、勝ち組を含めて「落ちこぼれー実はおとしこぼされたのだが」が待っている。いろいろ理屈めいたことをかいてしまったようだ。 実にふるさととは仲間との「遊び場」だった。遊びながら興味ややる気をはぐくむ場であった。こうも時代が土から離れてしまっている中では 今いるところが「ふるさと」になるようにお年寄りも含め、子供がかわいいと思うすべての人が協力することが大切だとおもった。これ以外に未来はこないのではないか。

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ふる里(故郷)は近くにありて思うもの

見舞いと墓参りをかねておぎゃーと生まれ育ったふる里にいってきた。約1週間かけて。

「小田原、 田―んぼまえにみぃて~毎日通うは私たちぃ~、よく学校へ元気よく~」と荒城の月の作詞者 土井晩翠(注)作詞の小学校校歌のメロディーが口をついて出た。しかし学校の近くまであった「田んぼ」(ふる里)はすでになく、ビルに囲まれるのも近い。

この辺の土地景観はがらりと変わり、22年間過ごした生家は建て替えられわずかに残る家財道具や神棚や 庭石に残り香をとどめていた。もちろんこれまでもたまに来ていたので、この都市の変貌ぶりは知らないわけではなかった。しかし多くは用事を済ませてそさくさと故郷を後にしていた。

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S200866_047S200866_049 S200866_133   父母が眠る墓に行く途中の様子がまた変だ。

いつも墓の側の寺道を通って高校に通ったあの道ではない。友達がいっぱいいた駅の裏側はビル街になり寺道もお寺も区画整理され直線のストリートと頑丈な塀と立派な庭園のあるお寺に変貌していた。

当時の様子を思い出せずに思案にくれているとタクシー運転手さんが「この辺は梨畑でした」と一言。この一言がものを言った。わずかに残る残かをかぎ取ってタイムスリップ。瞬く間に当時の様子全景が顕れてきた。しかもあそこではこうやってああしてと言う場面付きであり友達付きであった。

このような場面はこれより先の老後の私をイヤしてくれるはずである。

やはり故郷は近きにありて(近くに寄せて)思うもののようだ。

注―詩人  滝廉太郎作とくんだ荒城の月や詩集天地有情で有名

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生まれて初めての座り込み。

生まれて初めての座り込み。 生まれて初めて被爆者の厚労省前座り込みに参加しました6月2,3,4  10,11,12日の6日  のうちわたしは3回。じっとしておれなかったからです。 12日雨の中たまたま隣に座り込んでいた被爆者に聴いてみました。 <私「お体はいかがですか?」 Aさん「気温が少しでも上がると頭がたまらなく痛くなりここ10年外には出れません。今日はどうしても国の人にわかってほしくて出てきました」(東京お住まい) 私「原爆症認定申請が却下されたのですね」 (却下を不服として全国305人が全国各地で集団訴訟に踏み切りうち31人の原告が当日座りこんでいました。50人は訴訟後すでに亡くなっています。時間との勝負です。裁判させるこの国の不幸を思いました) Aさん「国が決めた5つの原爆症に入らなといって却下され、一昨年9人の仲間と訴えました。3人はすでになくなりました。私は2回血をはきました」 私「大阪高裁の判決では厚労省基準5つの原爆症に線引きするのは実態に合わないふとうだとして、脳貧血の人など認める判決と聞いていますが」 昨日11日大臣の桝添氏は仙台、大阪高裁の上訴断念を表明する一方、厚労省は10日 15の裁判は継続するとし救済されるのは当裁判に限定し、後は総合判断で個々に検討する事を発表、被爆者の怒りを呼び座りこみが行われました。13の司法判断と政府の執行の乖離、矛盾はこの国が果たして法治国家であるのか、怒りを禁じ得ませんでした。司法判断に沿って改善されるものと思っていた私の不覚。高裁判決に際し被爆者に対し「重く受け止める」との言明はうそだったのか。実行してこそ言える言葉なのに  。 Aさん「放射能は内側から体をむしばんでいく事を身をもっていえるのがひばくしゃです。わかっていただけないのが悔しいです。放射能は恐ろしいです」 ビキニ、チェルノブイリ、イラクでの劣化ウラン弾などですでにわかってきているはずです Aさん「それは生き地獄でした。18歳の時陸軍兵器学校で被爆しました。500メートル先に広島師団射撃訓練場があってそこにいた兵隊はほとんどしんでしまい,6日がかりで焼きました。6年前その地に立つ学校を訪ねましたが校長は戦後生まれで知らないと言っていました。そこが何であり何があったか知りませんでした。」 私は3回の参加の中で多くの方とあい聴きました。国会前まで杖を頼りにゆっくり進むおとしをめした被爆者のデモに加わらせていただきました。挨拶に見えた各政党の議員の話も聞きました。若い弁護士たちの活躍もみました。被爆者はみんな辛酸をなめたことを控えめに話す温厚な方々でした。被爆者は尊敬のまなざしの中で救済されなければなりません。これが私の結論です。そして真の救済とは 被爆者の願いを聞き  核のおぞましさ酷さ 残虐さを知り 核とは共存できない世界のため 思想信条を超えて政治をも動かしていくことです。「その方向が見えたとき被爆者が人間として救済される」。当日終了後帰りの電車の中で語ってくれた千葉県の被爆者の言葉です。みんな考えさせられることばかりでした。来週またまた続きを書きます。

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ホーホケキョ、鳴き声千差万別の鶯たち

つゆ入り前の春先はいいですね。我が家は田んぼを下に、向かい側に森が広がっているところにあります。(写真)。起床の時ほぼ毎日遠近ない交ぜのホーホケキョの声が入ってきます。イヤされるひと時です。

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今朝はあのすんだ鳴き声の持ち主にお礼をしながら散歩することにしました。

「ケキョケキョケキョ」「ホホホホホホ ケキョ」「ピュルピュルピュル  ケキョ」「ホーホケキョ」「ホケキョ」」「ケキョ、ケキョ ケェキョ」「ホーーーーホケキョ」千差万別のさえずり。でも見事なハーモニーの合唱。時折ドデーポッポーのドバトのオオボエ、ツピィツピィツピィ、チチーチーのリズムまではいってくる。

私「すばらしい。パチパチ」と手をたたくと

「(ありがとう)ケキョケキョケキョ」とこたえてきました

「なぜ鳴くの僕のため?」ときいてみた。

鶯「貴方のためと言いたいところだがが、ちゃう ちゃうちゃう(ホーーーーホケキョケキョケキョケキョケキョ、)、この美声聴いてよ。一緒しませんかとささやいているんだ。 変な雄鶯おいだしてね(ホーホケキョ、ホホホホホホ ケキョ)」

「やっぱり彼女のためか」

「それはそうなんですが目的は子育て仕事が待ってます。すべては子孫を残すためですよ。巣作りもあるし、(ホホホホホホホホ、ホーホケキョ。ケキョケキョケキョケキョと繰り返しケキョ ホホホホホホホホ、ホーホケキョ)」ときた・

「でもね(ケケケ―10数回けたたましくケキョやホホをくりかえす----10年以上前から森が裸地となり木がたおされ住めるところがなくなってきた。 昆虫取りもできなくなってしまった。ひどいもんです。死ぬしかないですよー 」写真

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 私「そういえば開発が始まってからだんだん しじゅうがら、セキレイ メジロ じゅうしまつなどこなくなった。12種類庭先に来ていたなー。今は椋鳥、ヒヨドリ、雀にツバメぐらいしか来なくなってしまった、あのキジはどこに行ったのだろうか、ところでいつまで鳴いているの」

鶯「秋中旬ぐらいまでかな ーホケキョ。暖かいところに行くよ、戻ってこれないかも

ケケケケキョ」

私「  君は人間様のためにもないている。かってにいなくなっては困るよー」

「その人間様が  広大な森をなくしたからしょうがないではないか ケケケキョ」

1鶯10色

鶯の鳴き声は 実に万別   1鶯10色 です。

耳のいい野鳥家や音楽家は聞き分けて音色を楽しんでおられるでしょう。

加齢とともに感度が鈍くなった私ですら少しだが聞き分けられる。

最もつい最近まで 鶯と言えば正調「ホホケキョ」一様の鳴き声しかきこえなかった。

ところが1人10色ならぬ1鶯10鳴き声。みんな違ってみんないい。鳴かない雌だって 彼女がいなければ鳴き声はない。聞こえないけどいるんですね。金子みすずにあやかって言えば「見えないけどいるんだね」雄の鶯だって滅多にその姿を見えなくなった。人工ものだけ囲まれて生き物がだんだんいなくなっていく先には「全土デズニーランド化」か。

鶯はいなくなり形色具合は「うぐいす餅」に原型をとどめ「かってウグイスという小鳥がいたそうな」語る時代がくるのだろうか。 世界的食糧危機、ウグイス餅だってなくなるかもしれない

トキ 朱鷺が絶滅したのはつい最近だった。祖先たちが 見とれ感動し食卓にも上った朱鷺であった。

6月ウグイスが囀るこの森のしたにほたるがやってくる。2,3日ホタル生息地の手入れが有志によって行われた。写真200-7-12のもの15人参加草取り水路作り

07―8月  子供含め住民154人観賞

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お年寄りにとってコミニケーションは命

S2008520_086 コミニケーションは命

       70才代のAさん「私きついからね、何でもずばずばいうから」

         「(嫁さんに)私鬼婆でしょ」というと

         「(嫁さんは)ハイ」と答える。

そこで「あんたも鬼嫁だよね」というと

「(嫁さん)ハイ」と答える。  お互いに笑っておしまい。

この関係はいい。このところ地域活動の中で舅嫁の関係や  3世代同居の問題をよく耳にする。地域や暮らしに根無し草だった仕事一辺倒だった男たちの多くは舅嫁に任せて逃げ回っているようだ。その中でこの家族のオープンさは新鮮に聞こえた。それにしても男女役割分担、少数核家族を経てから引き取る祖父母の同居の問題は 至る所で同居孤独 、軋轢を生んでいるようである。私はその渦中にいないが

他人事ではない。この方のように率直でオープン、あいみたがい、尊敬しあう関係は、一朝一夕には出来ない。

お買い物お手伝いツアーの中で連れ合いがきいたことより

写真朝市光景   近くの農産物を大切にする農家と市民の会

毎週日曜日   4年目  自動車を運転できない高齢者にと

        っても貴重な企画 。おしゃべりの機会でもある

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日本語は厄介でもあり面白くもある。

Untitled_2 日本語は厄介でもあり面白くもある。

日本語には同音多義語がいっぱいあって、だじゃれになったり時に厄介な事にもなる。

幼い子供たちもこれに飛びつくようである。4人の子供同士のおしゃべりを耳にした。

 3人とも自分の名前のだじゃれで学校ではやし立てられているらしい。聴いて吹き出したくなる中身だが、彼らは大まじめだ。彼らの名誉のために名前は伏す

新学期間近なある日のこと。

8才「僕学校に行くのがイヤだなー。○○○しろといっていじめられるから」

      ○○とは彼の名前を使っただじゃれ、以下同じ

9才 「俺も言われるよ。○○○って。平気だよ」

7才「俺も、○○。○って。   あだ名はいっぱいあるよ」

3人の輪の中に4才の幼稚園児も割り込んできた。

4才「○―ネー。赤ちゃん言われるよ。もう赤ちゃんでないのにネー」

  だっこされたときに「赤ちゃんみたい」と言われたことで自尊心が傷ついたらしい。

新学期が始まって程なく8才の子が電話をかけてきた

    「学校 楽しいよ」と。

子供だって(もとい子供だからこそ)コミニケーションがありさえすれば 前向きになる。

     孫が来て 来ては喜び  孫たちが帰っては「ほっ」の人から聴きました

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